迷路
今一度、膝の上に乗せた荷物の上に採点結果を広げた。
眉間にいくら皺をよせても点数が上がるわけじゃないのはわかっているけれど、どうも力が抜けず、試験中になぜこの答えに行きついたのか、それを思い出しては、そこで間違いに気付き今なら直線をなぞるように簡単に導き出せる答えを書く自分を思い描いてしまう。マークミスをした箇所もあり、ほんとうは何点だったのか、頭の中で勘定してしまう。だけど目の前の数字は変わらない。それは問題の難解さに比してあまりにも簡潔であり、その数字から逆に内容を辿ることはできなかった。サトルはテストの点数というものを見る度、零から百の数字の檻に無理やり押し込められていくのを感じた。そこに自分の努力や失敗やその他些細なしかし重要なものが含まれていないことに対するほとんど怒りに近い感情を抱いていた。それがサトルの眉間を硬くし、気持ちを暗くさせていた。これは挫折に近いものであった。まだ受験勉強が始まったばかりなのだが、サトルは志望校のランクを一つ落とそうかと早々に思った。
放課後に、家とは反対方向の電車に乗り塾に行った。模試の結果がかなり思わしくなかった。まだサトルには模試の問題が、様々な図や文章が複雑に絡まり合った巨大な迷路のように見え、それを上から偉ぶった大人たちが鳥瞰していて、半泣きになりながら走り回っている僕たちを見ているのを感じるのだった。
学内も最後のイベントだった文化祭を終わらせ、いよいよ多くの生徒が大学受験に対する準備を調えはじめていた。サトルは学校を出る前にグラウンドで練習しているサッカー部に顔を出した。他の部活は最後の大会を終えて三年生は引退していたが、サッカー部は選手権を勝ち抜き、二週間後にも大きな試合がある。サトルは夏の大会を機に引退した。三年生は引退するか、選手権まで残るかを選べるのだ。他にも何人かが同じように引退した。彼らのすべては補欠かベンチ外で、ろくに試合に出たことはなかった。
帰りの電車に乗っていると学校の最寄駅からサトルの顔を見つけてムラタがボックス席の向かいに座ってきた。
「さっきフェンス裏からグランド見てたろ」
「見てたよ。ちょっとだけな」
「中入って来て、先生に挨拶して行けばよかったのに。旅行のお土産もらえたかもしれないぞ」
「お呼びじゃないだろ。もうおれのことなんて忘れてるよ」
「そんなわけないだろ、いくらなんでも」
ムラタは笑った。俯き加減で笑いながら、上目遣いでサトルを見る。サトルはその笑い方が、ムラタに限ったことではないが、好きではなかった。しかし、まあな、と言いながら笑った。
「でももうほんとうに部外者だからな」
「そんな言い方するなよ。模試の成績が悪かったから、むかむかしてんのか」
ムラタはそう言って、サトルの膝元の紙に目を遣る。
「それもあるかもな」
サトルは採点結果をたたんで鞄の中に仕舞いながら投げ遣りに答えた。
「どうだった?」
「だから、悪かった」
「見せてみろよ」
「やだよ」
「いいじゃんかよ。見せても見せなくても点数は変わらないだろ」
サトルはわざとらしくため息をついた。このやりとりで説得されたわけではなかったが、サトルは今し方仕舞った用紙をもう一度取り出してムラタに見せた。ムラタはしばらくの間、どこをどのように見ればよいかわからない様子だった。
「すごいじゃんか。学内一位が四つもある」
「学内だけで競ってるんじゃないから、意味無いって」
「まあな。そもそもお前がこの高校にいるのがおかしいんだよ。もっと上行けば良かったのに」
「今さら言うなよ。家が近かったんだよ」
サトルはそう言いながら、少し良い気分になっていた。
駅をいくつか過ぎてから、車内がなにやら騒がしくなった。聞き耳を立ててみても、どうやら内輪ネタで盛り上がっているらしく内容はよくわからない。聞こえてくるのは脈絡のない単語と叫ぶような笑い声だけだった。それがムラタの頭越しに聞こえてくる。彼らの頭がちょうど遠くから見る山の稜線のように見える。そのうちのひとつは紅葉を迎えている。
「話変わるけどさ」
ムラタはサトルをじっと見据えた。
「おれと同じクラスのジョウタロウってやつがいるんだけど、知ってるか?」
「知らないな」
「そいつがさ、クラスの野球部とかサッカー部のやつらからなんか嫌われてるみたでさ」
「何かされてるのか」
「何もされてない、まだ。ただちょっと避けられはじめてる。だからなんとかできないかなと思って。お前、あいつらになんとか言ってくれないかな」
「なんでだよ。おれはもう元だし、お前だってサッカー部じゃんか。言えばいいだろ」
「おれが言ってもどうせまともに受け止められないから、お前に頼んでるんだよ」
「おれが何か言えば避けられなくなるのか。そんなことないだろ」
「言ってみなきゃわからないだろ」
不意に、ムラタの後方で小石ほどの大きさの物が宙を上がり、また重力に従って落ちた。
「ああ、落ちちゃった」
「失敗失敗」
「ちゃんと口でキャッチしろよ」
もう一度、奥のボックス席で何かが放物線を描いた。そして歓声が上がった。ムラタはそれを気にもとめず、思いつめたように窓の外を見ていた。
電車が止まると、ムラタの後ろのボックス席から女が一人、男たちに見送られて降りていった。
「あいつ、どう思う?」
「あれはないわ」
「やっぱり?」
「あいつタナカとやったらしいぜ」
「タナカかよ。趣味悪」
「お前もやらせてもらえよ。簡単に股開くぜ」
「頼まれてもやらねえよ。第一、顔が無理」
「じゃあ目瞑ってやればいいじゃん」
「あいつ臭いじゃん」
「ああ、わかる」
「じゃあ鼻も摘まんでやれ」
「あの声も無理」
「じゃあ耳塞げよ」
「そこまでしてやりたくねえよ」
彼らは笑った。サトルは話を聞いていて、これから笑うだろうということがわかっていたにも関わらず、驚いてしまった。それほどまでに大きな笑い声だった。しかし、周りの人たちのほとんどは自分の手元に目を落としているばかりで、冷やかな目でボックス席を見た数人もすぐに見るのを止めてしまった。
「思ったんだけどさ」
サトルは言った。
「もう卒業までもう半年もないだろ。ほっといても大丈夫なんじゃないか」
「おまえ、本気で言ってるのか」「まだ避けられてる程度なんだろ。みんな自分のことで忙しくて本気にはならないだろ」
「まだそういう段階だから止められるかもしれないんだろ。中学のときのこと忘れたのか」
「もうみんな大人だよ」
「ちょっと賢くなっただけで、それを使う方の頭は馬鹿なままだよ。もうジョウタロウも薄々感づいてるんだよ。おれとか誰かにはっきり言うわけじゃないけど、わかるかわからないかくらいのやり方で避けられたり無視されたりすると、あれ、って顔するんだよ」
「だから、嫌われるだけだって。その先はないよ。そんなの構ってられないから大丈夫」
「ジョウタロウの気持ちを考えろよ」
「そんなもの、解るわけないだろう」
「他人に嫌われて避けられて、喜ぶ馬鹿いるわけないだろ」
「だから。それが解らないって言ってるんだよ」
「お得意の屁理屈だな」
タムラは薄く笑った。軽蔑するような感じはなく、それを楽しんでいるような笑い方だ。
「たしかにおれにはあいつの気持ちはわからないし、喜ぶ馬鹿だって可能性がないっていう根拠はないよ。だけどそんなことを言ってたら誰も何もできなくなるぞ」
「そうなんだよ、ほんとは。論理的にはそうなるんだよ。だけどみんなそれを無視してるんだよ。おれたちの他人に対する言動は全部予測で、それが本当に相手が求めてたり嫌がったりするかなんてわからないんだよ。おれはそんなものに誇りも責任も持てない」
ムラタはそれを聞いて、少しの間、黙った。試すような目をしてサトルを見ている。わざと間を作って沈黙でサトルを否定しているような感じだった。そして徐に、諭すように言った。
「おまえは論理的にそういう帰結になったら、そう思ってなくても、そうするのか」
サトルは口を開きかけたが、やはり閉じた。しばし考えてみる。しかし、それは実体の無い幽霊のような言葉だと思った。それでもサトルはその言葉を言うしかなかった。
「おれは、本当に、他人には干渉しないべきだと思ってるんだよ」
「本気かよ」
サトルは自分の中になにか形容し難い不快感が広がるのを感じていた。それが口を重くさせた。
「例えば誰か一人の命と引き換えに世界を救えるとして、ジョウタロウが名乗り出たらお前止めるだろ」
「だろうな」
「でもそれが赤の他人だったら止めないだろ。むしろ腹の底でラッキーだと思って、そんで自分が名乗り出なかったことは棚に上げて、後でそいつを英雄扱いするだろ」
「それは言い過ぎだけど、たしかに止めないかもな」
「だろ。要はそういうことだよ」
サトルは喋ることが、考えることが億劫になってしまった。頭の奥底ではそれはちゃんと一連の線になって繋がっているのだが、それをうまく引っ張り出すことができず、諦めてしまっている感じだった。
「どういうことだよ」
ムラタは怪訝な表情を隠さなかった。
「まあ、また明日な」
電車が速度を落としてプラットフォームに立つ疎らな人たちを撫ぜているところだった。ムラタも仕方なく、といった様子で立ち上がり、ドアの前に群がる一人の人間になった。
「じゃあな」
ムラタが電車から降りて行った。赤毛のいる集団も降りて行った。
電車が再び動き出すと、サトルは少し首を伸ばしてみた。同じ車両の中には上を向き口を開けて眠っている中年男性がいるだけだった。サトルは先ほど赤毛の集団のいたボックス席に移った。そこには何かのキャラクターをあしらったグミが足もとの中央に、ぽつんと、しかし堂々と置かれていた。サトルは躊躇なくそのグミを手に取り、口にふくんだ。英単語のことが頭に浮かぶのを抑えて、ジョウタロウのことを考えてみた。しかし浮かんでくるのは、顔の無い男の子とその周りをぐるりと囲み見下ろす顔の無い男たちだけだった。
耳の奥で歯軋りが聞こえた。なめていると甘ったるい感じが口の中で滲んだ。
ふと見ると、眠っていた中年男性が寝顔はそのままに目だけを不自然にサトルの方に向けていた。目が合った。サトルは、しまった、と思い、すぐに目を逸らして先ほど自分が座っていた席に戻った。自分の心臓の鼓動が耳元で聞こえ、額には脂汗が浮かぶのを感じた。サトルは慌てて鞄から採点結果を取り出して目を落とした。