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 月曜の朝、教室に足を踏み入れた闘威は、人の多さに眉をしかめ、そーだここ宇賀二なんだっけ、と改めて思った。

 宇賀市立第三中学校では、休み明けの教室は、出席者が二割減るのが常だった。休日気分を引きずって遅刻しそうになり、諦めてそのままサボる者が一定数がいるからだ。もちろん最初から登校する意思のない者もいる。隙間の開いた生徒の列を見て教師がため息をつくまでが一セットの、定番風景だ。

しかしさすがいい子ちゃん揃いの宇賀二の教室は、いつもと変わらず人口密度が高く、朝からがやがやと賑やかである。

「なんか、C組に転校生来たらしーよ」

「え、また? 先週名護くんが来たばっかじゃん。なんで今?」

「さぁ~? 男子だって」

「ふーん。じゃあこれで、E組が一番人数少ないってことになったね」

「だねー」

 闘威とすれ違った女子二人が、最新のニュースを振りまきながら通りすぎていく。

 闘威は嫌な予感を覚え、口をへの字に引き結んだ

 季節外れの転校には何かがある。闘威は身を持ってそれを知っていた。親の仕事の都合なら、区切りのいい四月や十月になるだろう。五月半ばという中途半端な時期に転校生が来るのは珍しい。どんな素性なのか気になる。とはいえ、隣の隣の組にいるなら会う機会はほぼないだろうが。

 不良ならいい。喧嘩慣れしている闘威が負ける可能性は少ない。もし思ったよりも強かったとしても、対策の立てようがある。しかしそうではなくもっと面倒な、かつややこしい事情を持った者だったら? 闘威は弘道を知って以来、単純な物理力が通用しない相手を過敏に警戒するようになっていた。

 弘道はまだ登校していないようだったので、とりあえず手近にいた後ろの席の荻谷に尋ねる。

「なぁ、転校生の名前って知ってる?」

「え? あ、あぁ、C組の? 確か古河くんだったかな。下の名前はわかんないけど」

 萩谷は戸惑いながらも教えてくれた。知らない名前だ。闘威は布施や富永ほどの情報通ではないが、それでもよく聞く名前は覚えている。だから多分不良ではないのだろう。

「そっか。どーも」

 闘威は礼を言って、体勢を戻した。きっと考え過ぎだろう。古河くんとやらと関わる機会はそうないし、弘道のような規格外の人間が何人もいるとは思えない。

 朝の会まではまだ時間がある。暇に飽いた闘威は、せっかく昨日勉強を教わったのだから教科書でも読んでみるか、と滅多にない気まぐれを起こして机の中に手を突っ込んだ。たまたま引き当てた国語の教科書を適当に開くが、案の定五秒で挫折して頭を抱える。読めない漢字が多すぎるのだ。

「無理だろこれ……」

 まず文章を読むという行為がもう疲れる。世の中にあんなに沢山の本が溢れている理由がわからない。漫画ならともかく、何が楽しくて活字だらけで真っ黒の紙束と顔つき合わせなくてはならないのだろうか。

 苦悶に満ちた表情で唸っている闘威に、上から控えめな挨拶がかけられる。

「あの、トーイ、おはよう?」

 鞄を机に置いた弘道が、心配そうに闘威の顔を覗き込んだ。闘威は無言で国語の教科書を弘道の方に押しやる。

「教科書読んでたの? が、頑張ってるね」

「読めねぇ」

「えぇ?」

「俺、国語は駄目だわ、一生」

「そんなこと、ないよ、ほら、日本語喋れてるでしょ、だから読むのだって大丈夫。国語で文章に慣れれば、ほかの教科も楽になると思う。覚えることは文字で書いてあるし」

「……やっぱ俺には無理なんじゃねぇか?」

「トーイ、自信持って。昨日算数のドリル一冊全部終わらせたじゃん。一年分のカリキュラムを一日でやりきったんだよ。凄いことだよ」

 弘道はすとんと隣に座り、生真面目に励ましてくる。昨日弘道が用意したドリルは、単純な計算式が並び文章題がほとんどないタイプのもので、しかもページ数が少なかったので、闘威にもなんとか進めることができたのだった。本来読んで理解するべき解説は弘道が口頭でした。答えを間違えた問題も沢山ある。だが、ひとまず全部取り組んだことは確かだ。

 闘威は弘道の真剣な表情に気圧され、なんでこいつ自分のことでもねーのにこんな熱入ってんだろ、と首を傾げたが、「もう少し頑張ろ?」と間近で言われてつい頷いてしまった。呪縛は解けたとはいえさすが神子と呼ばれる男である。柔らかい笑顔で諭すように言われると、否定してはいけないような気持ちになる。

 もっとも、昨日の勉強会を終え、闘威は自分が思っていたよりも勉強が嫌いではないのかもしれないと思い始めていた。初めのうちこそ馴染みのない作業に四苦八苦して頭を痛めたが、計算式を叩きこんで解き続けていると、気づけば脳が真っ白に染まりナチュラルハイが訪れていたのだ。全能感に酔いしれながら勢いのまま突っ走り、最後は意地で気力を振り絞って問題を解き切った。あの時の達成感は悪くなかった。算数しかやらなくていいならなんとかなりそうな気がする。

「トーイは理数系なのかなぁ」

 おっとりと呟く弘道に、よくわかんねぇけどそれは理数系の奴に怒られんじゃねぇかな、と闘威は思った。間違っても数学が得意とは言えない。だって数学の課程に入ってすらいないし。

「俺理科も実験以外は十点以上取ったことねぇよ」

「そ、そーなんだ。逆になんで実験はできるの……?」

「勘」

「先生の話聞いてるわけじゃなくて?」

「先公の話かったるいんだよな。真面目に聞くと眠くなる」

「あぁ、たまにいるよね、そういう先生」

 そんなやりとりをしているうち、転校生に感じた些細な不安などすっかり忘れてしまっていた。






 折しも一時間目数学、二時間目化学と続いた授業だったが、やはり教師が唱える文句が闘威にはほとんど理解できず、どう考えても自分は理数系ではないとの認識を新たにする。かといって文系でもないだろうが。そもそもそんなことを言える段階にないのである。

 せっかく真面目に耳を傾けても、異国の言語のように不可解な言葉の羅列はちっとも頭に入って来ず、聞いた端から忘れていく。闘威は欠伸を噛み殺しながら、ひたすら時間が過ぎるのを待った。

 ――くっそサボりてぇ。サボっか。

 どうせ次の授業も、弘道の言う基礎とやらを習得してからでないと意味を為さないだろう。ならばなんのために机に縛り付けられて無駄な時間を過ごさねばならぬのか。

 二時間目が終わるやいなや、闘威はがたりと立ち上がって弘道に告げた。

「俺、次ふけっから」

「……う、うん? ふけ?」

「授業出ないってこと」

「え、トーイ帰っちゃうの」

「や、まだ帰んねぇけど。そこら辺見て回る」

「中休みの時でいいなら俺案内するよ。ほら、トーイ来たばっかりの時、すぐ帰っちゃったから誰もしてくれなかったでしょ?」

「ヒロはお悩みそーだんあんだろ」

「……みんな毎日悩みがあるわけじゃないし、いいよ、たまには休んで、も」

 そう言いながらも、弘道は少し後ろめたそうに目を逸らす。信者の期待を裏切るようで気が引けるのだろう。

 闘威の見たところ、弘道に相手してもらう者たちの訴えは本気の悩みが三割、どうでもいい相談が四割、あとの残りは弘道と話したいだけというような他愛のない内容だった。無理をして相手をしなければならないようなものではない。

 後ろめたさなんか蹴っ飛ばして捨てちまえと言いたいところだが、長年続けてきたものを止めるのには勇気がいるのだろう。

「あれいつから始まったん?」

「うーん、始めようとしたわけじゃないんだけど、普通にしてても色々な人に相談されたり懺悔されたりするから、せめてこの時間内にしてねってことでああなったんだよね。学校って時間割がちゃんと決まってて助かるよ。突然声かけられると適切な応答がし辛いんだ」

「へぇ」

「最初どこ行く? 一階から回ってみる?」

「まーテキトーに、任せる」

「わかった。一応樹里人に今日はやらないって言っとくね……あれ? 樹里人どこかな」

 休み時間だというのに、なにかにつけ弘道の前に現れる西野が珍しく来ていない。闘威が辺りを見回していると、ガラリと戸を開け教室の外から入ってきた西野と目が合った。後ろに見覚えのない少年を連れている。

あからさまに闘威を無視してふいと顔を逸らした西野は、連れの少年を引っ張るように手首を掴んだ。

「古河くん、まだ神子様とお会いしてないんだよな? 腰抜かさねぇように気をつけろよ、すげぇ感動するから」

「神子様?」

「お名前は細谷弘道様なんだけど、みんな神子様ってお呼びしてる。古河くんもそうしたほうがいいよ」

「はぁ……」

 いまいち状況を把握していない怪訝そうな顔で、古河と呼ばれた少年は間の抜けた返事をする。

 強引な西野に流されるまま弘道の前に引っぱりだされ、そうして彼は、雷に打たれたようにびしりと固まった。直立不動の体勢で口を半開きにし、わなわなと小刻みに震えだす。

「あ、あ、あ……」

 初めて弘道に会ったときの自分もこんな感じだったのだろうかと、闘威は他人事とは思えぬ気持ちで古河の様子を眺めた。

 古河は弘道を凝視したまま引き寄せられるようにふらりと近づき、見開いた目から壊れた蛇口の如くぼたぼたと涙を落としていく。身構えた西野が釘を刺すように鋭く睨んだのも気づかず、勢いよく床に身を投げ出し、平伏した。

「も、申し訳ありませんでしたぁ!」

 突然の謝罪に、皆の頭に疑問符が浮かぶ。弘道に初めて会った者が感動するのはよくあることだが、何故謝罪をするのだろう。

「どうしたの?」

 周囲の突拍子もない行動に慣れている弘道が、戸惑う事もなく尋ねると、古河は弱々しい声で絞り出すように言った。

「細谷さん……いえ、神子様」

「うん」

「ど、どうかアホな俺を許してください! こんな、まさかこんな方だと、思わなかったんです、俺ほんとに、神子様がいるとは思わなくてっ」

 必死に要領を得ない弁明をするが、何を謝っているのかよくわからない。弘道が鷹揚に微笑んで聴いていると、古河はぐずぐずとべそをかきながら、俺は生きていく資格がないです、神子様の前にいるのも恥ずかしいです、とやたら自虐的なことを言いだし、床にがつがつと頭を打ち付けだす。相当弘道の神聖オーラの影響が強いようだ。

 一歩間違えば自分もこうなっていたのかとぞっとしている闘威の隣で、微塵も悪意のない元凶が笑顔で優しく諭す。

「落ち着いて古河くん、自分を傷つけるのは良くないよ」

「み、神子様! なんて優しいお言葉を……!」

涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔を上げた古河は、感極まって一際大きくしゃくりあげ、直後とんでもない爆弾を落とした。

「お、俺、実は密偵だったんです。神子様のことを調べるようにって、ある組織から遣わされてっ……な、名前も、古河じゃなくて清水っていって……!」

「なんだと! てめぇ神子様に害を為そうとしたのか!?」

 西野がいきり立ち、古河改め清水の胸倉を掴んだ。持ち上げられてつま先立ちになった清水は、西野の鬼の形相に悲鳴を上げる。

「樹里人、下ろしてあげて」

 弘道が静かに(たしな)める。途端に西野はぱっと手を離し、放り出された清水は床に両手と膝をついた。

「謝ってるんだから怖がらせなくていいよ。清水くん、どういうことか詳しく話してくれるよね?」

「はっ、はい! もちろんです、神子様!」

「うん。ここではほかの人達の迷惑になるから、あとで樹里人と話しあって。まぁ俺はさ、別に隠すようなこともないから、調べたいなら勝手にすればいいよ。清水くん、これから学友としてよろしくね」

「神子様……! あ、ありがとうございます! 俺、一生ついてきます!」

 清水は祈るように胸の前で両手を組み、感涙に咽び泣いた。自分は下心を持って近づいたのに、なんと慈悲深い処遇だろう。弘道の寛大さに感銘を受け、これからはこの方に誠心誠意お仕えしようと心に誓う。

 俗世の垢を全て洗い流したかのように安らいだ表情で弘道を見上げる清水の後ろ首を、西野が猫の子を掴むように持ち上げる。

「神子様、今取り調べをしてきてもよろしいでしょうか? 事は一刻を争います。この者が知りうる限りの情報を引き出さねばなりません」

「わかった。手荒にしないようにね」

「かしこまりました。おいてめぇ、立てよ、行くぞ」

 後半はどすを利かせた声で清水に命令し、西野はまた教室の外に出ていった。休み時間も残り少なだが、西野は基本的に優等生とはいえ弘道絡みの事を全てに優先させているので、こういう時は授業をサボるのも躊躇しない。

 成り行きを見守っていたクラスメイト達は、これで一件落着と言わんばかりに、各自元の作業に戻っていった。授業の準備をしたり、シャーペンに芯を詰めたり、お喋りに興じたり。特に先ほどの出来事について盛り上がったりはしない。

 いまいち展開について行けていなかった闘威は、弘道に身を寄せて尋ねた。

「おい、ある組織ってなんだよ」

「さぁ」

「ヒロも知らねぇのか? なんでそんな冷静なんだ? お前のこと調べるために転校までさせるって相当だぜ」

「たまにあるんだ、こういうの」

「はぁ!?」

 声を荒げる闘威に、弘道は淡々と言う。

「さすがに組織に狙われたことはなかったけど、いきなり殴られるとか刺されそうになるとか」

 地味でおとなしげな風貌には似合わぬバイオレンスな環境である。弘道の到底鍛えているとは思えない線の細い体を上から下まで眺め、闘威は率直な感想を述べた。

「よく今まで無事だったな」

「周りが応戦してくれるから、俺は楽だったよ。あっという間に乱闘が始まって、気づいたら全部終わってるんだ」

「はぁ……つってもこえーだろ」

「そんなには」

「そーか? 肝座ってんな」

「うーん、そういうのじゃないと思う。多分ちょっと麻痺してる。あと俺がしっかりしてないとみんなやりすぎちゃうから」

「何を?」

「リンチ。樹里人は粛清って言ってるけど、意味は同じだよね。俺が怯えてたりすると、みんなパニックになって、襲ってきた人をめちゃくちゃに殴り出すんだ。怖くて近づけないでいたら、襲ってきた人、サンドバッグ状態になって、警察が来た時には死にそうになってた。まぁそれで、リンチした人の何人かは大人だったから逮捕されちゃって」

「マジかよ……」

 闘威は唸った。道理で最初からこのクラスの人間にまったく警戒されなかったわけだ。そんな定期行事があるなら、多少いかつい外見をした中学生など怖くもなんともないだろう。弘道が宇賀三時代の闘威の暴力沙汰を聞いて怯まなかったのも納得がいく。

「じゃーあれか、お前の信者の何人かはムショにいんのか」

「そうなるね」

「一気に規模広くなったなぁ」

「大人の方が厄介なんだよね。行動力も発言力も経済力もあるから」

「お前の親とかは?」

「うーん……まぁあの人は俺の意思をだいぶ尊重してくれるし勝手なことしないからまだいいよ」

「勝手なことって、何されんだよ」

「知らないうちに宗教法人作られてたことが何回かあってさ」

「しゅーきょーほうじん?」

「受理されるにはいくつかの条件をクリアしないといけないんだ。二年以上存続してるとか、その宗教が所持してる敷地建物があるとか。本当ならそんなぽんぽんできるものじゃないはずなんだけど……」

 暴走した信者が、単なる同好会ではなく、公的に認められた組織にしてしまったらしい。さすがに弘道もそれは断固拒否して、解散させたそうだ。大人の信者ともなると権利も行動範囲も広がって始末に負えない、と嘆息する弘道に、闘威は何とも言えない顔になった。悪意がなくても嫌がらせは成立するようだ。

「しっかし、お前の信者になるにしても、なんかすげぇ個人差あるよな。転校生、清水だっけ? みんながあいつみてぇにヒロ見た途端土下座するわけじゃねーだろ?」

「そうだね。感受性が強い人、勘が鋭い人なんかは相当俺が神々しく見えるみたい」

「あーなるほど」

 闘威は頷いた。それで久能の比較的緩やかな信仰に説明がつく。とても純粋で人の好い少女だが、心配になるほど鈍感なのだ。闘威のあからさまな嘘さえ見抜けないほど鈍い。あれは天性の性格なので、周囲の信者を強制的に久能程度の信仰レベルに落とすことはできないだろう。

 チャイムと共に教室に入ってきた初老の英語教師は、筆箱が出ているのに本人が座っていない机を見て不思議そうな顔になり生徒に問いかけたが、「西野くんが神子様の敵を尋問してます」という答えを聞いてあっさり納得した。

 外国の言葉使うくせにそこはほかの奴と同じなんかよ、とサボリそこねた闘威はげんなりしながら理不尽な感想を抱く。教科書の表紙で呑気に笑っている金髪の男に、八つ当たりのように爪を立てた。




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