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「君、起きなさい。もう下校時間ですよ」
肩を揺すられる振動で目が覚めた。
闘威はわずらわしげにそれを払い、寝ぼけ眼をこすりつつムクリと起き上がる。
ベッドの横に、白衣を着た中年の女性が立っていた。
「……あ、保健の、」
「そう、保健の先生です。用事で空けててごめんね。具合が悪かったの? 今は大丈夫?」
「……大丈夫す。今何時すか?」
闘威が尋ねると、養護教諭は壁にかかった時計を指さした。五時十五分。どうやら寝過してしまったようだ。
「くそ、三時間目までには戻ろうと思ってたのに」
「あら、真面目なのね? 偉いわね。今日はお家でもちゃんと休んで、明日から頑張りましょう」
微笑ましげに言う養護教諭は、明らかに闘威を誤解したようだが、弘道との闘いについて説明するわけにもいかないので、闘威は無言で首をすくめた。誰からも問題児扱いされていた前の学校と違って、この学校の者は何故かみんな好意的な眼で闘威を見てくれる。色眼鏡で差別されないのはありがたいことのはずなのだが、妙に座りが悪くむずがゆい気分だった。
闘威はベッドから降りて上靴を履き、養護教諭に軽く頭を下げた。
「俺、帰ります。お邪魔しました」
「お大事にね。さようなら」
保健室を出て、そのまま昇降口に向かう。わざわざ教室まで鞄を取りに行くなんて面倒なことはしたくない。どうせ初日に持っていったときのまま、全教科分の教科書が入っているのだ。家で勉強する予定などないのだから、置き勉でもなんら問題はない。
まだ辺りは明るく、グラウンドでは野球部がよくわからない掛け声をあげて練習に精を出していた。五月の生温い風にのって、近くの花壇から甘い香りが漂ってくる。色とりどりの花が咲き乱れる様は、風流に縁のない闘威からしても綺麗だと思えた。前の学校でこの類のものを見なかったのは。植えても必ず誰かが踏み荒らしてしまうからだろう。
自転車に乗って家まで飛ばす。電車で二駅分ぐらいの距離だが、行って行けないことはない。「あんた体力あるんだから平気でしょ」という母親の一言で自転車通学は決定となった。闘威はギアを最大にしてがしがしこぐのが好きだ。信号に差し掛かる度舌打ちするくせがあり、たまたま近くにいた人をびくりとさせていたが、本人は気づいていなかった。
安アパートに辿りつくと、自転車を共通通路の端に寄せ、玄関のドアを荒っぽく開閉して、真っ先に自分の机に向かった。
鍵つきの引き出しからスマホを取り出し、ラインの『宇賀三さいきょー四天王☆』グループを呼び出す。宇賀三は、前の中学校の略称だ。宇賀市立第三中学校。今の学校とは数字の番号だけが違う。よくつるむグループのメンバーが四人なので、四天王ということにされたらしい。
闘威は、このセンスの欠片もない名称とキラキラに加工されたトップ画像を見る度、富永聡太、通称トミーの軽薄な笑顔が脳裏に浮かんできてイラッとするのだが、かといって自分で画像を差し替えるのも面倒で、結局ずっと放置したままでいる。
さして考えもせず、短くメッセージを打って送った。
『よ』
『時間あっか?』
何秒も経たないうちに、ピロン、と通知がくる。
『電話いーか?』
有名なラッパーのアイコン。ふっちんか、と闘威は少しほっとした。友人の中では一番話が通じやすい奴だ。
『おー』
返すと、間髪いれずに着信音が鳴る。
「よぉ」
「んだよ、もう寂しくなったんか? いーぜ、帰ってこいよ」
「無理だろ」
「無理じゃねーよ、多分先公も今はその方がましって思ってんぜ」
「あ?」
「だーから俺が言ってやったのにさぁ。トーイいなくなったらキツいっすよって。ちゃんと聞かねーから苦労すんだよ、ざまぁ」
「んだよ、何があった」
「めっちゃ学級崩壊してる」
「学級崩壊?」
闘威はいぶかしげに聞き返した。
以前通っていた宇賀第三中学校は、不良は多かったが生徒全体がグレているわけではなく、三分の二ぐらいの生徒は普通でありクラスに二人程度は優等生もいた。たまに素行の悪い生徒が教室に爆竹を持ちこんで騒ぎを起こす以外は、わりと平穏に授業が行われていたはずなのだが。
しかし電話の向こうのふっちんこと布施夜は、ため息交じりにぼやきをこぼす。
「っとに、お前いなくなってからマジ大変なんだよ。乱闘増えっし、三年の派閥に巻き込まれっし、トイレ潰されて使えねーし。便器壊すとかありえねーだろ、くそっ。とーぜん、犯人は二度とんなことできねぇよーにしてやったけどな。まぁ色々あって、授業どころじゃねーんだわ。そんでもトーイの籍あった時はまだましだったけど、本格的に転校したってわかってからチョヅいてんのがわらわら出てきてよ」
「は? なんで?」
「え、だってお前二年の頭だったじゃん」
当然のごとくさらりと言われ、闘威は声を荒げた。
「はぁ? んなのなった覚えねーぞ!」
「そうなのか? でもトーイは覚えがなくても、そう思われてたんだよ。お前威張んねーからまとまりはなかったけど、二年ではお前が最強だったし先輩とか先公相手でもビビんなかったろ。三年の奴ら、お前がいたから二年に手ぇ出すのはヤバいって思ってたんだぜ」
「マジか」
そういえば、と闘威は思い出す。闘威が去る間際、三年の派閥争いは激化の一途をたどっていた。学年が違うから他人事のように思っていたが、二年に飛び火しなかった理由が自分だったとは。
「三年はほら、もうすぐ卒業だろ。気合入ってんだよな。特に名雲行く奴は配下増やして箔つけてぇみたいでさ。だからって二年の最強争いに口出すなっつー」
布施の話はつらつらと続いたが、闘威には内容がほとんど理解できなかった。なにせ登場人物の九割が知らない人間なのである。矢沢先輩が新藤派について、だの、『神国』の錦野が桜井と組んで、だの言われても、何が何やらさっぱりわからない。
「矢沢先輩……?」
「覚えてねぇの? トーイ即行でボコってたろ」
「知らねー」
「まぁお前先輩に敵多いもんな」
呆れたように布施は言うが、それは先輩が悪い、と闘威は思う。偉そうに「俺の下につけよ」とのたまう輩のなんと多かったことか。キレた闘威は片っぱしから床に沈めていた。
「トーイはどーなん? 宇賀二ってどんな感じ? なんか変な噂聞いたけど」
「あー、いや、基本みんないい奴、とは思う」
「へー。良かったな。新興宗教流行ってるとか言ってる奴いたから心配してたんだ」
「それは間違ってねぇな……」
「えっ、マジ?」
というか教祖様と同クラスである。新興宗教とは言い得て妙だ。クラスメイトたちの心酔ぶりときたら、恐らく三十万の壺を買えと言われてもなんとかして金を工面するだろう。どこまで影響力を広げているのかは定かでないが、学校全体が信者でもおかしくないと闘威は思っている。弘道の人を惹きつける力はそれだけ強力だ。
しかし事情を知らない布施は呑気に笑って言った。
「ヤベェな宇賀二! コックリさんみてぇなやつ? 女子とかあーいうの好きだよな。あ、俺ら今からグランジ行くんだけど、お前も来っか? せっかくだし会って話そうぜ」
「おー、行く」
元よりそのつもりだったのですぐに了承し、闘威は電話を切った。制服からカジュアルなハーツパンツとティーシャツに着替え、ウエストバッグを装着する。
グランジは布施たちとよく遊びに行っていたゲームセンターで、家からだと今の学校に通うよりも近かった。
外に出て鍵を閉め、さきほど止めたばかりの自転車に跨る。段差をものともせずそのままガタガタと道路に降りて、闘威は力強くペダルを踏み出した。