三話
「それじゃあ、淡雪、留守番とお使いよろしくね」
「はい、母様。お気を付けて」
「ええ。行ってきます」
初夏の生温かい風を受けながら、今日も淡雪は淡海と紅雪に手を振って見送りをする。淡雪は、紅雪が曲がり角を右に曲がって見えなくなった音も、さわさわと揺れる街路樹をぼうっと見つめていた。今日は荒野が急遽父親の仕事の手伝いで、淡雪と会う約束を先送りせざるを得なかったのだ。淡雪は寂しさと少しの諦めで朝から剝れていた。しかし、淡雪が剝れたところで荒野と会うこともお喋りすることも出来ないわけで。
淡雪は少し目を伏せてくるりと着物の裾を揺らしながら家の中に戻った。下駄を脱ぐとすたすたと玄関のすぐ右脇の台所へ行き、一番奥の角に置かれた雑巾掛けから比較的新しめな綺麗な雑巾を一枚とその横に置かれた桶を取って、桶の縁に雑巾を掛けた。そしてもう一度玄関を出ると、裏庭の隣の家の秋雷親子と共用の井戸で桶に水を汲んだ。
「あれ、淡雪?どうしたん。今日は恋人の荒野様とは会わんのか」
丁度水を汲みに来た隣人秋雷の一人息子の秋咲が少し訛った言葉で淡雪に話しかけてきた。淡雪は秋咲に気付くと、ぱっと顔が晴れた。
「秋咲さんじゃないですか。最近会ってないうちにまた背が伸びました?」
秋咲は、淡雪の言葉に一瞬目を瞬かせ、やがて吹き出した。
「なんやの、それ?どこの小母さんの世間話やの。背が伸びました?って言うたぞ、まだ十五の淡雪が…っ」
「も、もうっ。何なんですか?本当のことを言っただけですよ?」
淡雪は何が何だか分からず、少し顔を紅潮させながら怒った。淡雪が九つになってすぐに遠く西の方から隣に引っ越して来た秋咲は、淡雪の四つ上で淡雪にとっては兄の様な存在だったが、秋咲は淡雪に会う度に淡雪をからかって遊んでいた。
「いや、うん。そうやけど…。あまりに小母さん臭かったもんやから、すまん。…で、質問の答えは?」
「え?あ、ああ…。その、今日は急にご用事ができたようで…先送りに」
淡雪は急に剝れ顔になって、ぶつぶつと聞き取りにくい声色で言った。それを見た秋咲は一瞬むっとしたように目線を斜め下に落としたが、すぐに淡雪に向き直り、桶に水を汲みつつ言った。
「そうかそうか。そりゃ残念や。やけど大丈夫!町で一番美人で家事も出来て嫁にしたい娘で瓦版にも載ったくらいや。そう簡単にそんな娘手放しやせんやろ」
淡雪は剝れ顔をしたまま、秋咲を横目で睨んだ。秋咲は困った顔で「まあまあ、ほんまの話しやろ?」と言って淡雪を宥めた。
「そうだと、いいんですけど…」
「おやおやー?淡雪、もしやとは思ったけど偽りの恋人だとか言うときながらほんまに好きになったんと違う?」
「ひいっ」
秋咲はずいっと淡雪に顔を寄せ、その反動で水の入った桶が揺れて水が淡雪にも飛び散った。にやにやと笑う秋咲の顔を見つめる淡雪の顔はどんどん赤みが差してきて、淡雪は右手に持った桶に視線を落とした。
「図星やな」
「いだっ?!」
秋咲は面白そうに言うと、ぴんっと淡雪にデコピンをした。淡雪が「いえ違いますよ!本当に違いますよ!」と反論する声も聞かず、秋咲はひらひら手を振りつつ淡雪に背を向けた。そしてのらりくらりと家の方に帰って行った。
淡雪はデコピンされた額を空いている左手で押さえながら秋咲の帰って行った方をじっと睨んだ。
「あーあ。それがほんまやったらええのになあ…」
帰り際、秋咲が呟いたその声は淡雪には聞こえてはいなかっただろう。