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九月九日

作者: 谷川瑞生

 九月九日の夜に、酒を飲む。

 部屋から月明かりが降り注ぐ外を眺める。遮るものがないせいか地上よりも近く、はっきりと月の光を感じられるだろう。

 さっそくブランケットと椅子を用意し、部屋の中を薄暗くしたのち、外に出る。両手には酒瓶と盞をぶらさげて、そこに座るのだ。

 盞は毎月廿日に催される骨董市で見つけてきた代物。寺院の門の付近で店番をしていた気さくなお兄さんと交渉のすえに私の手に渡った。表面はすべすべとしていて撫でると気持ちがいい。仕事で落ち込むことがあれば、つい、指で盞のはらを撫でてしまう。つるつると、何のつっかえもなくなめらかにすいついて、ちょっとした癖になりつつある。表面の多少の起伏もさながら内に蕾を開きそめる菊の花が興趣を添えている。私を瞠目させたのは、そればかりではかった。

 透明度の高い酒の中で菊の花は、蒲公英より控え目で上品な色合いをしている。花片はふくふくしく、葉が艶かしく揺れている。

 昨年もそうだった。

 酒もいくらか進み、部屋に戻って寝ればいいところを、ベランダでうつらうつらとしていた。身体がぶるりと震え、重い瞼を開ける。右手の盞に酒が残っていたので仰いだ。それまでの、舌がぴりぴりしたものと明らかに違う。幾分か目がさえる。飲みすぎ、はじめはそう思った。

 月を眺めながら酒を飲むのは終いにして片づけようとすれば、水の跳ねる音に動きを止める。真夜中であるのと酔いのせいで過剰に反応しているのだと言い聞かせる。

 しかし気になるので音がした方向に視線を落とせば、盞に透き通った液体が注がれていた。月明かりにほの白く照る盞の内に描かれた菊の花片がほろほろとこぼれ、涌き出るように水面に浮かび、露の玉を飾りつけて、たゆたう。まるで花の果肉のようだ。

 花片も液体もあふれそうで、引き寄せられるように口をつければ、果汁を飲んでいるようで甘く、さらっとした芳醇な酒だった。

 世の中にはこんなにも美味しい酒があるのか。ちょっとだけ長く生きてみるもんだ。

 ぼうっと見ているうちに、いつの間にか眠っていたらしく、気がつくと月は雲に隠れ、盞の中身も空っぽだった。

 また九月九日の夜に酒瓶と盞を用意して飲むことにした。秋に吹く風はやはり涼しく、夜になれば気温もぐっと冷え込み、膝もとにブランケットをかけて暖をとる。月明かりに隠れる星たちの光を想像しながら酒を味わう。

 あれこれと酒を試してみたが、前のように起きることはなかった。どうやら盞にも酒の好みがあるらしく、蕾の開き具合が違うようだった。ちなみに私が飲んでいたのは蒸留酒の一種だ。そこに注げば菊が生き生きして、酒も美味しく感じられた。だがあの味ではない。何かが足りなかった。その日でしか飲めない酒を、待ち焦がれていた。

 盞をそっと撫で、時をしばし待つ。

 ほろ酔いになる頃に盞の内に月の光を溜めて花片がめくれあがり、小さな気泡を立てる。

 今年も飲めそうだ。私はこの一時のために生きている。

 堰を切ったようにあふれる菊の酒に誘われて、一口飲んだ。

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