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「はよ、ヒロ」
転校五日目の朝、闘威は時間に余裕をもって登校し、不自然に離された机の位置を戻しながら、相変わらず後光を背負っている隣の席の級友にごく一般的な挨拶をした。それは転校初日から一方的に挑んでいた闘いに終わりを告げた瞬間であり、その代わり始まった新たな闘いの幕開けの合図でもあった。
弘道は驚いたように肩を跳ねさせ、ぎこちなく闘威に顔を向けた。ざわりとどよめいたクラスメイト達を気遣わしげに横目で見ながらも、隠しきれない嬉しさを滲ませた笑顔で返す。
「お、おはよう名護く、トーイ」
ざわめきが増し、辺りで不穏な視線が飛び交った。ぴしりと張り詰めた空気は、下手な刺激を与えたら一気に爆発してしまいそうな危うさがある。クラス中の生徒が目を剥いて凝視してくる様に、闘威は鼻を鳴らした。名前呼んだだけでこれかよ。ばっかじゃねーの。
ふと思いつき、弘道に近づいて肩に腕を回すと、そこらじゅうから耳をつんざくような奇声と怒号が浴びせられる。教室はあっという間に混乱の坩堝に叩き込まれた。数人の女子が衝撃のあまり泣きだし二人の生徒がばたりと倒れ、残りの者は信じられないというように口元を押さえて青ざめている。後ろの席の荻谷が懸命に何かを言ってくるが、周りの喧騒にかき消されてさっぱり聞きとれない。
闘威は弘道の肩に回していた腕をほどき、人差し指で自分の耳に栓をした。
「うぜぇ」
甲高い女子の悲鳴、声変わりした男子の濁った罵声、椅子を蹴倒す音としゃくりあげる泣き声が入り混じり大変なカオスと化している。
「大丈夫?」
不安げな弘道に尋ねられ、闘威は肩を竦めつつ席についた。
「ま、なんかあっても俺が怒られるだけだろ。この程度で駄目んなる奴はお前がいてもいなくても生きてけねーよ」
「いや、気絶した子ももちろん心配なんだけど、それよりトーイが」
「俺? 全然へーきだぜ、あいつら怒鳴るだけじゃん」
むしろ久しぶりの阿鼻叫喚が懐かしい。宇賀三にいた時は、四方八方から囲まれて怒鳴られるなど日常茶飯事だった。遠巻きに罵ってくる奴らなどなんとも思わない。殴りかかってくるなら願ったりかなったり、元々それが闘威の得意分野なのだ。ここ最近の鬱憤をまとめてぶつけて暴れてやりたい。
だが弘道は、パニックに陥るクラスメイトたちを放っておけなかったようで、席を立って一人ずつ落ち着かせに回った。と言っても、ただ肩や背中などの体の一部を優しくたたくだけなのだが。とんとん、と弘道の手が触れた端から皆が正気を取り戻していく光景は見物だった。
やっぱすげぇな、と闘威は改めて思う。弘道の力は強大だ。使いようによっては凄まじい数の人間を救う事が出来るだろう。問題は、使う本人が永遠に救われないということだけだ。
弘道が宥めたおかげで騒音は止み、教室は元の落ち着いた雰囲気に戻った。何人か闘威を睨みつけてくる者はいるものの、視線が隣の弘道にいくと、途端に浄化されたように安らいだ表情になる。この調子では、百年経っても弘道が平凡な人生を歩むことはできないだろう。
席に戻った弘道は困ったように眉尻を下げ、ごめん、と闘威に謝った。
「トーイが普通に接してくれても、みんながいちいち過剰反応しちゃうんじゃ大変だよね。め、面倒だったら、あんまり、学校では話さないように、すれば、」
段々小さくなる弘道の声を遮るように、闘威はしっかりした語調で言う。
「別にいーよ。お前はどーなん?」
「え」
「ヒロは、めんどくせーと思ってんの? あいつら慰めて回んなきゃいけんくてさ。まー俺はあんなんほっといていーと思うけど」
「俺は全然……慣れてるから、面倒とは思わないよ」
「慣れてんのかよ」
「うん。大勢が恐慌状態になることは珍しいけどね。初対面の人に泣きつかれたり、物凄く感激されたりすることはよくある」
「げぇ」
闘威は嫌そうに顔を引き攣らせ、がたがたと乱暴に椅子を揺すった。
「それずっと?」
「そうだね。物心ついた頃から」
「あ゛ー、ほんとお前……くそっ」
誰に対してというのでもなく悪態をつく。そんな環境は面倒以外の何物でもない。弘道の動じなさは、やたらと感情の波が激しい周囲の人間に対応していく過程で培われたのだろう。
「あいつら意思弱すぎんじゃねーの? ヒロが出してる変な空気って確かにすげーけどさ、それに違和感もないってどーいうことだよ」
「トーイが特別なんだよ。今まで例外なくみんなああなったんだから」
弘道は冷静に言う。
「まぁ、まだ樹里人が登校してなくて良かった」
「樹里人?」
「西野樹里人。髪が茶色っぽくてふわふわしてる。ハーフみたいな見た目で、鼻が高い美形。よく俺の傍にいるから、トーイも見てると思うよ」
「あいつか」
確かにあいつはヤバそうだ、と闘威は同意した。弘道のためなら命も捨てそうである。信者の中でもことに過激派という印象だが、久能の口ぶりからするにあの程度では『狂信者』とは呼べないらしい。信者間でも眉をひそめられるような『狂信者』はどれだけヤバいのだろうか。
どんなエピソードが出てきても驚かねぇぞ、と覚悟して弘道に向き直り、闘威は、あれ?とその顔をまじまじと見つめた。
「お前、目ぇ赤くね?」
「そ、う?」
弘道は引きの体勢になって誤魔化すように目を伏せる。しかし眼球だけでなく、周りを縁取る皮膚もほの赤いので印象は変わらない。
「目っつーか、目の周り? なんかちょっと腫れてるみてぇな……掻いたのか?」
「あ、うん、そう、痒くて、ね」
「花粉症? あんま掻くなよ、良くないらしーぜ。目薬持ってっか?」
「家に帰れば」
「持ってくりゃいーのに」
「今度はそうするよ」
弘道は、腫れぼったい目で控えめにふわりと笑った。薄く色づいた目元はどこか情けない印象を与え、人間らしさを強調している。闘威は何とも言えない顔でため息をついた。
「どうしたの」
「や、俺なんであんなお前に振りまわされてたんだろってな」
「今は大丈夫なんだ?」
「まぁまぁ。やっぱほかと違う感じはあっけど、俺より上の奴とは思わねー。すげぇキレイですげぇ正しいみてぇなオーラはあっても、否定できねーほど強くねぇし、お前が人間だってわかる度にどんどん薄くなってく」
「……そっか。良かった」
弘道が噛みしめるように言ったところで、近くで「西野、はよー」という声が聞こえ、闘威は身を固くした。
――来たぜ。
弘道に目配せすると、小さく頷かれる。じきに西野はこちらに来るだろう。何かにつけ弘道の近くにいたがる男だ。闘威が弘道に敬語を使っていないと知ったら間違いなく咎めてくるから、うっかり殴りつけぬよう気をつけなくてはならない。自分の意志を貫き通すためなら暴力を振るう事に躊躇のない闘威だったが、西野に宇賀三のルールは通用しないことは本能的にわかっていた。あれは殴られて折れるタイプではない。むしろ拗れる。
案の定、クラスメイトとひとしきり挨拶を交わした西野は、長い脚を有効活用して颯爽と歩いてきた。
「神子様、おはようございます。朝から神子様のご尊顔を拝見できるとは、私はなんて幸運なのでしょうか。お優しく哀れみ深き神子様の御加護で、今日も素晴らしい一日となるに違いありません」
「おはよう、樹里人。何か用事が?」
大げさな褒め言葉はスルーして弘道が尋ねると、西野は目を輝かせながら身を乗り出した。
「さすが神子様、全てを見通すご慧眼に感服するばかりです。新組織を立ち上げるにあたって、神子様からご命名を賜りたいと思いまして」
「組織? あぁ、みんなをまとめるやつか。なるべく無難なものがいいな。候補はあるの?」
「はい、ございます。僭越ながら、私含む有志の間で提案されたいくつかの候補を挙げさせていただきます。まず、神子様のお名前の読みを変えて弘道教――」
「それはちょっと」
珍しく苦い顔で弘道は却下した。傍で聞いていた闘威も、そりゃ自分の名前を入れられるのは嫌だろう、と思う。しかも『○○教』なんてあからさまに宗教だ。
西野はへこたれず、続けて言う。
「お気に召しませんでしたか。申し訳ございません。ほかには、神子様の光り輝く御姿を元にした『聖なる光』、神子様のお優しい御志を表す『救世会』、神子様のお導きに従うという目標を掲げることから『希望の道』などがございますが、如何でしょうか」
自信満々に候補名を並べる西野は、目の前にいる『神子様』の表情が少しずつ曇っていくのには気づいていないようだ。
闘威はよっぽどこのとんちんかんなことを言うイケメンに蹴りをかましてやろうかと思ったが、それをしても何も解決しないことは明白だったので、机の下でうずうずする足を必死で抑えていた。小刻みに上下する膝が机の裏にぶつかってガタガタと鳴り、派手な貧乏ゆすりと化している。
喧しい隣席は一顧だにせず、弘道はいつもの口角を上げた柔らかい顔を作り、おっとりと言った。
「……気持ちは嬉しいけど、もう少し地味な、落ちついた名称にならない?」
「かしこまりました。引き続き組織名検討会議を行ってまいります。神子様のお心を煩わせてしまい申し訳ありません」
「うん。ほどほどにね」
「はっ」
西野は綺麗に腰を曲げてお辞儀をし、踵を返す。
闘威はやりとりを眺めていただけだったにもかかわらず妙に疲れを感じ、机に突っ伏した。
「あいつマジめんどくせえぇ」
唸るように言うと、弘道が苦笑する。
「樹里人はね……悪気はないんだよ」
「つってもあいつが言ってた名前、ガチ宗教じゃねーか。こえーよ」
闘威は宗教に偏見はない。人に迷惑かけねーなら勝手にやればいんじゃん、と思っている。だが当の信仰の対象が嫌がっているのに祭り上げるのはあんまりだ。
弘道は顎に手を当て、悩ましげに尋ねた。
「どういう名前にすればいいと思う、トーイ。俺がきっかけで人が集まった組織だから俺と全然関係ない名前ってわけにはいかないだろうし」
「関係なくたっていーだろ、なんかふわっとしたやつにしときゃーさ。お前がたんぽぽが好きとか言えばたんぽぽ会になんぜ、きっと」
「なるほど。いい考えだ。ありがとう、トーイ」
弘道は感心したように胸の前で小さく手を打つ。
「あとで樹里人に伝えとこう」
「おー」
「でも樹里人も丸くなったみたいで良かったよ。前だったら、トーイに怒ってたと思う」
「は? なんで?」
あいつがいるとき一言も喋らなかったのに、と闘威が口を尖らせると、弘道は首を振って、樹里人の忠誠心を甘く見ない方がいい、と言った。
「トーイ、机ガタガタさせてたでしょ? 一年前の樹里人だったら多分粛清モードに入ってたよ。神子様の御前でうるさくするとはけしからん、みたいな」
「細っけぇな!」
「そのぐらい俺に傾倒してるんだよ。そんなに気を使われたくないって言ったら、ちょっとはましになったけど」
「信じらんねぇほど馬鹿だな……」
げんなりした闘威は半目で小さくなった西野の後ろ姿を見やる。おそらく一生理解できない相手だろう。なるべく関わらないで過ごしたいが、そうもいかないのだろうな、と強張るこめかみを揉んだ。




