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名護闘威が最初に違和感を抱いたのは、担任の教師に紹介された時だった。
若く爽やかなその男性教師は、なんのてらいもない笑顔を浮かべて親しげに話しかけてきた。
「わからないことがあれば、なんでも聞いてくれよ。初めは慣れないと思うけど、心配しなくて大丈夫。うちのクラスはみんな仲良しで、優しい子が多いからな」
転校生に向ける教師の言葉としては、ありきたりなものだ。気さくに闘威の肩を叩く動作は自然で、裏に何か秘めた感情があるようには見えない。だからこそ、闘威は気味が悪かった。
この教師が、闘威の転校の理由を知らないはずがない。表向きは親の都合ということになっているが、実際は前の学校で担任の教師に掴みかかり病院送りにさせたことが原因だ。それまでも何回か問題を起こしていたこともあり、公立中学校であるにもかかわらず事実上の放校処分となった。
正確に言えば、ほかの生徒や教員に危害を及ぼす恐れがあるとして、出席停止措置が取られたのだ。人に怪我をさせておきながら、校長の前で反省する気は少しもないと言い放ったのだから、当然と言えば当然だった。闘威には闘威なりの言い分があったが、それが世間に受け入れられないであろうことは承知していた。
闘威を危険視する学校と、学校に反発する闘威。歩み寄れない両者のやり取りは不毛な展開に終始し、ちっとも復学の目途が立ちそうになかった。いい加減学校は見切ってこの歳でもできる仕事を探すべきか、と闘威が思い始めた頃、良かったらうちで引き取りますよと名乗りを上げたのが、近くの宇賀市立第二中学校、つまり今闘威がいるこの学校だった。
こういう経緯を知っていれば、『問題児』に対して多少の警戒はするはずなのだが、何故か新しい担任は緩みきった表情で、呑気に体育祭の思い出を語り始めていた。
「そう、それで細谷くんの一言でクラス中が団結して、優勝を狙ったんだ。当然のごとくうちのクラスが勝ったよ。あ、当然って言うのは良くないかな。もちろんほかの組の子たちもとっても頑張ってた。みんな楽しみつつ全力を尽くしてたと思う。だけどなんといってもうちには細谷くんがいるからね! 文化祭の出し物も、この調子で投票一位を狙う予定なんだ。名護くんも加わるから、きっと今まで以上に素敵な文化祭になるな。名護くん、楽器とか弾ける?」
闘威は、中学二年生にしては背が高くがっしりしている。髪は短めのウルフカットだ。スポーツやってる?と聞かれたことはあっても、楽器の話題を振られたことはなかった。実際ピアニカとリコーダー以外は触ったこともない。
「……弾けないです」
「そうなんだ。でも大丈夫、先生がちゃんと教えるよ! 名護くんは大きい楽器が似合うんじゃないかな。力が強そうだからね。名護くんが来てくれて助かるよ。うちのクラスはいい子ばかりだけど、大人しくてちょっと活気が足りない気がしてたんだ」
はぁ、と適当に相槌を打ちながら、闘威は、やけに喋る先公だな、と思っていた。変な男だ。しかし腹が立つほどではない。むしろ好感が持てる部類だろう。なんといってもこの教師は『親しみやすさ』に特化していて、闘威が一番嫌う高圧的な態度が微塵もなかった。あまりにあっけらかんとしているものだから、こいつはあの乱闘騒ぎのことを知らないんじゃないかという疑いが首をもたげてくる。そんなはずはないのだが。
じゃあ教室に行こうか、と言って教師は廊下を歩き出した。その間も、クラスの様子を話し続けている。やたらと『細谷くん』という名前が出てくるので、こいつがクラスの中心なんだな、と闘威は理解した。教師の言葉を真に受けるなら、性格のいい人気者なのだろう。
「ここだよ」
教師は2-Aと書かれた札の前で立ち止まった。ガラガラと戸を開けて、中に入る。闘威は少しだけ躊躇ったのち、あとについて入った。
黒板の前に立ち、クラス中の目に晒されるのを感じる。好奇心を前面に出し身を乗り出している者、闘威を見ながら隣同士で内緒話をする者、興味なさそうに消しゴムを弄っている者など、様々だ。この中の何人が闘威の素性を知っているのだろうか。あるいは全く誰も知らないのか。どちらでも構わなかったが、教師の不思議な態度に触れた後なので、どういう反応をされるのかは気になった。
新しい学友たちは、男子は詰襟の学ラン、女子は紺色のセーラー服と、いたってありきたりな制服を纏っており、以前通っていた学校の生徒のように髪を染めたり制服を着崩したりする不良ぶった輩はいなかった。目つきもぼんやりしていて、危機感のなさそうな緩い雰囲気や隙だらけの体勢が担任そっくりだ。
「みんな、もうわかったと思うけど、転校生だ。名護闘威くん。今日からこのクラスに加わることになった。じゃあ名護くん、簡単でいいから自己紹介してくれ」
教師の溌剌とした声に促され、闘威は不愛想な顔のまま口を開いた。
「名護闘威です。……よろしくお願いします」
言い終わって教師を見ると、教師は残念そうに眉を落とす。
「うーん、もうちょっとなんか言って欲しかったな。まぁ、でも詳しいことはこれから仲良くなればわかるだろ! よし、名護くん、後ろの方のあの空いてる席に座ってくれ。神子の隣なんてみんなに羨ましがられるぞ!」
教師が言った途端、教室中がざわめいた。
「えっ、神子様の隣!?」
「マジかよ」
「ずりぃ」
「しょうがないよ、転校生なんだし。きっと慣れるまでの間だけだよ」
「くそ、俺も転校生だったら……」
「神子様のお傍に居続けるなんて大丈夫なん?」
「私なら嬉しすぎて勉強できないかもー」
「だよねぇ」
馴染みのない言葉がどんどん耳に飛び込んでくる。
――みこさま? おそば?
闘威は戸惑いながら、教師が示した方へ向かった。
どういうことだ。同級生に様付けをするなんて聞いたこともない。それとも『みこさま』という一つの名前なのだろうか。闘威の友人にも変わった名前の男がいるが――。
「……あ」
指定された席の隣には、おとなしげな少年が座っていた。一見何の変哲もない地味で淡白な容姿だが、明らかにほかの人間とは格が違う。
闘威は右手に持っていた鞄を取り落とした。全身が総毛だって鳥肌が立つ。少年の放つ清浄な空気に呑み込まれ、汚れきった心が浄化されていくような気がした。今までの自分の行動や考えの全てを懺悔したいと思うが、同時にそれが既に許されていることを知る。無責任な許容ではなく、理解しつくされた上で、慈しまれているのだ。偉大な存在は矮小な人間にも導を与え未来を照らしてくれる。
そう、正に少年は『偉大な何か』だった。とても人の言葉では形容しきれない素晴らしさ。とにかく絶対的で、圧倒的で、例えようもなく神々しい。彼にすべてを任せるのが正しく、彼の言葉に従うのが道理で、彼の為に生きるのが幸福なのだ。
闘威は今まで経験したことがないほどの感動に打ち震え、飽和する多幸感に浸った。目の前の少年にもっと近づきたい、だが畏れ多くてとても近づけはしない。
硬直して立ち尽くす闘威に少年は優しく微笑み、きらきらとした光を巻き散らしながら立ち上がった。
「はじめまして。俺は細谷弘道っていいます。これからよろしく」
闘威を見上げたその瞳には、宇宙が宿っていた。深遠なる神秘の色。果てしなく深い闇の中で星が瞬いている。全ての真理が詰まっているように感じられた。
闘威はその場から少しも動けないまま、少年――弘道を見つめた。弘道に出会えたことはこの上なく幸運で、もうこのまま死んでしまってもいいぐらいに満たされた心地だった。しかしこの卑小な命も彼に尽くすためにあると思えば
――違うだろ。
無視していた違和感が牙を剥く。
身をつんざくような鋭い怒りが脳天から体中を駆け巡る。
がんがんと頭蓋の中で警報が鳴らされ、奥が割れるように痛み、幸福感を台無しにした。闘威は重い手をのろのろと持ち上げ頭を抱える。痛みは凄まじく不快だったが、排除するわけにはいかなかった。この違和感には、覚えがある。抑圧を跳ねのけ、支配を砕かんとする本能。それは闘威の本質だった。鮮烈な怒りが湧き上がり、馴染んだ反抗心が急速に膨らんでゆく。
闘威はずっと抗い続けてきた。自分に物事を強制する者は誰であれ敵だった。親も、教師も、先輩も。相手の身分も自分の立場も関係ない。闘威を思い通りにしようとするならば均しくその怒りを受けねばならない。誰かの下につき言いなりになるような醜態は、死んでも我慢ならなかった。
違和感は、これは俺の気持ちじゃないと叫んでいる。俺はこんな奴知らない。こんな奴に従わない。こんな奴に負けてたまるか!
闘威の類稀なる矜持は、安易かつ安楽な道に進むことを拒絶し、彼を心身ともに最悪な状態に陥らせた。
極度の緊張により全身が発熱する。汗が噴き出し、内臓が反乱を起こしたかのように踊り出し、背中を悪寒が走り抜ける。
信じられないほどの喜びと激しい嫌悪感が脳裏を渦巻き、闘威を苛んだ。
「……ぅえっ、う、ぅええええぇ、ぐ、ぅ」
最高に幸せだった。最高に腹立たしかった。
背反する感情に気が狂いそうになり、苦しみの吐き出し口を求めるようにえづく。
挙動不審な転校生を心配してか弘道が手を差し伸べたが、後ずさってそれを避け、闘威は必死に目線を振り切った。底知れない瞳から逃れ、強張りの解けない体を引きずって、教室から飛び出していく。
引き留める声が聞こえたが、そんなものにかかずらっている余裕はなかった。一刻も早くあの訳のわからない少年から離れようと、ひたすら足を動かし人気のない廊下を突っ走る。
――あいつヤバいあいつヤバいあいつヤバい、なんかわかんねぇけど近づいちゃいけねー気がする、すげぇ気持ち悪ぃ頭ん中ぐちゃぐちゃだ、これ以上ないぐらい幸せだと思うのにそれが間違いだって俺は知ってる。
階段を四段抜きで駆け降り、下駄箱から靴を引っ掴んで、昇降口から弾丸のごとく飛び出しても焦燥は止まらなかった。脇目もふらず一心不乱に走り続ける。
闘威の鬼気迫る形相に、すれ違った中年女性は目を丸くして見送り、ぶつかりそうになった自転車の青年は急ブレーキで体勢を崩し横転しそうになっていたが、混乱を極めている脳内にそんな情報は一切入って来なかった。
行く先も決めずに疾走し続けていたが、やがて肺活量の限界が訪れ、息を切らしながら立ち止まってしまう。辺りを見渡すと、見慣れないビルが並んでいた。どうやら学校付近の住宅街ではなさそうだ。『休憩四千円』『スナック美亜』『クラブwindy』乱立する派手な看板が、猥雑な雰囲気を漂わせている。
闘威はようやく胸を撫で下ろし、曲げた膝に両手をついて荒い呼吸を繰り返した。
「……はっ、はぁっ、はぁ、はぁ……」
急に走ったから胸と腹が痛い。どくどくどくと速いテンポで鼓動が鳴るのを感じる。だがそんなわかりやすい辛さは、全く苦にならなかった。あの少年の異様な神聖さに抗う苦痛に比べたら、ただの生理現象などどうということはない。
息を整えた闘威は、高い日差しに照らされどこかうらぶれた風情の歓楽街の中を歩きだした。鞄を学校に忘れてきたことに気づいたが、取りに戻る気にはなれなかった。
多分ここが一番安全な場所だろう、と直感的に闘威は思う。ラブホテルの安っぽい看板を見て、こんなに安堵する日が来るとは思わなかった。ここならあの少年は絶対やって来ない。一瞬後、自分の思考に苛立ちを覚え、眉を寄せる。
――絶対? なんでだ?
確かに、弘道とかいう少年の真面目そうな様子からして、授業中に学校を抜け出して歓楽街に行くようには見えない。だが、今思った『絶対』はそういう予想から来るものではなかった。もっと感覚に由来した、それでいて疑いを挿ませもしない――
「……くそっ!」
コンクリートの地面を蹴りつけ、闘威は悪態をついた。
感覚、そう、それが問題だ。闘威は、清廉な弘道はこんなところに来るわけがないと決めつけていたのだ。彼が清廉かどうかなんて、まったく知りもしないのに。
弘道から離れてさえも、自然に起こる自分の感情を信頼しきないことを思い知らされ、闘威はがくりと項垂れた。
謎の少年にかけられた呪縛は、いまだ完全に解けてはいないようだった。