八話
じとじとと雨が降る中、淡雪は一人剛ノ町の東端に位置する剛ノ商店街に御使いで来ていた。差し傘を差して歩く淡雪を、通りすがりの町人たちが何度も振り返った。この町の次期領主の恋人だからなのか、もとから美人で瓦版にも載るほどだったためか、淡雪はこの剛ノ町ではすっかり有名人だった。しかし、淡雪は自分が有名になることをあまりよくは思っていなかった。淡雪が町で有名になればなるほど、町の人々は淡雪から離れていってしまう。それは、町の男が淡雪を高嶺の花として見ていたり、町の娘が美人の淡雪を妬んで裏で悪い噂を流そうとしていたりするからである。美人は有名になる。有名人は目立つ。それ故、他人の反感を買いやすいのだ。
だから、淡雪には友人と言える友人がいなかった。強いて言うならば、お隣の秋咲くらいだろう。近所の家の娘たちも淡雪とは距離を置いていたし、女友達は一人もいなかった。信頼できる女友達がいないというのは淡雪にとっては相当大きな問題で、荒野のことは勿論、親のことも相談できる相手はいないし、淡雪だって普通の娘なのだから、女友達と買い物をしたり甘味屋で他愛もない話をしたいのだ。そんな淡雪の純粋な願いも知らず、町の娘たちはどんどん淡雪から遠ざかっていった。
「御免下さい」
今日、淡雪は母紅雪に頼まれて紅雪の知り合いの藍屋に御使いに来ていた。何でも、その藍屋を営む老夫婦の次女に紅雪がお世話になったらしく、そのお礼にと何か藍染を買う約束だったらしい。紅雪は仕事で忙しいとかで代わりに淡雪が、という訳である。何でも良いから藍染を買って来いと頼まれた淡雪は、良い物があれば荒野にも買って帰ろうと思った。今日は荒野が父親の手伝いで淡雪と会えないのだ。毎度のことだが、今日も淡雪はぶつぶつと心の中で自分を責めたり荒野の父荒原に嫉妬したりしながら藍屋まで来た。
「いらっしゃい。おや、これはこれは…。荒野様の恋人の淡雪ちゃんじゃあないかい。こんな店に何の用だい?」
嗚呼、やっぱりだ、と淡雪は藍屋の女将と思しき老女に落胆した。そう、淡雪は荒野様の恋人の淡雪、と呼ばれることをひどく嫌っていた。荒野の恋人と言われるのは良いのだ。いや、むしろそれは淡雪にとっては相当喜ばしいことのはずだ。しかし、淡雪はその呼ばれ方をされると、何だか自分の存在を認めてもらえていないようで怖くなって嫌なのだ。荒野あっての淡雪。荒野無しでは認知されない淡雪。勿論淡雪のことを荒野の恋人の淡雪と呼んでいる張本人たちはそんな気はさらさら無いのだが、いや、淡雪自身もそのことはわかってはいるのだが、淡雪の細かいことを気にしすぎる気質のせいなのかそういう意味に聞こえてしまってしょうがないのだ。
「あの、今日は母に御使いを頼まれまして…。私、藍屋に来るのは初めてでして、何か女将さんのお気に入りだとかお勧めの物はありませんか?」