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学校に行きたくないと思ったことは何度もあるが、まさかクラスメイトの一人に会いたくないからという理由で休むことになるとは夢にも思わなかった。そんなのはまるで苛められっ子の不登校だ。
薄っぺらい安物の布団を押し入れに押し込み、特売で買った食パンをトースターに入れる。時計はとっくに八時を回っており、今からではどう足掻いても遅刻は免れない。だからもう休んじまっていーよな、と闘威はずる休みを正当化しようとした。
本当は、六時にはぱっちり目が覚めていたのだが、昨日から引きずっている憂鬱さ、つまりは学校に行って弘道と顔を合わせたくないという気持ちに勝てず、いつまでもぐずぐずと布団に籠っていたせいで遅くなったのだ。
香ばしく焼けたトーストにバターを塗り、がしがしと齧っていると、朝から酒瓶を抱えた父親が赤ら顔でトイレから出てきた。トイレでまで酒を飲もうとするとは大したアル中である。
いつものごとく闘威は視線すら向けず無視したが、珍しく父親の方から話しかけてきた。
「おい、学校からな、連絡きてたぞ」
へぇ、と闘威は、気の良さそうな担任の教師の顔を思い浮かべる。
早退ぐらいで家に連絡とは、随分過剰な対応だ。それだけあの学校の生徒は問題を起こさないのだろう。
「昨日早退したんだってな」
少しも反応しない闘威の態度にめげず、父親は独り言のようにぼそぼそと呟く。
「……学校、行かなくてもいいが、問題起こすなよ」
それだけ言うとくるりと踵を返し、部屋の隅に行ってぐたりと横になった。
久しぶりに喋ったと思ったら毒にも薬にもならない忠告とは。いや、忠告ですらない。あれは闘威のことを想ってではなく、ただの保身である。
元から父に何の期待もしていなかった闘威は、相変わらず駄目親父だなぁと思いながらパンを食べ進めた。今日は天気がいいなぁ、と同じ程度の平坦な気持ちからくる感想である。更生して欲しいとか真面目に働いて欲しいなどという無理な願いは抱かない。暴力をふるわなくなっただけ、大進歩なのだ。
闘威が物心ついた時から既に、父親は酒浸りで碌に働かず、事あるごとに妻子を殴るような男だった。たまに日雇いで稼いでも、全て酒かパチンコに消える。母親は家計を支えるため懸命に働き、幼い息子にほとんど構ってやれなかった。幸いにも幼児の間は祖母が面倒を見てくれたらしく、虐待死する羽目にはならなかったが、五歳の終わり頃に祖母が亡くなり、それからは地獄の日々が始まった。
殴られ蹴られ首を絞められ、青あざの絶えない少年に近所の人間からは同情の目が向けられたが、だからといって助けてくれるわけではない。
闘威は父親の理不尽な暴力に怯え、なるべく気を損ねる態度を取らないように努めた。しかし、そのうちわかっていったのだが、どうも父親の暴力にはさしたる理由がないらしかった。闘威が笑えば何をにやついてんだと殴り、おとなしくしていれば辛気臭ぇガキだと殴り、泣けばみっともねぇと殴る。
傍から見れば情けない酒飲みに過ぎずとも、当時の闘威にとっての父は巨大で無敵な暴君であり、逆らうなど考えもしなかった。体格は何倍も大きく、力はけっして敵わず、何より親として生殺与奪を握られているのである。
そんな生活が一年近く続いた。母は仕事で忙しく、帰ってくると疲れきってすぐ眠りにつくので、頼りにならなかった。だがたまには合間を縫って会話できることもあり、ある日闘威は母に訴えた。
「かーさん、とーさんがなぐる。いたい」
「え、最近ないと思ってたらあんた殴ってたの」
その頃、母は父に殴られなくなっていた。さすがに働き手を失ったら自分が路頭に迷うということに遅まきながら気づいたのだろう。その分闘威に矛先が向いていた。
母は、恐らく息子に対する愛情がなくはなかったのだが、あまりに忙しない日々と重労働に心身ともに摩耗しており、気持ちが荒みきっていた。故に、ばたばたと服を着替えながら、投げやりに言った。
「やり返しゃいーじゃん、あんたも」
さっきまで着ていたパジャマを放り投げ、ちゃちな玄関の戸を開ける。
ガチャ、バタン。
仕事に向かうべく慌ただしく閉められた戸を見ながら、闘威は、あぁそうか、と思った。
やっていいんだ。あれは、やり返すことのできる相手なんだ。
そんな当たり前のことを認識した途端、頭がすぅっと冷え、代わりに腹の底からぐつぐつと湧き立つような何かがこみ上げてきた。これまで抑圧されていた心が火を噴き、マグマのように溢れ出て、もう止まることはない。
痛み、苦しみ、悲しみ、辛くてやるせないどうしようもない気持ち、たまり続けていたそんな感情が、初めて明確な形になって浮かび上がる。
それは、焼けつくような怒りだった。
あの男の都合のいいサンドバッグにされ続けるなど、到底許容できることではなかった。何故今まで思いつきもしなかったんだろう。反撃の手段はいくらでもあったというのに!
闘威の頭脳は、学校の勉強には適さなかったが、一度決めた目標を遂行するためならこの上なく優秀に稼働した。夥しい量の怒りを原動力にして、その日から父に休む間も与えず報復を喰らわせ続けた。
部屋の戸口に縄を張って父がつまづくよう仕向け、倒れたところで皿を頭に全力で打ちつける。父の目を盗み、飲みかけの酒に洗剤を入れる。殴りかかってきたら、唐辛子と胡椒を詰めた袋をぶつける。眠っているところに縄をくくりつけてぎりぎり締め付ける。
思いつくことはなんでもやった。できる限り痛い目に合わせる必要があった。散々な思いをさせられた父は闘威を殴る手を強め、今まで使わなかった酒瓶を使うようにもなったが、闘威は決して屈しなかった。
暴力を振るわれるたび、それ以上の苛烈さで仕返しをし続けた結果、ついに父親は酔っていても闘威に手を出せなくなるほどトラウマが刻み込まれ、以後二人は互いに干渉しないただの同居人となったのだ。
闘いに打ち勝ち、成長して体力もついた今の闘威にとって、父親の存在は路傍の石ころほどの意味もない。そんな父に何を言われたところで、闘威の生き方に少しの影響も出はしなかった。
朝食を食べ終えた闘威は、空になった皿をシンクに入れて水に浸し、簡単に歯磨きをする。そのあと、床に散らばっている母親の服を拾い集め、まとめて洗濯機に突っ込んだ。母は仕事、父はいないも同然なので、必然的に闘威が家事をやることになるのだ。
蛇口を捻り、じゃあああぁ、と水が溜まっていく音を聞きながら、これからの学校生活について思いを馳せる。このまま学校を休み続けるわけにはいかないだろう。義務教育なので卒業は問題ないとしても、それではあの得体の知れない少年に負けたことになってしまう。凶悪な精神攻撃からして、どう考えても人外の何かとしか思えなかったが、だからといって屈服したままではいられない。
それに、転校するにあたって新しい制服を買ってもらったのに、一度しか袖を通さないのはさすがに母親に申し訳なかった。ただでさえ、壊したもの弁償代や殴った教師の入院費を出させているのである。高い制服代を無駄にするのは気が引ける。
しかし、物理で押し切る闘いは慣れているが、精神の攻防というものはどうすれば優位に立てるのだろうか? 相手を倒せば決着がつく喧嘩なら楽なのに、とひよわげな弘道の姿を思い浮かべ、はっとする
――そーだ、いざとなりゃあいつ殴ればいーんだ。
短絡的な結論に達した闘威は、拳を握りしめ、明日はちゃんと学校行く、と決意した。