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次の日、憂鬱そうに弘道の家を訪れた闘威は、それでも律義に筆記用具を持参していた。弘道は闘威の顔を見るなり、気まずげに目を逸らし、後悔した様子でごめんねと謝ったが,闘威はぐわしと掴んでその口を塞ぎ、覚悟を決めた目で「一度約束したもんはやる」と言い切った。かくして、今まで一度たりとも自主的に勉強などしてこなかった少年の、初めての勉強会が開催されたのである。
弘道が用意した何枚かのプリントを解いた結果、闘威の知識は最高でも小学校三年生レベルだということが発覚した。中学校の授業が理解できないわけである。
予想はしていたものの酷い結果にげんなりした闘威を励ましつつ、弘道は適切な教材を選び、丁寧に解説しながら教えていった。
「漢字は完全に暗記だね。とにかく書いて手で覚えてくのがいいよ。英語も暗記だけど、本格的にやるのは中学からだから、すぐに追いつけると思う。数学は基本的なパターンさえ覚えちゃえば大丈夫。文章問題だって、題材はほぼ決まってるから、あとは慣れだよ。九九は覚えてるみたいで良かった。でも六の段と八の段が怪しいかな。寝る前に毎日唱えてれば一週間で完璧になるよ。社会科は教科書をざっとでも読めば流れはわかると思う。つまらないなら歴史漫画読めばいいかも。何が面白いか調べとくね」
弘道は優秀な教師だった。本人いわく、頭は良くないがその分どこで躓くのかもわかるとのことだ。おかげで闘威は疑問を抱いたら即解消することができ、なんとその日のうちに四年生までの算数ドリルを終わらせてしまった。完全に理解したわけではないが、とりあえず問題をどう解けばいいのかという基礎の道筋は叩きこまれた。
慣れない頭脳労働で疲れ切った頭が重い。前のめりに上体を倒して、闘威はテーブルに突っ伏する。
「俺こんな長いことべんきょーできたの初めてだわ……お前すげーよ」
「トーイが頑張ったからだよ。俺はちょっと手伝っただけ。やっぱりトーイ、地頭はいいんだよね。飲み込み早いし」
弘道は嬉しげに言って、キッチンに引っ込んだ。少しして、苺がいっぱいに盛られたガラスの鉢を持ってくる。
「頭使うと甘いもの欲しくなるでしょ?」
傷一つない瑞々しい赤い果実は、白昼色の灯りを反射しつやつやと宝石のように鮮やかに輝いている。どう見ても気楽に買えない高級果物を差し出され、闘威はさすがに遠慮しなくてはならないような気持ちになったが、純粋に喜んで欲しそうにしている弘道の顔を見て、まぁいっか、と結局手を伸ばした。弘道にとって、勉強を教えるのも値段の張る食べ物を供するのもなんら負担になるようなことではないのだ。闘威が努力して弘道と仲良くしているわけではないのと同じことだ。お互いやりたいことをやって、それが相手のためになっているなら何も問題はないのだろう。
「うーまい」
「良かった」
弘道は満足げに微笑む。
苺本来の味もさることながら、普段使わない頭を使ってぐったりしていた闘威にとって、噛みしめる度口の中に広がる甘い果汁と適度な酸味は最高の御褒美だった。
もぐもぐと夢中で頬張るが、ふと弘道が何か言いたげにこちらを見ていることに気づく。
「んあ? あに?」
「あ、うん、えっと……できれば、なんだけど」
伏せ目がちに目線を落とし、口ごもったあと、弘道はちらりと闘威を窺い見た。
「勉強、続けてやらない? 今日はもう終わりだけど、来週とかさ……せっかくここまでできたんだから、これで止めたらもったいないよ」
「……んー」
闘威は口の中に突っ込んだ大きな苺を咀嚼し、眉根を寄せる。
「……めっちゃ疲れた」
「ご、ごめん」
「や、違くて。ヒロの説明はわかりやすかった。先公がべらべら言ってんの聴くより百倍まし。でも俺の頭が追っつかねぇ」
「……そっか、残念……ごめん、余計なことして」
弘道は俯いた。あまり表情に出さないようにしているが、へにゃりと眉尻を下げ、緩く下唇を噛んでいるところを見るに、どうやら気落ちしているらしい。
項垂れている弘道を見て、気づいたら闘威は「やんねぇとは言ってねぇ」と口走っていた。
「……え?」
「べんきょー会、いんじゃねぇの。暇な時にまたさ。いつにする?」
重ねて言うと、弘道は驚いたように顔を上げる。
「い、いの……トーイ、嫌がってたのに……」
「いーよ。つかお前こそいーのか、めんどくせぇだけだろ、馬鹿に教えるなんて」
「トーイは馬鹿じゃないよ、めんどくさいなんて全然、絶対ないから、いつでも言って」
弘道はぱぁっと笑顔になり、口元を綻ばせる。
「でもどうして、あっ、もしかして気を遣ってくれた……? む、無理はしなくていいから……」
一転、おろおろし始めた弘道の口にも苺を突っ込み、闘威は渋面で唸った。
「やるっつったらやる。俺が決めたんだから、ヒロのせいにしたりしねぇよ」
「……ん」
苺を食んだまま、弘道は神妙に頷く。
闘威は内心、なんだか勢いで口を滑らせてしまったという少しの後悔がなくはないものの、不思議と撤回する気持ちにもならず、継続的に弘道に勉強を教えてもらう約束をしてしまった。
その後は黙々と口を動かして鉢を空にし、弘道がお土産を持たせようとしたのを押しとどめて帰路につく。
道すがら、闘威は風を切って自転車を飛ばしながら、俺なんであんなこと言ったんだろーなぁと漠然と考えた。予想よりも手ごたえがあったとはいえ、勉強なんて疲れるし面倒だし大して必要性も感じていないしで、わざわざ勉強会をするほどのやる気はなかったのというのに。苺は美味しかったが、あれは別に勉強の御褒美というわけではない。弘道はいつだって美味しいものを出してくれる。
だが、家に辿りつきテレビ台の前に出しっぱなしにしていたゲームのコントローラーを見た時、あぁ、と納得がいった。
多分、弘道が喜ぶ顔が見たかったのだ。
弘道は基本的ににこやかだが、それは彼が楽しさを感じているからではない。彼が言うところの保身の一つだ。闘威はそのことを知ってから、無性に弘道の純粋な笑顔を引き出したくなった。
初めてそれを目にしたのは、弘道が彼の事情を打ち明けた日だ。帰り際の闘威に、思わず感情が零れたというような控えめな笑顔を向けた。それまでの乏しい表情に比べれば素直に嬉しげにしている顔は印象的だったが、まだどこか怖々とした遠慮があった。二回目はゲームに熱中してやっと闘威に勝てたときで、長時間共に遊んだだけあって打ち解けたのか、喜色満面と言ってもいい無邪気さを感じた。三回目は今日、闘威が勉強に取り組んでいるとき。どこに楽しい要素があるのか闘威にはよくわからないが、埋められていく空欄を微笑みながら眺めていた。
気を抜いている時に出る弘道の笑顔は、信者を安心させるための仮面のようなよそよそしさがない、自然な笑顔だ。あいつはそういう顔してんのが一番いい、と闘威は思った。ゲームで勝てた時の誇らしげな顔、ポテトチップスを食べる前のわくわくしている顔、闘威が苦闘の末問題を解き切った時の嬉しそうな顔。諦念の殻を脱ぎ捨てて心から喜ぶ弘道が見たい。
闘威は今まで誰かのために尽力したことはなかった。いつだって自分のしたいことをしたいようにしていた。だが、したいことが弘道の幸福を追求することなら、それはそれで構わない。闘威にとって大事なのは、自分の自由意思だ。今日の勉強に纏わる一連の行動は、けして強制されたものではない。ならば何も問題はなかった。
すっきりした気持ちで踏み出した足が、何かに躓いてつんのめる。
「いって!」
悲鳴をあげて睨みつけた先には、転がる酒瓶があった。またかよ。びきりと青筋を立てるが、家に着いた安心感と共に急激な睡魔が襲ってきていて、怒ることすら億劫だ。
疲労でぼんやりと霞む頭では碌なことは考えられない。体はほとんど動かさなかったのに、普段使っていない脳を駆使したせいで妙に気怠い。闘威は服を脱いで風呂場の籠に放り入れ、寝間着代わりのスウェットに着替えた。そのままばふんと隅に積まれた布団の山にダイブする。広げて敷く余裕もない。柔らかい敷布団に顔を埋め、あっという間に眠りの世界へと旅立っていった。




