Third Day(1):三文の徳はなし
今朝に限って目覚めは早かった。
相変わらず部屋の中が薄暗いのは、電気が消えてカーテンも締め切っているせいだが、それにしたってやけに静かだった。
起き上がってカーテンを開けることで、俺の中のその疑問は解消された。
外はまだ微かに明るい程度で、ようやく朝陽が東の空に浮かび上がったところだった。
すずめの鳴き声を耳にするのもどこか懐かしく、空気に紛れてうっすらと白い靄が漂っていた。
それもそのはず、何しろ時刻はまだ朝の六時半にもなっていない早朝だ。
こんな時間に活動しているのは、ジョギングとラジオ体操に出かける人々くらいのものだろう。
起きたばかりでぼやけた目には、朝の日差しも毒物だ。
早すぎる目覚めにまどろみを殺しながら、俺はとりあえず顔を洗うべく、部屋をあとにした。
洗面所で顔を洗う。
キッチンに明かりはついていたが、そこに母さんの姿は見えなかった。
調理途中の朝食がテーブルに並んでいたので、そのときはたまたま席を外していたのだろう。
タオルで顔を拭く。
自分で言うのもなんだが、驚くほどに目覚めは爽快だった。
昨夜までの体の重さもだるさも、今はウソのように吹き飛んでしまっている。
ただ一つ文句があるとすれば、一体何が悲しくてこんな早朝に目を覚ましてしまったのかということだった。
繰り返すようだが、こんな早朝に目が覚めてもやることなど何一つない。
限られた一日の時間をムダに使おうとは思わないが、それにしたって少々度が過ぎている。
俺にはラジオ体操の日課もなければ、ジョギングの習慣もない。
夏休みとはいえ、ただでさえすることが少ない平日。
できることならもう少し、ベッドの中で惰眠を貪っていたかった。
しかしまぁ、顔まで洗って吹き飛ばした眠気はもうやってこない。
普段学校のある日だって、こんな早くに目が覚めることはないのだから。
「ま、仕方ないか……」
なにはともあれ、これからまだ二度寝に挑むというのもどこかバカらしい。
眠気がないということは、睡眠はしっかりと摂ったということなのだから。
あとは、そうだな……。
のんびりと朝食を食べながら、今日の予定を考えることにしよう。
「わあっ!」
と、リビングにやってくるなり、母さんは思わず一歩飛び退くようにして声を上げた。
「……何してんの?」
俺は奇怪な姿勢のまましばし固まる母さんを横目に、リビングのソファに座った。
「あー、ビックリした。朝っぱらから心臓に悪いわ……」
「……」
朝っぱらからすごい言われようだ。
「そんなに驚くほどのもんかな?」
引き続き朝食の準備を続ける母さんの背中に、俺は問いかけた。
「そりゃねぇ」
と、母さんはどこか楽しそうな声で背を向けたまま続ける。
「休みの日は必ずと言っていいほど昼まで寝てる隼人が、まさかこんな時間に起き出してくるなんて。雪でも降らなきゃいいけど」
真夏に雪が降るわけないだろうと、俺は内心で母さんに突っ込みを入れておく。
それでもまぁ、槍が降るよりは大分マシなんだろうけど。
俺は無造作にリモコンのスイッチを入れた。
電子音が鳴り、ブラウン管の画面に映像が映し出される。
早朝のこの時間じゃ、さすがに放送しているのはどこのチャンネルもニュース番組ばかりだ。
チャンネルを切り替えるのもムダなので、とりあえずは天気予報に耳を傾ける。
本日は全国的に晴れ、夕方まで熱くなる日々が続くとのことだ。
佐倉町のある地域にも、でかでかと快晴マークの太陽が表示されている。
最高気温は二十九度、最低気温は二十度。
快晴というよりは、蒸し暑い一日というのが正しい表現の気がする。
「それで、どうかしたの?」
ふいに母さんのそんな声が聞こえた。
「……何が?」
一瞬だけ迷ったが、今リビングにいるのは俺だけだ。
ということは、その言葉は俺に対して投げられたものなのだろう。
「こんな朝早くに起きてくるなんて」
「おかしい?」
「んーん、おかしくはないけど……」
フライパンを持ったまま、母さんが向き直る。
野菜炒めを皿の上に盛り付けながら、呟くように言う。
「……何か、悪い夢でも見たのかなって思って」
「…………」
悪い夢。
俺の中でそれに該当することと言えば、たった一つだけだった。
だけどその悪夢にうなされ続けていたのも、今はもう昔のことだ。
今ではそんなことはないに等しくなっている。
至って平和なものだ。
「別に、そんなんじゃないよ。ただ、何となく目が覚めただけで……」
「……そう」
カタン、と。
出来上がったばかりの野菜炒めが盛られた皿が、テーブルの上に置かれた。
「……あのね、隼人」
「ん……」
母さんのその声は、どこか悲しげに聞こえた。
言おうか言うまいか、ひどく悩むように、一拍の間が流れた。
「あなたはあの日の出来事を今も引きずって、負い目に感じていることがあるのかもしれない。だけどね、これだけははっきりと言える」
一瞬だけ、言葉が途切れる。
深呼吸をするような間。
続けて、母さんは言葉を吐き出した。
「あなたがどう思おうと、あの瞬間。間違いなくあなたは、七星にとってのたった…………」
しかしそこに続く言葉は、俺の耳に届くことはなかった。
「おはよー……」
そんな、いかにも朝に弱いアイツの声が聞こえてきたからだ。
「…………」
「…………」
母さんは俺と七星を交互に見やり、俺は母さんと七星を交互に見やった。
「……あれ?」
と、七星はそんな間の抜けた声を上げた。
「って、うわ! 隼人が起きてる。珍しい……」
などと、まるで珍獣扱いの一言を頂戴する羽目になった。
しかし、俺も母さんも返答はない。
不思議に思った七星が、俺と母さんを交互に見比べていた。
「……どうかしたの? 二人とも……」
すると母さんは何が面白かったのか、小さく笑って七星に向き直った。
「ううん、なんでもないの。おはよう七星」
そして俺に目配せをしてくる。
今の話はなかったことにしよう、と。
さっきの……。
母さんのあの言葉の後に、どんな言葉が続いたのか。
俺には見当もつかなかった。
だけど、母さんが会話を中断した理由はすぐに分かった。
母さんは七星の前で、あの日の話をするのが心苦しかったんだろう。
それは俺も同じことだったから、今は母さんの目配せに小さく頷いておく。
今日という一日が、どこか賑やかに始まる。
久しぶりに三人で囲むことになる朝の食卓を、焼けたトーストの香ばしい匂いが泳いでいた。
のんびりと朝食を食べるつもりだったのだが、あまりのんびりしてると料理も冷めて食欲もなくなってしまう。
結局、矢継ぎ早に朝食を意の中に納めていくことになってしまった。
それでも今朝の食卓は会話が弾んだ方だったと思う。
とはいっても、俺はいつもどおり母さんと七星の会話に耳を傾けていただけだ。
時折、何の前触れもなく七星が話を振るわけだが、基本的に俺は相槌を打つくらいのことしかしない。
それでも大体は、七星がしつこく絡んでくるわけで、端から見ればそれも会話として成立しているように見えるのだろう。
しかしその実態は、俺がいいように言われているだけである。
もちろん俺だってずっと黙ってばかりいるわけではないけど、七星のテンションに比べればずいぶんと大人しい。
コイツ、寝起きはメチャクチャに弱いくせにどこからこんなに喋る気力が溢れてくるんだろう。
まぁ、考えるだけムダなんだよな。
コーヒーをすすりながらテレビの画面に目を向ける。
画面の中は報道特集の連続だった。
とりわけ面白いとも思えないし興味もないので、俺はコーヒーを味わうことに集中していた。
とはいえ、インスタントのコーヒーにそこまで味を追求できるわけもない。
淹れ方は大分自己流になってきたが、味に大差があるのかというとそこまでのものでもなかったり。
そんな風にコーヒーをすすりながら、朝の時間は緩やかに流れていく。
さて、どうしたものだろう。
まずは今日の予定を立てるつもりだったのだが……。
改めて思っても、やはりこれといって特にすること、したいことは思い当たらない。
一昨日のように散歩がてらの買い物に出かけるという手もあるが、そこまで財布に余裕がわるわけでもない。
いっそのことバイトでも始めるという手もある。
が、残りわずかとなった夏休みではあまり期待はできない。
新学期が始まれば学校の方もそれなりに忙しくなるだろうし、バイトとの両立は難しいかもしれない。
夏休みの期間だけのバイトをするのなら、もっと早くに計画を立てておくべきだった。
さてさて、どうしたものだろうか……。
最後の一口を飲み干して、俺は溜め息をついた。
その横では、七星がのんびりと週刊誌のページに目を落としていた。
なんだかんだでコイツも結構暇そうなのに、今日は何をしようとか考えないのだろうか。
その辺は呑気というかマイペースというか、まぁ七星の場合はお気楽という言葉が一番似合う気もするけれど。
俺はソファから立ち上がり、空のカップを持ってキッチンに向かう。
ちょうど洗い物をしている母さんの隣に立ち、カップの中を水ですすいだ。
「あ、そうそう」
と、思い出したように母さんは口を開いた。
隣にいる俺もソファに座っている七星も、同時に母さんの方を向いた。
「二人とも、今日は何か予定とかあるの?」
洗い物に手を動かしながら、母さんは尋ねた。
「いや、俺は特に何も」
「私も、特には」
揃いも揃って暇人だったようだ。
「じゃあ、よかったらちょっと手伝ってほしいことがあるんだけど?」
どうだろうかと、母さんは俺達に聞く。
どうもこうも、まずはその手伝いの内容とやらを聞かせてもらわない限りは……。
俺は七星に目を向ける。
七星も同じ意見なのか、俺と目を合わせた直後、再び母さんに視線を戻した。
「手伝いって、なんの?」
蛇口を止める。
母さんは濡れた手をタオルで拭きながら、七星の方を振り返って言った。