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岸間と恋慕と妄想と

 叩きつけるような雨が、降り続いていた。


 地に伏せるは一人の少年。

 全身の至る所から流れ出た血は留まる事を知らず、彼の元から去っていく。

 その日、彼の人生は途絶えかけていた。

 暴走した軽乗用車に撥ねられるという、どこかありふれた終幕によって。

 後悔はなかった。

 ただ、一つだけ悔いは残った。

 生涯で一人だけの想い人。

 彼女に、好きだと言っておきたかった。

  

 天を拝むは一人の少女。

 全身の複数箇所に刻まれた痣は消えることなく、彼女を縛っている。

 その日、彼女の心は壊れかけていた。

 親からの虐待という、どこか聞き覚えのある理不尽によって。

 後悔することさえ頭に浮かばなかった。

 ただ、一つだけ願うことはあった。

 生涯で一人だけの想い人。

 彼に、好きだと言ってもらいたかった。


 叩きつけるような雨が、降り続いていた。




 最初に言っておくが、これは夢だ。

 もしくは妄想だ。

 遅れてきた思春期が演出する痛々しい幻想の類だ。

 ……たとえそうだとしても、なかなか胸に来るものがある。

「おかえり、零士」

 こうして、恋い焦がれてやまない相手にエプロン姿で出迎えられるというのは。

「今日も一日お疲れ様。ご飯にする? お風呂にする? それとも、私? ……………なんちゃって」

 えへ、と照れたような微笑み。とても同年代とは思えない大人びた表情にほんのりと朱の色が差す。あまりの可愛らしさにキュン死しかけると共にそれを超える羞恥に軽く死にたくなる。

 彼女の、藤島絵梨のこんな表情を俺は一度たりとも見たことがない。というのによくもまあここまで鮮明に想像できるものだ。自らの妄想力に思わず感嘆の息が漏れる。

「……何か言ってくれないと恥ずかしいんだけど」

 半目で睨んできた藤島に慌てて言葉を返す。

「メシにしてもらえるか? 昼を軽く済ませてしまったから」

 苦笑交じりにそう告げると、藤島はむ、と顔をしかめた。

 そして突きつけられた人差し指に俺は思わず後ずさる。

「駄目だよ、ご飯はちゃんと食べないと。お昼からの授業をちゃんと受けられなくでしょ」

「あ、ああ………それもそうか」

「なんだったら私がお弁当作ってあげよっか? それならしっかりと食べ」

「結構だ」

「そう……」

 残念そうに眉を下げる藤島。いや、藤島手作りの弁当など喉から手が出るほどのプレシャスなのだが、哀しいかなこの藤島は妄想の産物、料理など出来ようはずもない。これから食卓に並ぶであろう夕食も含め藤島が作った料理は全て俺が自ら料理したものであり、溢れんばかりの妄想力によってそれを「藤島の手料理」と認識しているにすぎないのだろう。料理にかかるであろう時間もテレビ視聴などしてもしなくても変わらないような作業を当てることによって違和感を失くしている。もはや洗脳の類である。

 再度溜息が漏れる。

 想い人と同棲しているなどという馬鹿げた妄想をしてしまうほどに、俺は飢えているのか。飢えた狼なのか。

「じゃあ、今からご飯作るからテレビでも見てゆっくりしてて」

 エプロンを翻し長く艶のある黒髪を揺らしながらぱたぱたと廊下を駆けていく藤島の後ろ姿に思わず見惚れていることを鑑みると十二分に飢えているのだろう。 

 まったく、恋の病とはよく言ったものだ。

 あまりの幸福感にこのままでもいいかと思ってしまう自分に呆れながら、俺は一人暮らしには広すぎる我が家へ足を踏み入れた。

 先月末の交通事故で俺は軽乗用車に撥ねられたわけだが、その際に頭を少し痛めてしまったのだろう、病院から愛すべき一軒家に帰宅した時からエプロン姿で俺の帰りを待つ藤島の幻影を目にするようになった。

 正直、そこまで彼女に引かれているつもりはなかったから、当初は驚きを隠せなかった。

 藤島は可愛いというより綺麗という形容が似合う女子生徒だった。

 長く艶のある黒髪は道行く人の目を引いたし、凛と整った容姿は同性さえ惹きつけた。男目線で語るならばその胸部装甲の薄さがやや気になるところであったが、それもスカートからのぞく肉感豊かな太腿を目にすれば忘れてしまうほどのささやかな問題だった。

 だが、そんな見麗しさを備えながらも異性からの人気はそれほど高くなかった。

 どうも彼女には愛想というものがなく、いつもクールに澄ました表情を保っていた。

 同性の友人と談笑に耽る時でさえ、そこに浮かぶのは控えめな微笑みだけ。

 愛想さえよければ学校のアイドルと言っても差支えないと俺は常々思っていたのだが、そんなお節介じみた願望が今現在、卓袱台の向こうに座る彼女に控えめながら思いやりに満ちた微笑みを浮かべさせているのだろう。

「どう? おいし?」

「ああ、うまい。すごくうまい」

 目の前にあるオムライスがメインバイ俺であるという事実はしかと認識しているが、それでもこうして小首を傾げながら料理の感想を聞かれると頬が緩んでしまう。

「ふふ、よかった」

 破顔し、その小さな口にオムライスを運ぶ藤島。妄想の癖に飯を食っているのかと当初は驚いていたが、よくよく考えるとこれも俺が二人分食しているのだろう。食料はちゃんと二人分消費されているし。イメージとしてはゲーム内の彼女の分も食事を用意するような感じだろうか。なんというか、切ない。

「どしたの? そんな溜息吐いて」

「いや………自分も世俗に塗れているのだと思うと、気が重くなってな」

「ふぅん、大変だね」

 俺の発言を適当に流しつつ藤島はオムライスを切り崩し、ふと俺の口元に視線を向けた。

「ケチャップついてるよ、零士」

「まあ、オムライスだからな。仕方あるまい」

「取ってあげ」

「いや、いい」

「遠慮しなくていいよ」

「虚しさが増すからやめてくれ………」

 自分で自分の口の端からケチャップを拭い、その上で赤面するなど正気の沙汰ではない。現状でも既に人間として駄目な部類に足を突っ込んでいるとは思うが、そこまでやってしまうと同時に人間として大切な何かを失ってしまう気がする。

「むぅ………」

 不機嫌そうに小さく顔を膨らませる藤島。この表情も見たことがない。元々、藤島と親しい間柄にあるわけでもないのだ。よくありがちな、クラスの憧れの存在。それが俺にとっては藤島だった。

「えい」

「おぅ」

 唐突に伸びてきた指に侵攻を許してしまった。

 毒々しいほどに赤い調味料を拭った指は三秒ほど停止した後、

「…………はむ」

 彼女の薄桃の唇に挟まれた。

「ふ、藤島……」  

「………………」

 思わず絶句する俺を他所に、藤島は眉間に皺を寄せたまま食事を再開する。

 その頬は隠しきれないほどに赤く、彼女の心が羞恥で満ちていることは見て取れた。

 泣きたい。

 憧れの存在である藤島に対し何という妄想をぶつけているのだろうか、俺は。

 何度も言うが、こんな乙女な藤島など一度たりとも目にしたこともない。新妻のような尽くす所作も乙女のような頬の赤らみも完膚なきまでに俺の妄想である。女に幻想を抱きすぎてはいないだろうかと我ながら心配になる。

「…………零士」

「うん?」

 俺の名を呼んだ彼女は皿の横にスプーンを置き、

「……………ん」

 目を閉じた上で顔をこちらに突き出してきた。

「……なんだ?」

「ん、ん!」

 言葉では語らず、ほっそりとした人差し指で自分の口元を指している。

 そこには小さな赤の汚れが。

「ケチャップが、付いているな」

 うんうんと頷く。

「………取れと言うのか」

 うんうんと頷く。

 瞬間、脳裏に虚空へと手を伸ばし何かを拭う独身男性の姿が浮かび、げんなりとする。

 だが、

「うー…………」

 いつの間にか目を見開き、拗ねた子犬のように睨んでくる彼女を見ると旅に出てもいないのに恥をかき捨てられる気がしてくるから困る。

「………まあ、さっき拭ってもらったからな」

 気持ち程度の言い訳を並べた上で、恐る恐る彼女の口へと手を伸ばした。

「あ…………」

 再び目を閉じた彼女が喜色を含んだ呟きを漏らし、緊張からだろうか身体を震わせる。

 温かく、柔らかな唇。

 とても妄想のそれとは思えない。

 この時ばかりは、自らの妄想力に感謝した。

「ほら、取れたぞ」

 口元からケチャップを拭ってやると、藤島は目を開きくすぐったそうにはにかんだ。

 しかし、魅力的な彼女の表情はすぐさま真剣な面持ちへと変わり、俺の人差し指を、ケチャップで汚れた人差し指を凝視し始める。

 彼女の言わんとしていることはすぐに分かった。

「…………舐めろと言うのか、俺に」 

 呻くように呟いた俺に、藤島は目を逸らしながら拗ねたように口を尖らせた。

「私も、舐めたし」

「押し売りもいい所じゃないか……」

 三度溜息。こんなベタ甘な触れ合いを俺は藤島に求めているというのか。随分と肉欲的なものだ。

「あむ。……これでいいか?」

 半ばやけくそになりながら問いかけると、

「………………えへ」

 藤島は、蕩けるような笑みを浮かべた。

「っ……………!」

 一気に頬に熱が奔るのを感じた。

 恐ろしい破壊力。

 我が妄想の産物ながら、凄まじい威力だ。

「な、なに? そんな顔真っ赤にして」

「い、いや………」

 首を振りながら、しかし相手が幻想であるが故についつい口が滑ってしまう。

「その………似合うな」

「え?」

「藤島には、その………笑顔が、よく似合う」

「あ…………うぁ」

 かぁ、と彼女の顔が淡い赤に染まる。

「………………あっ」

 反比例的に浮かれきった脳髄が急速に冷やされていく。

「そ、そんなこと急に言われても……困っちゃうんだけど」

「す、すまん! いや、困らせるつもりは決してなくてだな!」

「分かってる、分かってるんだけど………」

 ぱたぱたと手で顔を仰ぐ藤島。いつもの彼女からは考えられないような仕草。

「………卑怯だよ、こんなの。照れるしかないじゃん」

「ふ、藤島…………」

 吐き捨てるように言って、のぼせ上がった頬をそのままに彼女は俺を見つめる。

「賠償、賠償を要求するよ」

「賠償…………金か。いくらだ」

「そんなさらっと一万円握らせてこないで。……お金は、いらないから」

 札を押し返し、藤島は立ち上がって俺の隣に座り直した。

 そして、俺の左肩に頭を乗せてきた。

「おぅ…………」

 左腕から伝わってくる柔らかな女性の感触に知らず鼓動が高鳴る。十六年に渡る女性経験のなさが為せる業だ。

 そんな俺の気を知ってか知らずか、藤島はしなだれかかるように俺へと身体を預けてくる。

「零士…………」

 呟かれる名前には、全幅の信頼が寄せられている。

 妄想の中の彼女はひどく甘えん坊で、それはおそらく友人から頼られることの多い彼女に甘えられてみたいという願望を知らず内に抱いていたからだろう。

「……………」

 無言のまま、ぎこちない動きで肩を抱いてやると、彼女はびくりと身体を震わせた後期待に満ちた目で俺を見上げてきた。

「ね、零士」

「なんだ?」

「キス………して?」

「………悪い」

「むぅ………」

 拗ねたように頬を膨らまされるが、こればかりはどうにもならない。

 いくら妄想とはいえ、さすがに唇を奪うのは男として憚られる。

 普通の女子ならまだしも、愛すべき友人の彼女なのだから余計に。

「………………はぁ」

 四度目の溜息。

 飢えやら事故やらとそれらしい原因を列挙したが、この妄想の本当の原因は既に判明している。

 こんなふざけた妄想を抱くようになった理由。

 それは、恋い焦がれた藤島が俺の友人、風城一輝(かぜしろいつき)の彼女となり、手を伸ばすことさえできないという事実を突きつけられたから。

 ………我ながら、女々しいことである。

「また溜息。そんなに世俗に塗れてるのが嫌なの?」

「まあ……そうだな」 

 生真面目を絵に描いたような男だと、自他ともに認めていた。

 あまりの実直さに岩窟とさえ仇名された俺がこのザマだ。

 自分でも、未だ信じられない。

「いいじゃん、世俗に塗れてたって」

 慈しむように頭を撫でてくる彼女の手の柔らかさは、どうしようもなく本物で。

 それだけ、俺が彼女のことを愛おしく思っていたことがひしひしと感じられて。

 ………いっそのこと、妄想だからという免罪符を振りかざせたなら、俺はもう少し楽になれるだろう。

 だが、ここまで精神に変調をきたしていながら、最後の一線というものを俺は律儀にも守り続けている。

 恨むならば、仁義に背かず過ごしてきたこれまでの人生を恨むべきだろう。

 まあ、口元のケチャップ拭ったり拭わせたりしている時点で一線も糞もない気はするが。

「ん? どしたの、そんな見つめてきて」

 不思議そうに小首を傾げる藤島。子供のような無邪気な仕草。

 それがどうしようもなく愛おしかったので、つい正面から抱きしめてしまった。

「ちょ、ちょっと! 急には駄目だってさっきから………さっきから……」

 デクレッシェンドがかかっていく彼女の言葉を至近距離で聞きながら、そのささやかな胸のふくらみをはっきりと認識できるほどに彼女の身体をかき抱く。

「好きだ、藤島」

「うぁ…………」

「こんなに人を好きになったのは、生まれて初めてだ」

「そ、そうなの………?」

「ああ。まぎれもなく初恋だ」

 愛を語る言の葉も、遠慮なくぶつける。

 こうして妄想で愛欲を発散させておけば、知らぬうちに募らせていた彼女への想いが日常生活の中で暴発する心配も減る。まだまだ学園生活は長いのだ、大切な友人との関係を気まずいものにしたくはない。

 そんな建前を原料に、俺は藤島との蜜月の時を錬成する。

「まったく……そんなに好きなら、キスしてくれればいいのに」

「それだけは勘弁してくれ」

「急に抱きしめてくるくせに。零士はヘタレだね」

「ああ、間違いなくヘタレだ」

「そんな得意げに頷かないでよ……。まあ、抱きしめてもらえるだけまだマシなのかな」

「謙虚だな、藤島は」

「謙虚にさせてるのは誰か分かってる?」

「…………なんか、すまん」

「いいよ、別に。ほら、申し訳ないって思ったならもっと強く抱きしめる」

「了解した。これでどうだ?」

「うん、いい感じ。………こうやってちゃんと愛情表現してくれるとこ、私は好きだよ」

「なるほど。いい勉強になった」

「もっと愛情表現してくれてもいいよ?」

「これ以上は間違いなくパンクするな、俺が」

「ヘタレ」

「面目次第もない」

 全ては幻、妄想の産物だと理解していながら。

 このままではダメだと分かっていながら、それでもやめられない。

 …………恋の病とはよく言ったものだ。

 中毒のように、心を掴んで離さない。

 



「すまない風城」

「急になんだよ」

「何がとは言えないがお前には謝っても謝り切れない」

「何したのお前」

「とりあえずこれを納めてくれ」

「いやこの流れで万札握らされても受け取れねえよ怖えよ」

「すまぬ……すまぬ……」 

「相変わらず何考えてんのか分かんねえな、お前は……」

 朝礼前の教室にて。

 は、と溜息を吐いてから我が愛すべき親友、風城一輝(かざしろいつき)は一万円札を押し返してきた。

「何したかは知らねえけどよ、随分水臭えことしてくれんじゃねえか」

「それはあれか、遠回しにもっとよこせと言っているのか」

「ねえよ。俺が友人脅して金せびるような奴に見えるか?」

「先々月新作ギャルゲを買うために泣きついてきたのは状況証拠という扱いでいいか?」

「ぐ…………」

 背は高く顔もやや目つきは悪いがイケメンの類、紅蓮に染めたその髪から『少女漫画の王子様』と後輩女子生徒からの憧れを一手に背負うプリンス様なのだが、その実態はただの美少女ゲーオタクである。

「あ、あれはお前にも貸してやったからノーカンだろ!?」

「貸してもらっただけで結局プレイはしなかったがな」

「しろよ!」

「お前は俺にロリコンになれと言うのか」

 異星で双子の幼女王といちゃつく趣味はない。

「ぐっ……せっかくあの安らぎを分かち合おうと思って貸してやったのによ……」

 ぶつくさと文句を言う風城の背後で女子生徒が引いている。さしものイケメン風城と言えどここまでオープンスタンスだとフォローしきれない部分が出てくる。この残念な部分をぜひともファンクラブ諸君に見せてやりたいものだ。まあ、中にはこういった一面も認知した上で追っかけを続ける者もいるそうだからただイケの法則がゆるぎない現実であることはおおよそ間違いない。

 もっとも、そういった執拗な女子のアプローチによって風城が軽度の女性恐怖症に陥り二次元のロリに走り始めたという事実を鑑みるとイケメンなのも考えようである。

「まぁいい。てめえがイモプリやってねえからといって俺が損するわけじゃねえしな。別に寂しくとか全然ねえし。ああ、全然寂しくない。感想を分かち合ったりとかできなくて辛いとか全然ねえから」

「風城…………」

「くぬぎちゃんが甘えん坊でもう養子に欲しいとかあげはちゃんができた子で嫁に欲しいとかそういった話とか別にしたくなかったし、いいし、いいし別に」

「悪かった風城。ちゃんとプレイして感想を分かち合うから」

「さ、最初からそう言えばいいんだよこの野郎……」

 ぐすぐすと半べそをかく風城。その容姿や「ああん?」系の口調から孤高のイメージを抱かれる風城だが殊の外寂しがり屋だったりする。それでいて人見知りなものだから高二の五月においても男友達が俺一人だったりもする。

 打ち解けてしまえば友人思いの大変いいやつなのだが、何せ慣れるまでが長い。

 三ヶ月ほど足繁く通うことでようやく昼飯を共にできるようになる、ギャルゲヒロインもびっくりの鉄壁。ツンデレの名はこいつにこそ相応しいと勝手ながら思っている。

「ほら、持ってけ」

 当のツンデレプリンスは目尻に溜まった雫を男らしく拭いながら、ブレザーの内ポケットから件のソフト、『妹プリンセス! ~異星の双子女王は実の妹でした!?~』を取り出し俺に手渡してきた。パッケージ表でいい笑顔をしている半裸の幼女が眩しい。学び舎に何というものを持ってきているのだろう、この男は。それを受け取ってしまう俺も俺だが。

「やれよ! 絶対やれよ! 徹夜してでもやれよ! CG全部出すまでやれよ!」

「必死すぎるだろうお前………分かった、必ずやる」

「絶対だぞ!?」

「ああ。明後日を楽しみにしていろ」

「明後日!? てめえそれ、ボイスありとはいえ俺がやっても三十時間はかかったんだぞ!?」

「明後日と言えば明後日だ。男に二言はない。……一度、すっぽかしているからな」

 薄い笑みを作ってやると、風城は一瞬驚いた顔をし、それから嬉しげに頬を緩めばんばんと俺の肩を叩いた。

「最高だ岸間! それでこそ俺の親友だぜ!」

「親友の敷居低すぎないか?」

「んなこたぁねえよ! そこまで義理堅い奴なんて、世界中探し回ったってそうそう見当たんねえよ!」

 よそでは決して見せない人懐こい笑顔で、風城は俺の肩を抱いてくる。

「てめえがいてくれるおかげで俺の人生幸せでいっぱいだぜ!」

「滅多なことを言うな。見ろ、飾林が目を輝かせているだろう」

「てめえとなら、同人誌に書かれても文句はねえよ……」

「俺にはあるから離れろ」

 力づくで風城を剥離させたが、時既に遅し。

「ふぅ..............」

 クラスメートにして腐ったパッションフルーツこと飾林は満足げに息を吐いていた。

「飾林..............」

「描いてない! 描いてないっすよ!? ちゃんと服着てるっすから!」

「創作でも同級生を脱がすな。もしおいたが過ぎるようなら無実の罪をでっち上げて部活動禁止にするぞ」

「お、お戯れを風紀委員長!」

「舐めるなよ、俺に対する教師陣の信頼を」

「大人任せなのかよ..............」

「卑怯っす! 虎の威を借る狐っす!」

「ほう、元々半裸の描かれた本を学校で頒布するのはどうなのかと事あるごとに教師から取り締まりを要請されているのだがな。その信頼をもってなんとか説き伏せていたのだが、そうか、卑怯と言うならやめよう」

「すんませんっしたぁー!」

「分かってくれたのならいい。創作活動を妨げるような真似は俺もしたくないからな」

 しかし、少なくともネームの二本は書かれてしまったことだろう。文化祭が怖くて仕方がない。

「まあ、なんだ」

 へへ、と風城はいい笑顔で照れ臭そうに言う。

「俺とお前の仲なんだからよ、どんだけ迷惑かけようが金握らすようなことはやめようぜ。な?」

「風城…………」

「というかぶっちゃけ、金で済ませられると思われたことがむしろ辛いぜ……」

 遠い目をする風城に、自然と謝罪の言葉がこぼれた。

「……悪かった」

「謝んなっつうの。悪いと思ったらなんか適当に購買のパンでも叩きつけりゃいいんだよ 

 けらけらと笑う風城。

 その、子供のように無垢な笑み。同性の俺から見ても、魅力的な笑顔だと思う。

 初めてこいつに話しかけた時も、同じことを思っていたはずだ。

『あ? これか? これはあれだよ、俺の妹のソーニャちゃんだよ。可愛いだろ?』

 あんな穢れのない笑みで携帯ゲーム機を見せられたのは初めてだった。

 その無邪気な笑顔があまりにも眩しかったものだから、ぜひ友達になりたいと思った。

 そうして友達になってからも、その笑顔に恥じないだけの子供のようなまっすぐさを持っていると知った。

 人見知りで寂しがり屋でおまけにギャルゲオタクな癖に妙に男前で、たとえ喧嘩をしても後腐れなく笑っていられる一緒にいて気持ちの良い奴。

 それが、風城辰馬という男だった。

 ………だからこそ、例の妄想をより後ろめたく感じてしまう。

 これほどまでに素晴らしい親友を、どこか裏切っているようで。

「分かった。今日の昼にでもお前の顔面にカレーパンをぶつけてやろう」

「あえて脂ギッシュなやつを選択するところがてめえらしいぜ……」

 言葉とは裏腹に風城が楽しげに笑う。つられて俺も笑う。

「風×岸キタコレっすー!」

 飾林の歓声が聞こえるが気にしないことにして、談笑に耽ろうと会話を続けようとしたその時。

「おはよ」 

 その控えめな声に全神経が根こそぎ奪われた。

「おはよー絵梨ちゃん!」

「おはようっすえりりん!」

「おはよ、二人とも」

 口の端に笑みを滲ませ教室を歩む彼女に、しかし向けられる視線は少ない。

 人気度で言うなら風城の方が格段に上、奴のように登校しただけで黄色い歓声が上がることもない。

 だが、俺にとっては何者にも変えられない美少女。

 藤島絵梨はいつものように登校し、いつものように友人の元へ歩いていく。

 その途中。

「おはよ風城くん」

「ああ、おはよう」

 事務作業のように淡々と風城と挨拶を交わす。俺とは目すら合いはしない。

「…………淡白すぎやしないか、お前」

「んなべたつく趣味はねえよ」

 かったるそうに眉間にしわを寄せる風城。あまり触れてほしくない部分なのかもしれない。

「そうだな。お前が前貸してきたギャルゲでも家に帰るまではいちゃついていなかったものな。室内でペロペロしていたものな」

「人聞きの悪いことを言うんじゃねえよペロペロしねえよ」

 苦笑と共に表情から険が取れる。そうか、ペロペロしないのか。はっはっは、そうかそうか。

「すまん風城………」

「おい急に万札握らすのやめろ。何? 何したのお前。そんなにやばいことしたの?」

「鎖骨だけだから、鎖骨だけだから」

「何の話だよ怖えよ……」

 テレビで放送できないようなことはしていないと言いたかったが深夜アニメのことを考えると何の言い訳にもなっていないような気がする。「まったく、未就学児は最高だぜ!」とは風城談。正直捕まってしまえばいいと思う。道を間違った友を更生させるのも友人として大切な役割だろう。

 しかし、そんなペドでフィリアな風城が同年代と付き合うとは。今でも不思議で仕方がない。あの藤島にロリ要素があるとはとてもではないが思えないのだが、実際どうなのだろうか。あれか、甘える時は赤ちゃん言葉になったりするのか。舌足らずなのか。……まずいな、こんなことを考えていると今日の帰宅後が怖い。エプロンがベビー服になっていたら今度こそ俺は人間としての尊厳を失ってしまう気がする。

「何浮かねえ顔してんだよ。ロリの話でもして元気出そうぜ」

「それで元気が出るのはお前だけだ。よかったな、どうせお前はロリでしか元気が出ないのだから両想いだ」

「馬鹿野郎、てめえの話でも元気出るわ」

「地味に嬉しいのが腹立つな……」

 カリカリとシャープペンが勢いよく走る音が聞こえる。

「かざ…………きし………」

 とんだバイオハザードである。

「というかお前、自分で言っておいてなんだが藤島……彼女の話で元気は出ないのか」

「あー………ほ、ほら、あれだ!」

「どれだ」

「他人に自分がどうしようもなく好きなものの話されるとたまにイラッとするだろ? 俺より愛が薄い癖に語ってんじゃねえよ的な」

「オタクらしい思想だな……まあ気持ちは分かるが」

「だろ? だから誰かと藤島の話したところでテンションは上がんねえよ」

「そうかそうか。なら先程貸してもらったイモプリについても、愛の薄い俺と語り合う必要はないな」

「そ、それとこれとは話が別! ロリとロリ以外は別物だ!」

「これが彼女持ちの強欲か……」

「そんなんじゃねえよ! つうかてめえも羨ましいんだったらさっさと彼女作れよ!」

「そう簡単に作れるものではないだろうに……選択肢一つで女をオトせるギャルゲーとはワケが違う」

「そりゃそうだけどよ……」

「それに………」

 ちらりと藤島の方を見る。

「絵梨ちゃん絵梨ちゃん! 今日カラオケ行こうよ!」

「いいよ、いこっか」

「えりりんえりりん! これさっき仕上げた風×岸本なんすけどどうすか!?」

「うん、いいんじゃないかな」

 ああ、いつもと変わらぬ落ち着き様。母性さえ感じる大人びた微笑みに思わず見惚れてしまう。藤島のことは容姿含め全部好きだと自負できるが、その中でもあの慈しむような穏やかな微笑みは別格だ。無形文化財として保護してもいいほどだと個人的には考えている。あと飾林は後でシメる。鳩尾をパンする。

「好きな人も、今はいないからな」

「そんな常時好きな奴いるのなんて、クールごとに嫁が替わる深夜アニメオタクくらいだろうしな。ま、なんだ」

 風城はおもむろに内ポケットから携帯ゲーム機を取り出した。

「好きな奴がいない間はこの『ロリプラス+』でデートの練習でもすりゃい凛々子ー!」

「悪いな風城。少し手が滑ってしまった」

 さすがにイラッ☆と来てついソフトを本体ごと窓の向こうへ放り投げてしまったが、これくらいは許していただきたい。我が想い人と添い遂げた友人にお節介など焼かれたくない。

 ………我ながら女々しくて悲しくなる。

 勉学に励み。

 運動に勤しみ。

 愛すべき親友と青春を共にする。

 満ち足りていたはずの学園生活は、しかし、ただ一つの要因によって乱され始めている。

 ソフト回収のため風城と二人グラウンドへ向かいながら、人知れず溜息を吐いた。





「今日はサバ味噌を作ってみたよ」

「和食もいけるのか。藤島は家庭的だな」

「ふふ、惚れた?」

「もう既に惚れている」

「う………もう」

 繰り出される小パンチに、しかし出るのは空笑い。

 虚しい。ただただ虚しい。

 こうして妄想に耽っている間に風城は本物の藤島といちゃこらしているであろうに。

 こんな夢の世界に浸り続けるなんて、まるで引きこもりじゃないか。

 早急に脱出しなければいけない。

 しかし、どうしたものか。

「そんな見つめられても、何も出ないよ」

 半目で睨み、しかしどこか期待するような目を向けてくる藤島。

 妄想とは思えないほどに、一分たりとも違わない存在感。

 逆に言えば、精密な妄想ができるほどに彼女に恋しているということ。

「…………恋、か」

 人生初の恋慕は、しかし無残にも散ってしまった。

 失恋など、誰もが経験することだ。敗れ去った恋心の後処理もそこに含まれる。

 俺も、歩み出さなければいけない。

 いつまでも引きずっていないで、乗り越えなければ。

「どうしたものかな」

「何が?」

「藤島は、失恋の乗り越え方を知っているか?」

「ごめん、失恋したことないから分かんないや」

「そうか………」

 まあ、俺の妄想である以上俺の知らない答えを出せるはずもない。

「というか、その………今してる恋が、初恋だし。零士と、同じで」

「そうか」

「リアクション薄くない?」 

「そんなことはない。心の中では泣いている」 

 自分という人間の駄目さ加減に。

「ちゃんと感情表現してくれるとこが好きって、私言ったよね」

「お前のために何でもかんでもすることはできない」

「む………」

 棘に敏感に反応した藤島は、眉を立てあからさまに憤怒を示した。

「何その言い方。何もかも私のためにしてなんて言ってないじゃん」

「言ってるようなものだろう。いくら俺がお前のことを好きだとはいえ、何でもしてもらえるなんて思うな」

「そんなこと言ってない!」

「そうか? 『私を好きなら私が喜ぶことばかりして』と、そう言われているような気分だったぞ」

 何故か苛立っている自分をどこか遠くに感じつつ、俺は内心苦笑していた。

 本当に、俺は何をしているのだろう。

 親友の彼女を勝手に妄想し、あまつさえそれと口喧嘩している。 

 自分でも何をやっているのか、何をしたいのか分からなくなってきた。

 いやはや、やはり妄想は現実の人間でやるべきではないな。

 彼女がどれほど笑ってくれようと、それは自分に都合よく改変された幻影でしかない。

 何をしたところで、虚しさしか生まれない。

「…………疲れたな。悪いが寝させてもらう」

「え…………」

「飯は明日の朝にでも食べるから冷蔵庫に入れておいてくれ」

「ちょ、ちょっと零士………」

 ぶっきらぼうにそう言ってから、また苦笑した。どうせ何もかも自演だというのに、随分と慣れてしまったものだ。 

「気分を害してしまったすまなかった。後で、いくらでも責めてくれていいから」

「零士!」

 寝室へと向かおうとする俺を、藤島は必死で押し留めようとする。

「ごめ、ごめん、謝るから! 私が悪かったから!」

「そんなことはない。俺がすべて悪い」

「我が儘ばかり言ってごめん! でも、それは零士が甘えさせてくれるって分かってたから………」

 すがりつくように彼女は俺を精一杯抱きしめ、謝罪の言葉を口にする。

 何を言わせているのだ俺は。

 何をさせているのだ俺は。

 昨日までは彼女の我が儘を、甘えを受け入れられたのに。

 そんなものを妄想してしまう自分を容認できたのに。 

 今日、風城が大切な親友であることを改めて認識したからだろうか?

 そんな素敵な親友を裏切るようなことをしたくないと、強く思ったからだろうか?

 狂っている。

 少しずつ狂い始めている。

 藤島への恋慕の情。

 風城への親愛の情。

 そして、藤島へと手を伸ばせない事実。

 そのすべてが巧妙に絡み合って俺の精神を蝕み、確実に歯車を狂わせている。

 もう耐えられない。限界だ。

 早く逃げ出さなければ。

 この恋の病から。

 脱出方法は今のところ一つだけ。

 彼女への思いに勝るほどの恋心で想いを上書きすること。

 新たな恋をすれば、藤島のこともきっと忘れられる。

「恋が、したい」 

 泣き出してしまった藤島の幻影を視界の片隅に捉えながら。

 知らず、そう呟いていた。

 それは、神への祈りのようでさえあった。

 

 話は変わるが、俺は生まれてこの方神頼みということをしたことがなかった。

 生真面目ということもあるのだろうが、やはり欲しいものは自らの努力でつかむべきだと考えていたからだろう。両親は随分と昔に他界していたから、病に伏せる親のために神に縋るなどという必要もなかった。

 そんな俺が、無意識とはいえ願いを口にした。

 だからだろうか。

 その願いは、手助けという形で叶えられることとなる。

 



 藤島の幻影を初めて拒んだ翌日。

「……………………」

「うおっ…………びっくりした」

 目覚めた瞬間、隣で俺の腕を枕にしながら睨みつけてくる藤島と目が合い軽く動転。

 頬を膨らませた彼女は俺を離すまいと抱きつき、朝だというのに起き上がろうとさえしない。仕方もないので力づくでくっつき虫と化した彼女ごと立ち上がり、洗面所で二人分の洗顔を施し昨日の夕飯をチンして食卓に並べ頑なに動こうとしない彼女に箸を運びながら自分もまた食事を進める。

食後のコーヒーを飲み始めた辺りでようやく藤島は機嫌を直し、俺の元から離れた。

「ごめんなさい」

「いやいやこちらこそ」

「ううん、私が悪かったし」

「いやいや」

「いやいやいや」

 コントのように責任の負い合いをした。滑稽で仕方なかったが、不思議と心地よかった。

 仲直りの証として五分ほど握手をした後、食器洗いを彼女に任せ自分は更衣を行う。まあ、食器洗いも俺がやっているのだろうが。気分の問題だと考えればいくらか肩も軽くなった。

 昨夜少々吹っ切れたおかげで、妄想への依存が薄くなっている気がする。いい兆候だ。逆に妄想をしているという事実に慣れ始めている気もしなくはないが、いい方向に考えよう。あんまり考えすぎるために逆に意識しすぎてしまうというのもあるだろうから、そう深刻に考え込むのも避けたい。言うなれば中二病をこじらせたようなものだ。慌てず騒がず穏やかに日々を過ごせば、いずれ時間が解決してくれるはずだ。

「仲直りのキスは?」

 …………少々不安になってきたが、平常心平常心。

 こちらの袖を引き乙女回路を全開にしている藤島から逃げ出すように家を出た。

 

 そうして。

 俺はいつものように通学路を進んでいた。

 少しだけ火照った身体から、熱を発散させるために駆け足で。

 口づけの代わりにと抱きしめた彼女の感触がひどく生々しくて。

 少しでも早く平常心に戻りたくて、必死に走っていた。

 だからだろう。

 あの時の俺は随分と不注意で。

 いつもは自転車との接触に注意する三丁目の曲がり角にも全力で突っ込み。

 当たり前のように、誰かとぶつかった。

「あぐっ」

「いたっ」

 悲鳴は二人分。

 不思議なことに、どちらも聞き覚えのある声だった。

 いや、片方は分かる。十六年付き合ってきた自分の濁声だ。

 だが、もう片方。

 どうしようもなく可憐で落ち着き払ったこの声の主を、俺は知っていた。

「いたた……………」

「だ、大丈夫か………?」

 互いに尻餅をついてしまっていた。

 尻をさすりながらも立ち上がり、ジェントルマンとして手を差し伸べようとして。

 目の前で尻餅をつく少女が、今朝抱きしめた彼女にそっくりなことに気が付いた。

「っ……………………!」

 有り得ない話ではない。

 藤島の自宅は二丁目の奥、通学路としてここを通ることもさして不思議ではない。

 しかしどうにも間が悪い。つい先程、妄想の中で抱きしめた相手と対面するとは。

「わ、悪いな。立てるか、藤島?」

 それでも何とか平常心を保ちながら、俺は彼女へ手を差し伸べる。

 途中、スカートがめくれその白の下着が丸見えになっていることに気づいてからは顔ごと視線を横に逸らして。

 なんとも紳士的。これぞ岩窟と称された俺こと岸間零士だ。

 慣れぬ恋慕に振り回されたところで、その芯は決して狂わない。

 そんな阿呆なことを考えていた俺に。

「零士……………くん?」

 神様は優しく鉄槌を振り下ろす。

「ああ、そうだ。零士…………零士?」

 思わず首を傾げた。本物の藤島に名前呼びなどされたこともない。

「れ、零士くん、零士くんだ!」

 だが、目の前でパンツ丸出しにしている藤島は確かに俺の名を呼び、それどころか俺との遭遇に歓喜を示している。

 なんだ?

 何かがおかしい。

 本物の藤島とも、妄想の藤島とも違う。

 この藤島は、一体………。

「零士くんっ!」

「うおっ!?」

 困惑を隠せない俺に、藤島は勢いよく抱きついてきた。

 正面から与えられたのは、妄想の中で十二分に味わってきた彼女の感触そのものだった。

「んふふ、零士くん零士くん!」

「ちょ、待て藤島………いやむしろお前、藤島か?」

 内心慌てふためきながらもそう問うと、人懐こそうに頬擦りをしていた藤島はやや不機嫌そうに眉を寄せた。

「何それ! 私が零士くんの大好きな藤島絵梨ちゃんじゃないって言うのかおらー!」

「おらー、ってお前………」

 無邪気で子供っぽくて、まあなんだ………可愛いじゃないか。

「しかし、『零士くんの大好きな』とは………なるほど、そうか」

 ふむと頷き、それから俺は空を仰いだ。

 零士くんの大好きな、と俺の好意を知っているということはこの藤島もまた俺が生み出した妄想の産物ということ。

「そうか………」

 ついに、お外でも妄想するようになってしまったのか、俺は。

 死にたい。ただただ死にたい。

 時が解決してくれるなどと言っておきながらこのザマである。さすがにこじらせすぎだろう、初恋。

「どしたの零士くん?」

 両手で顔を覆った俺を藤島は………そうだな、パッション藤島は心配そうに見つめる。

「いや………初恋とは面倒なものだな、と」

「そんなことないよー」

 だってさー、とパショ島は眩しい笑顔を弾けさせた。

「こうやって抱きしめ合うだけで、こんなにも幸せな気分になれるんだよ?」

「…………確かにな」

 幸せなのは確かだ。もうここまで来たら妄想に浸って生きても問題なさそうに思える。

 考えてみれば、生きるうちに何をしたところでそれはあくまで外界から得た刺激を脳内でそれらしいものとして捉えているだけのことであり、仮に妄想の世界であっても形成される世界が同等のものであるならそこに相違はないのではないだろうかと小難しく訳の分からない建前が瞬時に並べられるのは日頃の勉学の恩恵か。

「まあ、なんだ」

 妄想は他人に迷惑がかからないからな。自身のSAN値にさえ気を配っておけば急ぎでどうにかする必要もない。あまりひどいようなら精神科医へ向かうことも意識しつつ、地道に解決していくとしよう。

 そんな甘ったるいことを考えた俺に。

「岸間くん?」

 神様はいい笑顔で俺に棍棒(メイス)を振りかざす。

「あ、ああ藤島。おはよう」

 名を呼ばれた俺は振り向き、しかし視界に収まった藤島がその表情に驚愕を示していることに気づいた。

「何………それ…………」 

「え?」

「そっくりさんでも、連れてきたの………?」

 震える指で指し示された先。

「そっくりさんとは失礼な!」

 ぷんすかとパッション藤島が猛々しく愛らしくお怒りの様子。

 ……………おや?

「そっちこそ何の真似? そんな陰気な顔、そっくりさんとすら認めたくないんだけど!」

「………は?」

「ほら、私は今愛しの零士くんタイムなんだからとっととどっか行ってよ!」 

 べーと舌を突き出し、それから俺の身体を強く抱きしめる。

「ちょっと、私の顔で勝手にいちゃいちゃしないでよ」

「へへーん! 羨ましいでしょー!」

「こいつ………話を聞け………」

 ………おい、ちょっと待て。

 何だ、何が起きている。

 何故俺の妄想の産物であるパッション藤島を、オリジナル藤島が認識している?

 いや、待て。

 これも妄想か?

 後から現れた藤島もまた、俺の妄想なのか?

「は、はは………」

 狂っている。

 狂ってしまった。

 俺の世界は、ついぞ狂ってしまった。

「ん? おーう岸間! 藤島と何してうおおお!?」

 どこからか風城の声が聞こえた気がしたがおそらくそれもまた妄想だろう。

「藤島が、藤島が二人いる! 何だこれ双子か!?」

「私、一人っ子なんだけど」

「本物は私だよ! ね、零士くん!」

 喧騒の中、俺は静かに目を閉じた。

「………ああ、そうか」

 唐突に理解した。

 狂ってしまったのではない。

 ただ、俺は病んだのだ。

 恋という、どうしようもなくありふれた病に。





「零士くん零士くん!」

「どうした藤島妹」

「里恵でいいよー。教科書ないから見せてもらえるかな?」

「ああ、それなら内容をすべて覚えているから遠慮なく持っていくといい」

「もー。分かってないなー零士くんは」

「ほう、そんなアメリカナイズなやれやれを見せてきたということはさぞ高尚な理由があるんだろうな」

「こうしてさ、教科書を見せることを建前に机を合わせて身近にいられるのがいいんだよ!」

「……………一理あるな」

「でしょー!? じゃあさっそく引っ付いちゃおう!」

 言うなり横から机をジョイントしてきたパショ島こと藤島里恵(仮名)は流れるような動きで俺の左腕を抱きしめ頬擦りにかかった。

「えへへー」

 なんだこの手慣れよう。いや、そんな藤島を俺が求めているということなのか。家の藤島、エプロン島も甘えん坊だから、俺はこれで案外甘えられたい派なのかもしれない。

「なんだよあのいちゃつきよう…………」

「やべえよ、やべえよ………」

「あの岩窟が何の冗談だ………」

 クラスメートたちは動揺を隠せず、しかしツッコミを入れることもなく外野を決め込んでいる。

「風×岸の霊圧が…………消えた………?」

 そんなものは元からない。

 は、と薄く溜息を吐く。

 あの後、パショ島と元の藤島、クール島のどちらが本物かという口論は激化し、また瓜二つの美少女が口論を繰り広げる様はどうしようもないほどの人の目を引いたために気づけば百に近いギャラリーが集まり、下手に誤魔化すことができなくなった。

 どうしたものかと悩み始めたその時、我が親友風城が救いの手を差し伸べてきた。

『あれだろ!? 生き別れの双子の妹ってやつ!』

 ギャルゲ脳というのはこういうものを言うのではないだろうか。

 だが、妄想が実体を持ったなどというふざけた真実よか人々には受け入れやすい。

 俺はありがたくその案に乗っかり、『近々こちらへ引っ越してくること』『一足早く学校へ見学に来てしまったこと』『親が離婚し母方に引き取られているため藤島の戸籍には微塵もその存在が記載されていないこと』など出まかせを並べることで何とか教師陣からの理解を得ることができた。風紀委員長として教師たちから信頼を勝ち得てきたことも勝因の一つと考えていいだろう。真面目にやってきてよかったと思えるワンシーンである。まあ、信頼度高すぎて「あの岸間が自ら風紀を乱すほどに..............青春じゃないか」と教師全員から注意もなしに生暖かい目を向けられたことには戦慄を禁じ得なかったが。もはや洗脳の類、真面目にやりすぎるのも考えものか。まあ、日頃の行いが免罪符の役目を果たしたということにしておこう。

「えへへ、零士くん零士くん」

 妹扱いされることに当初は不満を訴えたものの、『りえちん! 妹キャラなら零士に甘えやすいかもしれないゾ☆』と風城が独自の理論を展開することで一応の納得を得たパッション藤島は、藤島絵梨の双子の妹にして俺の遠距離恋愛彼女・藤島里恵として学園に紛れ込み、今は俺の横でにぱにぱしている。風城グッジョブ。だが後で泣かす。妹キャラとして甘えられたところでお兄ちゃん許しませんよ。

「ん? どしたの零士くん。頭撫でてくれるの? えへー」

 小動物的な可愛らしさ。藤島にはないものだ。これはこれでアリだな。

「というかもうキャラ崩壊じゃねえか………」

 俺の後ろ、風城は藤島とは似ても似つかない藤島に軽く引いている。

 こいつにだけは素直に『初恋こじらせたら他人に視認される妄想を生み出せるようになったでござる』と簡潔に事情を話した。

『何そのファンタジー……いや待て、それ活用すりゃ二次元嫁も現界させられるんじゃね?』

『いやお前………それでいいのか? お前の彼女といちゃつく妄想をしていたんだぞ? 人としてダメじゃないか?』

『あーそういう………まあ、うん、いいんじゃねえの? 藤島綺麗だしな、うん』

 ついでとばかりに若干少々ほんの少しだけ藤島に惹かれていたことも告げたのだが、風城は何の反応も示さなかった。正直微妙な空気になるかと思っていたのだが、風城はあっさりと流してくれた。男前すぎるだろうこいつ。

『………まあ、なんだ。お前が許してくれるなら、少しは肩の荷が下りる』

『許すも何もねえよ。ホントてめえは律儀っつうか女々しいっつうか……そういうとこ、嫌いじゃないぜ』

 風城の器の大きさには毎度ながら感服する。まあ、彼氏の許しが出たからといっておいそれと妄想を受け入れるつもりはないが。

『ま、てめえも困ってるみたいだしよ。さっさと原因探してあのドッペルゲンガー消そうぜ』

 問題解決への手助けまで確約してくれた。もう彼には感謝しきれない。感謝の意を込めて万札握らそうとしたら拒否られたが、以後も継続する所存である。

「さっきは助かったぞ、風城。あの案は俺では思いつけなかった」

「よせやい。お前のためなら、俺はなんだってできる」

「そこは藤島のためと言うべきだろう……」

 キャラ崩壊していてもお前の彼女だろうに。妄想ではあるが。

「…………………ちっ」

 当のクール島ことリアル藤島はやたらめったら冷たい視線をパショ島に向け、しきりに舌打ちと歯軋りを繰り返している。気持ちはよく分かる。俺だって俺と同じ顔をした何かが風城と薄い本よろしくいちゃついていたら殺☆GAYしたくもなる。ただただ申し訳ないが、この妄想が今現在自分の意志で消去できない以上俺の手に負えない。パショ島が要らぬことをせぬよう身近で見守ってやることしかできない自分が憎い。

「零士くんの手、やわらかいなー」

「……………(ギリッ)」

 ああ、身近で見守るだけでも向こうとしては十分に黒歴史か。本当に申し訳なくて死にたくなる。

「後でこれを藤島に渡しておいてくれ」

「いやだからなんでお前は事あるごとに万札握らせてくんの? 金持ちアピールなの?」

「もうこれでしか謝罪の意を表せない気がする………」

 慰謝料としても適当な金額だとは思えない。早急に解決策を探さなければ……。

 しかし、なんだ。あそこまで苛立ちと憤怒に染まり切った藤島など初めて見た。……あれはあれでいいな。足蹴にされた上で思い切り罵られたい。

 ………またひどいことを考えてしまった。

「風城………」

「持たすな持たすな二枚目を」

「マゾでは、マゾでは決してないはずなんだが」

「何のカミングアウトだよ怖えよ」

 えいえい、えいえい、と二枚の万札を押し合い圧し合いしていると、

「むー!」

 左頬がぐいと引っ張られた。

「どうした藤島妹。腹でも減ったか」

「ちーがーう!」

 むいー、と俺の頬を引きつつ、妹島はまたもお怒りの様子。

「なんで愛しの里恵ちゃんがこんなに近くにいるのに他の人と話してるの!? こんなの絶対おかしいよ!」

「いや、おかしくはないだろう」

「おーかーしーい! 岸間くんの愛はその程度なの!? せっかく近くにいるんだから、もっとちゃんと私のこと見てよ!」

「………………(ギリッ)」

「岸間…………」

「そんな目で俺を見るな風城」 

「何、そんな依存系なのが好きなの? それ系のソフト貸してやろうか?」

「いや、今は妄想で手一杯..............それにお前から渡されたイモプリもまだ手をつけられていないしな」

「こんな状況になってんだから気にするこたぁねえよ」

「いや、やる。友人との約束を破るなど俺には許せないからな」

「もー! こっち向いてよー!」

 ぐいぐいと腕を引かれる。いや、愛しのりえちんを飽くほど見たいのは山々なんだが。

「むぅー!」

「……………………」

「てめえ、拗ねるりえちんも可愛いとか思ってんじゃねえだろうな………」

「流石は風城だな」

 頬の膨らみようがなんとも。

「やっぱ俺の親友だよ、てめえは」

 げんなりとしつつも、決して気を悪くした様子のない風城。彼女をおもちゃにされているというのにこの落ち着きよう。あれか、所詮妄想だから何しようが問題ないと割り切れているのだろうか。そうか、これが彼女持ちの余裕か……。

「………………(ギリギリギリギリ)」

「絵梨ちゃん、そんな歯軋りしたら奥歯なくなっちゃうよー」

 対して藤島本人はヘイトが上がりっぱなしだが。どす黒い怨嗟の焔が背景で燃えている気がする。

 しかし、なんだ。

「タガが、外れすぎてはいないか……?」

 風城から妄想する許可も得た。

 藤島妹がおイタをしないためにも近くであやし続けるという建前も得た。

 だが、それにしてもいささか調子に乗りすぎてはいないか、俺は。

 手に負えない妄想とはいえ親友の彼女だ、普段の俺ならこうして反応を楽しむようなことは生来の律義さもあってできないはずだろうに。

 まるで酒でも入っているかのような、この理性の緩みは何だ。

 ………これも、恋の病だというのか。

 さっさと、卒業したいものだ。

 これ以上藤島に『自分と瓜二つの女が好きでもない男といちゃついている』という黒歴史を増やさないためにも。 


 そんな密かな気遣いとは裏腹に。

「………………」

「カレーパン美味しー! ほら、零士くんも一口どーぞ!」

「あ、ああ…………いただこう」

「………………(ギリギリギリギリ)」

 歯軋りの音に最早慣れ始めた昼休み。

 何故か俺は風城と二名の藤島の四人で食卓を囲んでいた。

「お、おう、藤島……お前も飯食えよ。さっきから全然箸進んでねえぜ?」

 気遣いに溢れた風城の言葉に、しかし藤島は何の感情も読み取れない真顔でふるふると首を振った。

「ごめん、今口に入れたら折っちゃうだろうから」

「箸をかよ怖えよ………」

 怯えつつ横目で俺にヘルプを請う風城。やめろ、俺だって怖い。

 何故そこまで憤怒を抱いているというのにわざわざ昼食の合判に来たのか。私、気になります。まあおそらくは、どうせいちゃつかれるならその場に自分もいることによって、いちゃついているのが自分ではなく双子の妹であることを周りにちゃんと認識させる方がまだマシだと考えてのことだろう。一応、妹島は生き別れの双子の妹ということになっているから、いくら妹島が俺にいちゃつこうが藤島に彼女を止める明確な理由がないというのが申し訳なさを加速させる。

 すまん、藤島。俺の妄想が迷惑をかける。

 そう心の中でつぶやき、せめてものフォローに出た。

「そ、そういうことなら藤島。よければ、俺のメロンパン食うか? これなら箸が折れることもなかろう」

「い、いいの!?」

「あ、ああ………そんなに喜んでもらえると、あげるこちらも嬉しいが」

「あっ……」

 勢いよく立ち上がった藤島はしかし、ぎこちなく着席してからぶっきらぼうに言葉を継いだ。

「……こ、これは、あれだよ。お腹空いてるからだよ」

「ああ、なるほど」

「うん。お腹ぺこぺこ。お腹と背中がくっついちゃいそう」

「そんなに………」

 怒るのにも体力がいるらしいしな。授業中も含めて半日イライラし続けていたというのなら腹も減ろう。お腹と背中がくっついても仕方あるまい。

「そういうことなら遠慮なくもらってくれ。ああ、安心しろ。まだ口はつけてないから」

「う、うん…………」 

 ほれ、とメロンパンを手渡してやると、藤島は俯き、蚊が鳴くような声で言った。

「…………ありがと」

「いや、むしろごちそうさまと言いたいくらいだ」

「え?」

「何でもない」

「岸間ェ………」

「すまん風城………」

「いや別にいいんだけどよ、ってああもう万札握らすなもうしわくちゃになってんじゃねえか! 謝れ! 諭吉に謝れ!」

「気にするな。このシワが俺とお前の譲り合いの象徴だと思えば、どうだ?」

「………それなら、悪くはねえけどよ」

 こいつの俺に対する好感度の高さは一体何なんだろうか。こちらからも相応の好意を示している自負はあるが。

 その感情表現の半分くらいは彼女に向けてやったらどうだと思う今日この頃。

「岸間くんのメロンパン………」

 当の藤島は俺から手渡されたメロンパンをしげしげと眺めている。何を警戒しているのだろうか。………いや、フランクフルトかチョコバナナだったらよかったのになどとは思っていない。ただ脳裏によぎっただけ。その時岸間に電撃走る、というやつだ。

「………もし夏祭りに行くならその時はぜひ誘ってくれ」

「てめえの考えてることが手に取るように分かるんだが気のせいか?」

「以心伝心というやつだ。親友だからな、仕方あるまい」

「てめえ、友情って言っときゃ何でも誤魔化せると思うなよ………今回は勘弁してやるけど」

「悪いな」

 親愛に応えるためにもこれからは自重しなくては。

「むー………」

 心の中で読経し煩悩を消し去っていると、隣から拗ねた声が聞こえた。

「ああ、すまない妹島」

「何その胡乱な呼び名! 里恵でいいって言ってるでしょー!」

「す、すまんりえちん………」

「やだ、何それアイドルみたい………これはあれかな!? 零士くんにとって私がアイドルだってことかな!?」

「まあ、否定はしないが」

「ひゃっほーう! 里恵ちゃん大勝利! 他の有象無象ざまぁ!」

「女の子がざまぁとか言ってはいけない」

「ごめんなさい」

 ぺこりと頭を下げる妹島。素直なのはいいことだ。

「………………ギリギリギリギリ」

 あんまりはしゃぐと藤島のお腹が空いちゃうからな。まるで自分がはしゃいでいるように思えて羞恥やら憤怒やらでいっぱいになってしまうからな。後でコーヒー牛乳でも差し入れてカルシウム補給の足しにしてもらうとしよう。

「零士くん零士くん! ほら、クリームパン食べよ! あーん!」

 差し出されるクリームパンは、既にクリームが見えるほどに食が進められている。つまりは食べかけ。

「風城………」

「いやいいよ別に間接キスぐらい………んな意識しすぎんなって」

「そ、そうか?」

「おうよ。付き合ってなくても一口ちょうだいとか普通普通」

「ソースは」

「ギャルゲー」

「だろうな」

 かつてこれほどまでに信憑性の低いソースがあっただろうか。

「まあ、お前がいいと言うなら………」

 あーんと口を開けようとしたところで、

「チッ」

 戦慄とともに藤島の存在を思い出した。

 存在感たっぷりな舌打ちをかました藤島はしかし、なんとも眩しい笑顔を俺に向けてくる。

「ん? 気にしなくていいよ? うん、全然気にしなくて大丈夫。平気平気」

 ああ、こういうところが風城との接点なんだろうなと感じながら、しかしこの場は彼女の言葉を信じるしかない。

「いやー、男子更衣室とか一回入ってみたかったんだよねー。裸のお付き合いってやつ?」

 そんな脅し文句に俺含め三人が震え上がる。

 藤島ソムリエを自負する俺をもってしても、ぱっと見では妹島と藤島を見分けられない。

 それほどまでに藤島と瓜二つな妹島が下着姿で男子更衣室に突撃した場合、少なくとも一ヶ月ほど藤島に痴女のイメージがつきまとうことだろう。

 藤島の健やかな学園生活を願う俺としてはそんなことを許すわけにはいかない。彼女を妄想してしまった者としての責任もある。

 故に、妹島の暴走を回避するためにも彼女の要求を飲まざるを得ないのだ。

「り、りえちん。あーんするなら、その………早めに頼む」

「もー、零士くんったら照れ屋さんなんだからー」

 言われたい放題だというのに心の奥底で歓喜が滲んでいる気がするのには見ないフリをしたい。

「ぐっ………」

「耐えろ藤島! 痴女呼ばわりされたくはねえだろ!?」

「でも、でも………!」

 視界の端で藤島と風城がいちゃつくのをよそに、俺は静かに口を開いた。

「ほーら、零士くんあーん!」

「あー………あむ」

「どう? おいしい?」

「ああ、うまい」

「それって私に食べさせてもらったから?」

「………まあ、それもあるな」

 嘘をつく必要もないと素直に頷いた途端、期待でいっぱいな瞳はそれが応えられたことによってさらに輝きを増した。

「DA☆YO☆NE! たはー! 愛されちゃってるなぁりえちん!」

「離して! 離して風城くん!」

「落ち着け藤島ァ! 耐えろ! 今は耐えるしかねえ!」

 青筋を立て、今にも殴りかかろうとする藤島を煽るように妹島はその顔を覗き込み、にたにたと笑う。

「羨ましい? 好きな人といちゃいちゃできるのがそんかに羨ましいのお姉ちゃん? はは、ざまぁー! したけりゃいくらでもすればいいのに!」

「ぐっ………それができたらどんなに楽か!」

 好きにいちゃつけてないのかそうか。

「いちゃいちゃしてやれよ風城………」

「そんな目で見んなよ………。あー、あれだ。人前でいちゃつくのはまだ抵抗があんだよ」

「そ、そうか………」

 人前でないならいちゃついているのかそうか。

 しかし、この妹島の暴走は俺の望むことでもない。

「里恵」

 出来るだけ真剣に聞こえるよう、名前で彼女を呼んだ。

「は、はい!」

 すると妹島はぴんと背筋を伸ばし、姿勢良く話を聞く態勢に入った。

「いや、そこまでかしこまらなくてもいいんだが………」

「お、怒られるかと思って………」

「怒られるようなことをしている自覚はあるのか」

「ちょ、ちょっとはしゃぎすぎちゃったかなー、って」

 視線をそらす妹島。流れる冷や汗がその内心を告げている。

「………まあ、なんだ」

 こほんと咳を一つ、あまり高圧的にならないよう彼女に忠告する。

「あまり、藤島を困らせないように。藤島にも藤島の都合がある」

「え?」

 きょとんとする俺の妄想の産物。自らを藤島絵梨と信じてはばからない少女。

「その………お前が藤島に対し競争心を持つ気持ちも分かるが、どうにか抑えてくれると助かる。その代わり、俺ができることなら何でもするから」

 精一杯の謝意と懇願を込めた言の葉に、妹島はしばらく呆気に取られた後、困ったように苦笑した。

「えっと………零士くん?」

「なんだ?」

「零士くんは、お姉ちゃんに迷惑かけたことに対して怒ってるの?」

「他に何かあるか?」

「いや、その………照れ屋さんって言ったりあーん強要したり遠回しに私への好意を公言させたことについては?」

 恐る恐るといった様子で問われたが、問いの意味が分からない。

「何故怒る必要がある。前後二つは本当のことだし、真ん中にいたってはむしろご褒美だ」

 何せ俺は、と妹島にだけ聞こえるよう耳元で語りかける。

「お前のことが、大好きだからな」

「~~~~~~っ!」

 彼女にとっては分かり切った本心であろうに、妹島は真っ赤になって飛び上がった。何をそんなに驚くのか。元々そうでなければ俺を好きな、そして俺の好意を知る藤島など存在するはずもないだろうに。

「そ、そんな、改めて言われると………」

 先程まであれほどラブコールをかましていたというのに、妹島は生娘のように恥じらいを見せる。

「しかも私、お姉ちゃんとは似ても似つかないでしょ? それでも好きなの? 身体目的なの?」

 お姉ちゃん、というとオリジナルの藤島のことを言っているのか。

 確かに、今目の前で赤面している彼女は綺麗と言うよりは可愛いと言った方が似合う気がする。

 だがまあ、なんだ。

「あれが、藤島とまるで同じだったからな」

「え?」

「いや、俺の妄想であるお前もよく知っていると思うが、お恥ずかしい話俺は藤島の内面などほとんど知らない。だから、もし藤島の本性が常の藤島からは予想もつかないような、それこそお前のように活発でアッパー系だったとしても驚きはしないだろう」

 俺は彼女のことをほとんど知らない。

 休み時間の中で見かけた笑みさえ、彼女の一部分にすぎず全体像を語るにはあまりにも心許ない。

 確かに胸の内にあると言えるのは、彼女の一番好きなところのみ。

「慈しむような、思いやりに満ちた笑顔。藤島と似ても似つかないと一見思えるお前でも、あの笑顔を浮かべられるのなら案外根底は変わっていないと、そう踏んだ」

 俺が風城と茶番に興じている際、妹島は確かに、俺が恋い焦がれてやまないあの笑顔を浮かべていた。

 それだけで十分。

「それだけで俺は、お前に恋していると断言できる」

「………」

 羞恥故か眉間を立てた彼女は、納得いかないとばかりに口を尖らせる。

「………ひどい。全部好きとか言ってくれないんだ」

「藤島に似ても似つかないと言ったのはお前だろう。そんなお前を全部好きなど言ったら、それこそ藤島への想いではなくなるだろうに」

「それでもやだ。全部好きって言って」

 ………駄々のこねかたがエプロン島と同じだな。どちらも俺の妄想なのだから、ワンパターンでも仕方ないか。

 妄想ながら実体を得た彼女に俺は笑いかける。

「お前も、活発で可愛いと思うぞ。………藤島としてではないが」

「藤島として、じゃなくていいよ」

「え?」

 こつん、と妹島は、いや、里恵は俺と額を合わせてきた。

「藤島絵梨として妄想されたのは分かってるけど、よかったら、私は私として好きになってくれると嬉しいな」

 だって私は、

「君が恋するために、生まれてきたんだから」

 向日葵のような笑みと共に告げられた言葉に、ようやく俺は彼女が、藤島里恵が神から与えられた転機なのだと気づいたのであった。




「ったく、あのアホ………」

 夕暮れに染まった三丁目の曲がり角より少し先。

 藤島を隣に付き従えさせながら、風城は悪態を吐いた。

 今日は愛すべき親友、岸間零士と帰路を共にしていない。

「粘液接触はあれほど駄目だと言ったのに、盛りの付いた猫かよ」

「盛っても仕方ないよ」

 苛立ちを隠せない風城の横で藤島はくすりと笑みを零す。

「大好きな人と一緒にいるんだもん、キスの一つや二つはしたくもなるよ」

「はっ。そりゃ乙女チックでよござんしたねぇ」

 けらけらと心底馬鹿にしたような笑いに、しかし藤島は気分を害した様子もなく自身もまた乙女のようにうっとりとした表情を浮かべた。

「いいなぁ。私もしたいなぁ」

 そんな彼女の言葉に、彼氏は苦笑交じりに返す。

「メロンパンもらったからいいだろ?」

「口付けてないやつだったから、間接キスすらなかったんだけど」

「いいじゃねえか、めぐんでもらえて。俺なんか万札握らされただけだし」

「それはそれでいいじゃん。握り握られしてる時にたくさん手に触れられて。私だって岸間くんの手にぎにぎしたい」

「あいつの手、男の癖に妙になめらかでドキッとするんだよなぁ……」

「遠回しな自慢禁止。怒るよ」

「負け犬の遠吠えほど耳障りなものはねえな」

 そうして数秒睨みあった後、風城が口を開く。

「あーあ。ついに発症しちまったなぁ」

「まあ、正直いつかはなると思ってたけどね」

「最悪間接キスで感染するしな。その程度ならあのヘタレもやってるだろうし」

「…………いいなぁ」

「今日も一緒にメシ食えたんだからそれで満足しろよ」

「あっちの私は今頃二人っきりであーんとかしながら夕飯食べてるんでしょ? ずるい」

「まあそれはそうだろうけどよ……」

「あの私とは思えない私もずるいよ、あんなにいちゃいちゃして。ぽっと出の癖に卑怯だよ」

「ああ、岸間がまさかあんな藤島をご所望だとはな。正直びびった」

「やっぱり無愛想はよくないのかな」

「んなことはねえだろ。あくまで学年でも特に大人びてる藤島っつうベースがあってこそ、あの天真爛漫な性格にギャップが生まれてんだろうよ」

「なるほど………」

「あいつにも、明日辺り話しにいかねえとな」

「そうだね。もし下手にばらされでもしたら今までやってきたこと全部意味なくなっちゃうし」

「最悪何もかもおじゃんになりかねねえしな。そう考えると今日話しとくべきだったか? くそ、しくじったな……」

「大丈夫だよ。ばらすなら初っ端からばらして疑心暗鬼になった岸間くんを独り占めするし」

「それは藤島としての思考か?」

「もちろん」

「末恐ろしいなてめえは……」

「女の子なんてみんなそんなものだよ。好きな人のためには鬼にだって貝にだってなれるの」

「おっかねえ話だな。まあ、そういうことならあいつは大した脅威として認識する必要もねえか。あれだけオリジナルと乖離してるなら、藤島に対する好意が全部持っていかれて妄想する意味を失うっつうこともねえだろうし」

「………ねえ、もういいんじゃないの?」

「何が」

「私と風城くんの恋人ごっこ」

「いや、ダメだ」

「なんで」

「これは最終防衛ラインに必要な設定だ。もしあいつがDLSの真相を知ってしまったとしても、この防衛ラインで真実から遠ざけることはできる」

「それは、そうだけど……」

「それに今、本物の藤島として認識されているてめえからラブコールかけられたら、あいつが藤島といちゃつく妄想をする意義が無くなっちまうだろうが。そうなったらどうするつもりだ馬鹿」

「ば、馬鹿じゃないし」

「いいや馬鹿だ。今日だって嫉妬か苛立ちか微妙なラインで立ち回りやがって。あの阿保が鈍感だったからよかったものの、もし気づかれてたら一巻の終わりだったんだぞ」

「……………ごめん」

「ったく…………てめえが一番辛いのはよく分かってる。だが、てめえの頑張り抜きには俺の計画は成り立たねえんだ」

「そんなことないよ。一番辛いのは風城くんだと思う」

「馬鹿言え、俺はただやられたことやり返してるだけだ。倍返しですらねえ。……頼むぞ、藤島。零士のためにも、本物のお前のためにも」

「……うん、分かってる」

「俺でよければ、励ましの一つや二つは送れるんだがな」

「いらない。私が欲しいのは、岸間くんからのラブコールだから」

「……………願望投影で、あいつへの恋心を消してやっときゃよかったか?」

「そんなことされてたら本気で怒ってたよ、私。女の子は恋してなんぼだもん」

「だが、叶わない恋なら抱かない方がいいんじゃねえの?」

「ギャルゲオタクの風城くんがそれを言うの?」

「はっ、こりゃ一本取られちまったな」

「それに、好きな人のためだから頑張れてるところもあるし」

「………ホントに悪いな。こき使ってばっかで」

「ほんとにね。全部終わったら、一回ぐらいデートさせてよ?」

「俺と?」

「岸間くんと」

「だろうな。……分かったよ、あいつ騙くらかして一日ぐらいすり替えてやる」

「約束だからね」

「ああ、約束だ」

 風城が頷いたところで、ちょうど藤島の自宅に着いた。

「っ…………………」

 その門を見た瞬間、びくりと彼女の身体が震える。そこには怯えの色があった。

 彼女は震える手でポケットからケータイを取り出し、アルバムアプリを起動する。

 そこにあるのは、千枚に及ぶある少年の写真。

「岸間くん、岸間くん…………」

 すがるような瞳で写真を見つめ、それから彼女は鞄からあるものを取り出した。

 それは、中身の入っていない菓子パンの包みだった。

「なんつーもん持ち歩いてんだてめえは……」

「岸間くんからの、初めてのプレゼントだから」

 照れ臭そうに笑った彼女は、まるでぬいぐるみのようにその包みを抱きしめる。

 傍から見ればどうしようもなく滑稽な姿、だがその表情には隠しきれないほどの恋慕の情が溢れていた。

「………うん、勇気湧いてきた」

 満足したとばかりに頷き、彼女は包みを丁寧に鞄の奥底へとしまう。

「じゃ、また明日」

「おう。………頑張れよ」

 風城の言葉に淡い微笑みを返し、彼女は門を抜け、家の鍵を開けた。

「おっせーぞ絵梨!」

 玄関を上がる前に、怒号が飛んできた。

「ぐだぐだしてないでとっととメシ作れや、ああ!?」

 リビングでわめいているのは、藤島絵梨の実父だ。

 鼻を突くアルコールの匂いに顔をしかめることなく、岸間零士が感情の読み取れない表情と称した能面を顔に貼り付けた彼女は静かに廊下を歩んでいく。

 今日は何度殴られるのだろう。

 冷えていく心の中で、そんな乾いた言葉だけが浮かんでは消えていた。

 分かっている。

 これが彼女の役割。

 本物の藤島絵梨に代わって、藤島絵梨に与えられる予定であった暴虐の限りを受け入れること。

 それが、彼女がこの世に生み出された目的。

 分かっている。

 分かっていた。

 これが本物の自分を救う唯一の手段であり。

 ひいては愛する彼を救う手段になり得ていることを。

 ただ、それでも。

 凍りついた脳裏に、ふと困ったような笑みがよぎる。

 大好きな彼に、一度でいいから思いを伝えてみたい。

 駄目だとは分かっている。

 そんなことをすればすべてが終わってしまうことぐらい、理解している。

 だが、それでも。

 恋がしたいと、彼女は願った。

 ただ好きな人のことだけ考えていられるような、そんな何でもない日々を、彼女は夢見ていた。



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