サーカス・闇夜の宴
サーカスにはファンタジーと夢を人は見に来る。漠然と。移ろいやすい気持ちのままに。人生の様々な重荷、負債、こじれてしまった人間関係、金銭問題、将来、未来への不安。それらを全て清算するために人はサーカスの興行に身を委ね、一時的にフィクションの世界に逃げ込む。それがサーカス団「メリーゴーランド」の興行主であり、団長でもある香川家斉の考えであり、思想だ。
2022年、日本は21世紀最大の不況に悩まされていた。株価は暴落し、海外ビジネスは次々と破綻し、挫折していた。
徳永穂積は東京に拠点を置く服飾ブランド「モナコ」の会長だ。「モナコ」は安倍政権の後押しで、東南アジアに進出し、続々と店舗拡大をしていたブランドだった。だが安倍政権の対外政策、外交の失敗の煽りを受けて、ビジネス規模は縮小し、次々と撤退を余儀なくされていた。
さらに信頼していた部下、役員達の裏切りにより、会社資産を奪われ、徳永は負債を抱えた企業の頭領として孤立無援の状態にあった。そんな折、学生時代からの親友、勝美真司の誘いを受けて、サーカス団「メリーゴーランド」の興行を観に行くことになった。
こんな時期、この状況下でサーカスのお遊戯会を観に行くなど、と初めは躊躇っていた徳永だが、茫洋とした不安、幻想への憧れ、耽美なものへの誘惑に負けて彼は「メリーゴーランド」の興行に身を委ねた。彼もまた、人生の負債、重荷、そして絡みついたしがらみ全てを破棄して幻想の中へ逃げ込んだ人間の一人でもあったのだ。
サーカスの日。彼はあてがわれた座席に着くと、興行に没頭し、夢中になった。軽妙でいて蠱惑的な音楽が流れる中、現れたクラウンが身振りでサーカスの演目の趣旨を説明する。そして乾いた笑い声をあげて、観に来ている聴衆を笑いものにした。すると鎌を構えた死に装束の男がクラウンの首を切り落とす。叫び声と悲鳴が挙がると、クラウンの姿は紫色の煙に紛れて消えた。
それからは徳永にとって正に現実逃避のファンタジーそのものだった。玉虫色の服を着こんだ紳士が空中ブランコで宙を舞い、その途中で炎に包み込まれる。片目を仮面で隠した艶やかな美女達が舞台中央に設えられた巨大プールでシンクロナイズドスイミングを見せて、肌を一瞬露わに見せたかと思うと泡に成り変わって行く。刀剣を構えた男達がジャグリングを繰り返し、最後は身を切り刻みあって闇に消えて行く。
その全ての演目が徳永にとって魅力あるものであり、現実を忘れさせるに十分な出来栄え、代物だった。中でも特に徳永の心を奪ったのはボディペインティングを施し、口元を赤いマスクで覆ったディーヴァ・歌姫だった。彼女は金の装飾をされた朱色のドレスを身にまとい、その妖艶な歌声で会場を包み込んだ。そして妖しげで挑発するような視線を向けて舞台裏に立ち去って行った。
「見たか。あの女。まるで会場中の男を全て誘惑したみたいじゃないか。最高だ。あんな女が傍にいるならな」
勝美は、恍惚とする徳永に話し掛けた。徳永は愉悦に浸り、勝美の言葉が耳に入らないようだった。そしてサーカスの興行は花火と演者の肉体美の共演を以て、終わりを告げた。幕を降ろした舞台をいつまでも見つめながら徳永はこう呟くしかなかった。
「凄い。このサーカスの興行主に感謝の気持ちを伝えたい。何とか会えないか」
その言葉を聴いた勝美は、大丈夫。団長とは知り合いだからと、徳永を楽屋裏へと連れて行った。楽屋裏入口で徳永と勝美を待ち構えていたのは、小人症で、舞台では悪戯好きな道化を演じた男だった。小人症の男は、徳永と勝美を招き入れるとこう口にする。
「団長、香川家斉は繊細で、ナーバスな心持ちの持ち主。どうか刺激しないようにお気をつけあそばせ」
そして小人症の男は団長室、香川家斉のもとへと二人を案内して行く。長々と続く細い通路を歩きながら、ふと徳永は気が付いた。一緒にいたはずの勝美の姿が消えているのだ。遠目で見て、勝美がシンクロを泳いだ美女達と酒をあおっている姿が一瞬垣間見えたように思えたが、それは泡沫のように消えた。
不安が徳永の心を過ったが、それよりも徳永の好奇心と快楽への欲求が上回った。彼、徳永は小人症の男に案内されるまま、団長、香川家斉の控室へと向かう。控室の前まで来ると、小人症の男は恭しく一礼をして立ち去っていった。こう一言言葉を添えて。
「どうか甘い官能に身を任せられるように」
徳永は忘我の心持ちで香川の控室の扉を開けた。そこには質素な籐椅子に腰掛ける香川が煙管を吹かせていた。香川の顔立ちは細長く、切れ長の一重で、薄い唇と筋の通った鼻が、彼の酷薄さと冷淡さを表しているようでもあった。徳永はそれからのことはよく覚えていない。とにかく今日の興行への賛辞、感嘆の想いを伝え、言葉を尽くして香川とサーカス団「メリーゴーランド」を誉めそやした。香川は酩酊感のある瞳で徳永を見つめる。
「あなたの賛嘆の想いは十分に伝わった。ところで私に何の用だ。何が目的だ。サーカスとは気紛れで移ろいやすい幻想。一時的なものでしかない。その官能と愉悦は決して長続きはしない。それを求める人間は……」
そこまで口にして香川は口を閉ざした。徳永はどこか自閉的で、心を閉ざした印象のある香川にもまた魅了されてしまった。徳永は香川に頼み込む。
「あなたの人柄にも惚れ込んでしまった。今日我が社の主催する晩餐であなたを持て成したい。どうか来てくれないか」
その頼みを聴いた香川は退屈そうに宙に視線を送ると、口から煙管の煙を吹き出した。煙は徳永の顔を覆い、嘲弄しているかのようでもあった。
「晩餐? つまらないな。私の周囲は常に魅惑とファンタジーに溢れている。退屈な企業家連中と食事をする趣味は、私にはない」
香川に頼みを断られて、徳永は瞬時愕然としたが、尚も香川に想いを伝える。
「私は……、私は苦しいんだ。あなた方のような魅力ある人々と交流がしたい。親しくなりたい。そして叶うならば親友になりたいとさえ考えているんだ」
それを聴いた香川は屹然と籐椅子から立ち上がり、口元に手をあてて冷たくほくそ笑む。
「親友? あなたが欲しいのは『親友』ではなく『官能』だろう」
その指摘に徳永は返す言葉がなかった。確かに親友や友人として捉えると、「メリーゴーランド」の人々は謎めいていて、信頼に足り得ない。部下に裏切られたばかりの徳永にとってはそれは大きなマイナス要因だった。徳永が躊躇っていると、その心を見透かしたかのように香川は、徳永を連れ立って奥の部屋へと彼を招き入れる。
「『官能』ならこの世界。『我々の世界』に幾らでもある。なぜならそれは私達にとってありふれたものだからだ」
香川が徳永を招き入れた奥の部屋には、豪奢な金色の刺繍を施されたベッドがあった。そこではあのボディペインティングのディーヴァ・歌姫が誘惑するように横たわっている。彼女は右手で徳永を招き寄せてこう口にする。
「おいで。少年」
もう徳永を自制するものは何もなかった。彼は誘われるまま、ディーヴァのベッドへと歩み寄っていく。徳永の耳には香川の囁く言葉が、こう耳に響いたようにも思えた。
「どうか『闇夜の宴』をお楽しみあれ」
それからは徳永は肉欲の赴くままに、ディーヴァとの情事に溺れて行った。徳永はディーヴァの纏った数少ない衣装をはぎ取り、彼女の胸元に手を伸ばす。徳永の唇は彼女の唇に吸い寄せられていく。徳永の指先はディーヴァの陰部に触れ、彼女を濡らしていく。瞬く間に時は過ぎ行き、永遠とも呼べる時間が終わった。そして徳永は官能の夢から覚めた。ディーヴァは優しく微笑み、徳永の傍に横たわっている。それは徳永の味わった快楽の名残でもあるように思えた。
徳永は自分のしでかした行為がどこか大きな失態であるようにも思えていた。自分は大きな過失、過ちを犯してしまったのではないかと、そんな恐怖、不安にも襲われていた。やがてその予感は的中する。徳永は急激な目眩を覚えた。手足がガタガタと震え、冷や汗が体中から溢れてくる。彼の体は強張り、憂鬱と倦怠だけが心を覆う。そしてどれだけの時間が過ぎた頃だろう。徳永は気が付けば、見知らぬホテルの一室で座り込んでいた。彼の傍には注射器が転がり、ドラッグの名残であろう粉末が散らばっていた。
一室には悪夢にうなされる勝美の姿もあった。徳永は自分のしでかした行為、体験を理解出来ずにただ呆然と立ち尽くしていた。ただ確かに分かるのは部屋の外から警官と思しき人物たちの足音と声が響いていることだった。徳永の耳には、またも香川がこうそばだてたようにも思えた。
「『闇夜の宴』の対価は大きなものだよ。坊や」
そうして徳永の快楽と興奮は両手に嵌められた手錠とともに終わった。全てを失った徳永はこう呟く。
「『サーカス』は気紛れで移ろいやすい幻想。それを求めたものは……」
徳永は搬送される車の中で自分の半生が半ば、失われたのを知った。
香川家斉。サーカス団「メリーゴーランド」の興行主兼団長。彼は今日も絶望の淵にある人間を見つけてはこう囁きかける。
「人はサーカスに夢とファンタジーを見る。あなたも泡沫の夢を見に……ようこそいらっしゃい」