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Last Day(5):ヒーローの手が血塗れた日



 炎の中にいた。

 床も壁も天井も、どこもかしこも真っ赤に染まっている。

 熱い、熱い、熱い。

 床の上に横たわる私の体に、炎の熱が迫る。

 痛い、痛い、痛い。

 体のあちこちを殴られる。

 やめてとどれだけ叫んでも、一方的な暴力は止まることを知らない。

 背中を殴られ、腕を殴られ、腹を殴られる。

 その衝撃に、肺の中の空気の塊を根こそぎ吐き出してしまう。

「ゲホッ、ゲホッ!」

 苦しい。

 息ができない。

 ただでさえ酸素不足だというのに、それを後押ししてしまう。

 そんなことは気にも留めず、暴力は続く。

 実に一方的。

 無抵抗な生き物を嬲り殺すのと同じ。

 弱者に対する強者の力の提示。

 弱いものいじめの究極形。

「やめ、て……お父さん、おね……がい……」

 少ない酸素を吐き出して私は叫んだ。

 しかしそれは叫びと言うにはあまりにも儚く、もはや囁きにしかならなかった。

 そんな声は、轟々と猛る炎の中では誰の耳にも届きはしない。

「お父、さん……やめて……痛い、痛い、よ……」

 言葉を口にするたびに、焼けた空気がのどの奥の肺まで回ってくる。

 声帯が麻痺してしまったように、もう小鳥のさえずるほどの声も出ない。

 イヤだ……こんなのは、イヤだよ……。

 痛いのはイヤだ。

 苦しいのはイヤだ。

 辛いのはイヤだ。

 ……助けて。

 誰か、助けて……。

 誰でもいい。

 もしもこの世界に神様がいるんだったら、お願いだから助けてほしい。

 もうこの際、神様なんて贅沢は言わない。

 今だけ。

 この一瞬だけでいいから……。

 正義のヒーローにやってきてほしかった。


 意識が遠のいていく。

 結局最後まで、この目に映っていたものは赤い炎の色だけだった。

 痛みなんてもう慣れてしまって、苦痛にしか感じない。

 体中から力が抜けていく。

 このまま眠ってしまえば、少しは楽になれるのかな?

 ……そうだ、きっとそうだよ。

 きっと、次に目覚めたら。

 今までのことは、全部悪い夢のせいにできるんだ。

 だから、眠ろう。

 もう、疲れたよ……。

 まぶたが落ちる。

 その刹那、誰かの声が聞こえた。

 待ってるからな。

 それは、彼との約束。

 ……ごめんね、隼人。

 約束、守れ……なか…………。

 意識が落ちる。

 かろうじて繋ぎとめておいた回線が、プツリと音を立てて途絶える。

 瞬間、世界の一部が崩壊した。

 バタン、と。

 大きく音を立てて、扉が開かれた。

 振り下ろされていた腕が止まる。

 私もその大きな音に、意識を取り戻した。

 目を開ける。

 炎に揺れる視界の先、誰かが立っていた。

 ひどく虚ろで、ひどく小さいその姿は、しかし確かな怒りを剥き出しにしていた。

「……はや、と…………」

 その名を呼ぶ。

 途端に、涙がとめどなく溢れた。

 来て、くれた……。

 それだけのことが、私には何よりも価値のあることだった。

「何だよ、これ……」

 声が聞こえる。

 ああ、本当に、間違いじゃないんだ。

 これは、夢なんかじゃないんだ。

「何やってんだよ、叔父さん!」

 小さなヒーローは吼える。

 その言葉を、覚えている。

 私はそのとき、どうしてか小さく笑ってしまった。

 不思議だよ。

 もう、何も怖くない、って。

 そう、思えたから……。


 ヒーローはやってきてくれた。

 ただ、それだけで嬉しかった。

 でもそれは、間違いだった。

 私はヒーローを望んではいけなかった。

 小さな体が突き飛ばされる。

 全身を壁に叩きつけられ、隼人は目に見えて弱々しくなっていく。

 考えてみれば当たり前のことだった。

 子供と大人じゃ体格はもちろん、力だって全然違う。

 勝負になんてなるわけがなかった。

「く、そ……」

 それでも隼人は立ち上がる。

 絶対に敵わないと分かっているはずなのに、何度でも立ち上がる。

 そのたびに、容赦のない暴力が隼人の体をボロボロに引き裂いていった。

 ガンッ!

 幾度目かの衝撃。

 背中から壁に叩きつけられ、隼人は力なく床の上にへたり込む。

 小さな体は、その全身が見ていられないほどにボロボロだった。

 どうにかまだ五体満足ではあるけど、もう体は言うことを聞かなくなっているはず。

「……もう、いい、よ……隼人、立たない……で……」

 このままだと、隼人まで死んでしまう。

 私なんかを助けにきたばっかりに、とばっちりを受けて死んでしまう。

 それだけは、絶対にダメだ。

 私の体はまだ動く。

 だったら、止めないと。

「……やめ、て。お父、さん……やめて……」

 両手で足にしがみつく。

 それに気付いてか、再び暴力の矛先は私に変わる。

 振り払われた足が、私の腹を抉った。

「……っ!」

 呼吸が停止しそうになる。

 必死に咳き込みながら、酸素を求める。

 直後に、また大きな物音がした。

 見ると、隼人が床に転がっていた。

 また壁に叩きつけられたのだ。

「はや、と……もう、いいから。逃げ、て……」

 隼人の体はまだ動いている。

 呼吸で胸が上下する程度のものだが、確かに生きている。

 しかしそれももう虫の息だ。

 生きていると言うことは、死んでないと言うことと同じではない。

 今の隼人は、かろうじて死んでいない状態だ。

 だからもう、これ以上立ち向かおうものならば、確実に死んでしまう。

 それだけは絶対に止めなくちゃいけない。

「立たない、で……もう、いい、から……立たないで、隼人……」

 祈るような囁き。

 隼人はこうしてきてくれた。

 それだけで、私は十分すぎるほどに嬉しかった。

 だからもう、立ち上がらないで。

 隼人まで苦しい思いをする必要なんて、どこにもないんだから。


 心の中でそう告げて、私は全身に力を込めた。

 ズキズキと痛みが走り、まるで自由が利かない。

 本当に、壊れたオモチャにでもなってしまった気分。

 それでもいい。

 オモチャだったら、痛みも苦しみも何もないんだから。

「お、父さん……私は、こっち、だよ……」

 少しだけでも、私が時間を稼ぐから。

 隼人、その間に逃げて。

 来てくれて、本当に嬉しかった。

 神様は、いたんだね。

 隼人は、本当に…………。

「私の中の、たった一人のヒーローだよ…………」

 頭上から拳が振り下ろされる。

 そこにためらいと言うものは何一つない。

 完全に我を失って、血の繋がった娘をその手で亡き者にせんとする暴力の塊。

 まるで映画のワンシーンのよう。

 クライマックスをスローモーションで見せるような、怖いくらいにゆっくりとした動き。

 ……ありがとう、隼人。

 目を閉じる。

 ……バイバイ、隼人……。

 視界が暗転する。

 その、直後。

「うあぁぁぁぁぁっ!」

 叫ぶ声。

 私は慌てて目を開ける。

 炎に包まれた視界の先、私の目に映ったもの。

 それは。

 ナイフを握ってお父さんに倒れこむ、隼人の姿だった。

 けれど、間に合わない。

 このままじゃ隼人のナイフよりも早く、お父さんの拳が隼人を殴りつける。

 そうなれば、きっと隼人はもう助からない。

 お父さんを止めなくちゃいけない。

 でもそうしたら、お父さんはナイフに刺されてしまう。

 私は……どうすれば……。

 悩んでいる時間はない。

 そうこうしている間に、お父さんの拳は完全に隼人を標的に変えていた。

 このままでは、隼人は確実に殴り飛ばされる。

 そして、そして……。

 死んでしまう……。

「……ダメ――――ッ!」

 気がつくと私は、お父さんの腕にしがみついていた。

 お父さんが私に振り返った、その一瞬に。

 隼人は、そのナイフをお父さんの体に突き刺した。

 そのまま、私達三人の体がバラバラに床の上に転がった。

 そこで私の意識は完全に途絶え、次に目を覚ますのは病院のベッドの上でのことになる。




「…………」

 一通りの話を終え、私はもう一度空を見上げていた。

 思ったよりも時間が経っていたのか、空の色はうっすらと紺色に染まり始めたところだった。

「……そっか。そんなことがあったんだ……」

 隣に座る葵は、暗い表情でそう呟いた。

「……うん」

 暗くなるのも無理はない。

 私が話した内容はそういうものだったから。

 少しだけ涼しくなった夕方の風が、私と葵の間を通り抜けた。

 心地よい風に、私はわずかに目を閉じた。

「……でも、私は後悔はしなかったよ」

「……え?」

「こんなこと言うと、お父さんもお母さんも悲しむかもしれないけど……」

 視線を戻し、葵を真っ直ぐに見据えて言う。

「私は、本当に隼人に感謝してるから……」

「……うん。部外者の私が言うのも何だけど、きっとそれは間違ってないと思う」

「ありがと、葵……」

「な、何よ改まって」

「話、ちゃんと聞いてくれたから」

「……それはこっちのセリフだよ。ありがとね、七星。話してくれて。ちょっとだけ、七星のことが分かったような気がする」

 言って、葵は微笑んでくれた。

 だから私も、笑い返してみた。

「でもさ」

「ん?」

「どうして急に、そんな大事なことを話してくれたの?」

「……正直、自分でもよく分かんないんだよね」

 でも、理由らしい理由があるとすれば、それは一つだけ。

「思い出した、からかな。きっと……」

「思い出したって……その、火事のときのこと?」

「うん」

 思い出したとは言っても、記憶がなくなっていてそれを思い出したわけじゃない。

 いつの間にか記憶の中からも薄れていったあの日の出来事を、思い出してしまったのだ。

「この前、みんなで入り江に行ったでしょ? あのときに、思い出したんだ……」

 あのとき。

 隼人は落盤から私を助けてくれた。

 それこそ、自分の身を犠牲にしてまで。

 そのときに、あの日の記憶がふいに甦った。

 絶対に敵わないと分かってる相手に、しかし何度も何度も立ち上がった隼人の姿。

 デジャヴュ、って言うんだっけ?

 あの日の隼人と、そのときの隼人が重なって見えたんだ。


「そっか……それで、ついつい思い出しちゃったってわけね」

 答えず、私は頷いた。

「そのときにね、私思ったの。ああ、また私は隼人に助けられてる。助けられてばっかりだな、って……」

「……人間なんて、みんなそうだと思うよ。気付かないところで誰かに助けられて、気付かないうちに誰かを助けてる」

 葵は詠うように言う。

「大切なのは、その気持ちを忘れないでいることなんじゃないかな? 少なくとも、私はそう思ってる」

「……そうだね。きっと、葵の言ってることは正しいと思う」

「その点で言えば、七星は大丈夫だよ。ちゃんとそのことを覚えてる。中には辛い記憶もあるだろうけど、ね」

「……うん。だけど、ね……」

 私の言葉に、葵が疑問の表情を浮かべる。

「それでもやっぱり、私は隼人を苦しめているんじゃないかって思うんだ……」

「な……どうしてよ?」

「……私のせいで、隼人は人殺しになっちゃったから。それは、私が弱かったせいだもの……」

「待って、七星。それは違うよ? 誰だって、人間なら弱さを持ってるものなの。強い人間なんて、それこそいないようなものだよ?」

「違うの。そうじゃないの……」

 自分でも驚くくらいに消え入りそうな声。

「……私がもっと強ければ……せめて、もっと早くに誰かに助けてって叫ぶことができれば、きっと、あんなことにはならなかった……」

「……七星」

「結局私が弱かったから、隼人は私を助けるために人殺しになるしかなかった。私が、隼人を人殺しにしちゃったの……」

「…………」

「……隼人はきっと、そのことでずっと苦しんできた。ううん、今も苦しんでる。いっそのこと、あの日私なんか死んじゃえば……」

「七星っ!」

 葵が怒鳴り声を上げた。

 私はビクンと肩を震わせ、葵に向き直る。


「……それ以上言うなら、私はアンタを引っ叩かなくちゃいけない」

「…………」

 葵は本気で怒っていた。

 膝の上で握られた手は、小刻みに震えていた。

「……ごめん。でも、私は……」

「七星、アンタ本気でそう思ってる?」

「…………」

「本当に、そう思ってるの? 来栖君がどんな想いで、たった一人でアンタを助けに行ったと思ってるの?」

「……それ、は……」

「来栖君にはね、選択肢があったの。警察が来るまで待つとか、大人に相談するとか。無難に乗り切ることなんて簡単だったの」

「…………」

「それでも彼は、それをしなかった。単身で火事の中に飛び込んで、アンタを助けた。そうでしょう?」

「…………」

「命をかけてまで、助けたいと思ってくれた人がいるの。そうして助かった命があるから、アンタは今、こうしてここにいる」

 葵は一度目を閉じ、ゆっくりと開ける。

「それなのに死んじゃえばよかったなんて、そんなの間違ってるよ。それは、七星だって分かってるはずだよね?」

 最後は諭すように、どこか優しく。

「……うん。分かってる、けど……」

 やはり私は、簡単に首を縦に振ることができない。

 その様子を見て、葵は言った。

「だったらもう、手っ取り早く確認したほうがいいよ」

「確認って、もしかして……」

 直接隼人に聞く、ということだろう。

「それは……」

 できることならそんなことはしたくない。

 あの日のことを無理矢理掘り返されることは、隼人だってイヤなはずだ。

「このままズルズル引きずっても、何も解決しない。ときには踏み出すことも必要だよ」

「…………」

 葵の言っていることはもっともだった。

 だけど私は、まだ心のどこかで怖がっている。

 あの日と同じ、弱い自分のままだった。

 このままずっと、弱いままの自分でいるの?

 そうやって逃げ続けて、何もかもを偽って生きていくの?

 それがどれだけ自分を苦しめる道か、本当に分かっているの?

「……私は」

 と、そのときだった。

 ふいにポケットの中の携帯がメロディを奏でる。

 無言で促す葵を横目に、私はデジタルの画面を覗く。

 そこに。

 着信――来栖隼人。

「……七星、がんばって。来栖君だってきっと、同じ苦しさを背負っているはずだよ」

 私は葵の言葉に小さく頷いた。

 そしてわずかに震える指先で、通話ボタンを押した。



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