Last Day(2):その道どの道逃げた道
俺は駅前までやってきていた。
目的なんて最初から何もなかった。
ただ、少しでも早く一人になりたかっただけ。
……いや、逃げ出してしまいたかった。
だからこうして、着替えだけを簡単に済ませて家を飛び出したんだ。
「ちょっと、用事を思い出した」
出かける理由にした言葉。
理由らしい理由もなければ、ウソなりにひねりを加えたわけでもない、ただの口からでまかせ。
もちろんそれは、ただの建前だった。
一人になりたかったというよりは、二人でいられなかったと言う方が正しいのかもしれない。
自分でもおかしいと思う。
だけど、もう七星のことを真っ直ぐに見ることができない。
それは昨日までのような、多少なりともお互いを意識していると言う気恥ずかしさなんかじゃなく。
正真正銘の、俺が七星に対して一方的に抱いている負い目だった。
それでも、共に暮らしてきたこの十年間、過去の一度も似たようなことがなかったわけじゃない。
歳を重ねるに連れて、俺の中でも過去の罪の重さを理解できるようになっていった。
初めはそれが恐怖以外の何物でもなかった。
けれど、それを忘れるくらいに俺達は三人で幸せだった。
本当の家族じゃないけれど、本当の意味で俺達三人は家族だった。
その居心地のよさが、俺の中から罪の重さを少しずつこそぎとっていったのかもしれない。
いつしか三人でいることが当たり前になって、過去の傷が目には見えなくなって。
俺はそのことを自分勝手に、自分の犯した罪が許されたと思うようになっていたのかもしれない。
いや、事実そう思っていたんだろう。
少なくとも、ほんの数日前までは。
それを掘り返したのが、ここ数日の間に連続して見続けた悪夢だ。
どうして今更、そんなものを見せるんだ。
もう終わったはずだろう。
今の俺から、居場所を奪わないでくれ。
そうやって、いつも言い訳をしてた。
許されなくていいと思いながら、忘れたいとだけ願ってた。
そうして今も、ただ逃げている。
誰が悪いわけでもない。
そもそも、悪いなんていう概念そのものがあってはいけないんだ。
頭では分かっているんだ。
今までだって、自分で何度も何度も言い聞かせてきたんだ。
俺さえ全てを受け入れてしまうことができれば、それで全てが終わるんだと。
分かってるのに、どうしてもできない。
心がいつもそれを拒んでいる。
受け入れたら、俺は、俺は……。
この手を血に染めて唯一守り抜いた大切なものさえも、離れていってしまうんじゃないだろうかって……。
ただ、不安だった。
ただ、怖かった。
言えばそれで、全てが崩れてしまうような気がするんだ……。
……おかしいよな。
夢の中では確かに、言えたはずなのに……。
人の波に沿って足を動かす。
明確な目的も目的地も持たず、歩く姿はまるで人形のように見えるかもしれない。
土曜日の昼間、いつにも増してアーケードを行き来する人の数は多い。
人々の喧騒と町の騒音が混じり合って、俺にはそれがチューニングのうまくできてないラジオノイズに聞こえて仕方がなかった。
雑音に雑音をさらに加えたような、ただの不快なだけの音の塊。
メロディも旋律もあったもんじゃない。
それらはただ、空気を振動させているだけに過ぎなかった。
……うるさい。
耳鳴りを覚える。
ただでさえ下を向いて歩いているのに、これ以上気分をうなだれさせられるというのだろうか。
静かな場所を求めたわけじゃないが、今の俺にこの大音量のノイズは毒以外の何物でもなかった。
道を外れよう。
このままじゃ本当に頭がおかしくなってしまう。
狭い裏路地に入る。
湿った空気と乾いたホコリの匂いが鼻をつくが、そんなものは毛ほども気にならなかった。
足元に散らかる掃き溜めのようなゴミを踏み潰しながら、薄暗い路地を進む。
空気が冷たい。
まるでここだけ季節が過ぎ去ってしまったかのようだ。
少し後戻りするだけで、そこは炎天下の夏の下だというのに、ここだけが中途半端に秋と冬の間にいるみたいだった。
どこをどう歩いたのかは覚えてない。
歩くことさえも面倒になってきていたはずなのに、気持ちとは裏腹に足はどこかへと向いていた。
「…………」
どこへ行くと言うのだろう。
体はいつでもブレーキをかけることができる。
それなのに足が勝手に動くのは、つまり俺が無意識のうちにアクセルを踏み込んでいるからだ。
なぁ、どこへ行くんだよ、俺は。
こんな場所に、目的地なんてあるわけがないだろう。
何よりもまず、俺には目的がないんだ。
目的がなければ、そもそも目的地なんて存在するわけがないじゃないか。
散歩するにしたって、もう少し気の利いた場所があるだろう。
何もこんな、薄暗くて小汚い路地裏の細い道を歩く必要はない。
……さぁ、引き返そう。
人ごみの中をまた歩くのも億劫だが、このままどこに通じるかも分からない道を行くよりはマシだ。
「……何で……」
しかし、どういうわけか踏み出す足は止まることを知らない。
それはもう、俺の意思のどうこうを完全に無視している。
ただ、前へ。
どこに続いているかも分からない暗がりに向かって進む。
……おいおい。
何だよ、何があるって言うんだよ、この先に。
何もありはしないさ。
少なくとも、今の俺が求めているものなんてあるわけがない。
それを言ってしまえば、今の俺が求めているものなんて世界中のどこにもありはしないのだろうけど。
「そう、だ……。あるわけがない。答えなんて、どこにも……」
それでもこの足は、どこかを目指してる。
まるでそこになら、答えまではないにしても、それに繋がる鍵くらいは落ちているよと言わんばかりに。
前へ、前へ。
細い道は続く。
広がるのは無機質な灰色の壁だけ。
ここには、はるか上空の陽の光さえもまばらにしか届かない。
ところどころ、薄汚れた地面が木漏れ日のように光の欠片を映し出している。
俺の足は、まるでそれを追いかけるように進んでいた。
ふいに、何かを思い出す。
ただ細く狭いだけの汚い路地裏に過ぎないこの場所。
でも確かに、見覚えのある景色。
どこかで見た、どこでもない場所。
それはほんの数日前の記憶。
二人並んで歩いた道を少し外れて、アイツが俺の手を引いて歩き出した場所。
閃光のように甦るイメージ。
気がつけば俺は、その場所に立ち止まっていた。
古びて錆付いた店の看板と、電球の切れたネオンサイン。
目印らしいものといえばたったそれだけ。
それでも、その場所は十分俺の記憶に新しい。
中古のCDショップ。
看板が古いせいで、店の名前さえも分からない。
俺はその古びた看板をジッと見上げていた。
「…………」
一歩、足を踏み出す。
今度はちゃんと、自分の意思で。
ガーと音を立て、反応の悪い自動ドアが開く。
ドアが完全に開き切ってから、俺は店内に足を踏み入れた。
空気がガラリと変わる。
陰湿な路地裏とは取って代わり、店内は数日前と同じゆったりとした暖かい空気が流れていた。
店内にはテンポのいいジャズの曲が流れ、こう言うのもなんだがちょっとした時代錯誤を覚えてしまうくらいだ。
「いらっしゃい」
と、カウンターの奥から声がした。
見ると、そこには身長がゆうに百九十センチはあるかという巨体の男……店のマスターが椅子に座ってコーヒーを口にしていた。
この男性、背丈が高いだけではなく恰幅もいい。
ようするに縦にも横にも大きな男なわけだ。
俺はマスターの挨拶には答えず、代わりに小さく頭を下げて店の奥へと歩き出した。
今日はたまたまだろうか、見渡す限り店内に俺以外のほかの客の姿は一人も見当たらなかった。
もとより客足は少ないだろうとは思っていたが、ここまで客がいないのも考え物である。
まぁ、それも店そのものの立地条件を考えれば仕方のないことだ。
もう少し表通りに面した場所にあれば、若い年代の客層は店を覗きに来てくれるとは思うのだが。
と、店内を歩き回りながら思った。
どうしてこんなところに立ち寄ってしまっているのだろう。
……いや、考えるのはやめよう。
俺はたまたま路地裏に入って、その道がたまたまこの店の前に続いていたと言う、ただそれだけのことだ。
辿り着いた場所が見覚えのある店だったら、フラフラと足が向いても不思議なことはない。
そうだ、そうに決まっている。
何も目的を持たずに歩いていたんだ。
ここが俺にとっての目的地である理由も根拠も、そんなものは何一つありはしないのだから。
とはいえ、さほど広くもない店内とはいえ客が俺一人というのはどこか変な気分がする。
これといって欲しいものがあるわけでもなく、それなのにこうやっていつまでも店内を見て回るのは迷惑ではないだろうか。
俗に言う冷やかしと何一つ変わりはしないのだから。
チラと、俺は店の一角からカウンターのマスターの姿を見た。
しかしマスターは俺のことなど気にもくれず、相変わらずのその大柄な体を椅子に預けて新聞を読みふけっている。
ごゆっくりどうぞという意味合いだろうか。
まぁ、マスターとしても客がいないんじゃ商売にもならないわけだよな……。
洋楽のCDの棚を見て歩く。
どれもこれも知らない海外のバンドばかりだったが、中にはどこかで見たことのあるグループのジャケットも目に付いた。
しかし、英語ならまだしも他の言語では曲名も歌詞も読めないし、日本語の意味も分からない。
結局俺はCDを見て回ると言うよりは、ジャケットのデザインを見て回っているだけだった。
そんなことをしている時間でも、俺には悪いものじゃなかった。
少なくとも、こうして他の事に集中している間だけは余計なことを考えないですむ。
そう考えれば、結果としてこの店に立ち寄ったのは正解だったのかもしれない。
あのままだと俺は、本当にどこまでも際限なく自分を追い詰めていただろう。
きっかけなんて何でもよかったのかもしれない。
今はただ、こうして落ち着いて何かを考える時間が必要なだけで。
「…………」
不思議と気分が落ち着く。
店内に流れるメロディがそうさせたのかもしれない。
聞いたことがあるようで、でも実際は全く知らない曲。
それでも懐かしさが芽生えて、ついつい耳を澄ましてしまう。
曲自体は似たようなメロディを繰り返しているだけだと言うのに、どうしてこんなに気持ちが落ち着くのだろう。
音楽には癒しの効果があるというのは、今ではもう周知の事だ。
ということは、俺も癒されているということなのだろうか。
だとしたら、俺は何を癒されてる?
何を癒してほしい……苦しさから開放して欲しい?
……そんなのは、分かり切ったことだった。
「……俺は……」
ふいに、店内の雰囲気が変わった。
今まで流れていたジャズの曲が途絶え、一瞬だが完全な静寂がこの場を支配した。
空気が凍るように収縮していくのが分かる。
さっきまでの路地裏と同じ。
何も聞こえない。
気分が悪くなってくる。
また、この場所からも逃げ出してしまいたいという抑えきれない衝動が芽生える。
が、それも一瞬だった。
カチリと、何かが切り替わる音。
ジジジという機械音。
直後に、さっきまでとは違う別のメロディが流れ出した。
「……この、曲は……」
それは、気のせいでも間違いでもなく。
今度こそ心の底から懐かしいと思える、大好きなメロディが流れ始めた。
フリープルーム。
自由の羽根と言う意味の曲。
俺はこの曲の歌詞を全て、一言一句間違えずに口ずさむことができる。
昔大好きだったドラマの主題歌として歌われていた曲。
当時はCDなんて買わなかった。
ただ毎週のようにドラマを見ているだけで、フレーズは頭の中に入っていった。
そのメロディが。
その詩が。
何よりも心地よかった。
曲を聴いている間だけは、まるで自分の背中にも羽根が生えているように思えた。
自由なんて、そうそう簡単に手に入れられるものじゃないけど。
誰だって手にできるよと、曲の中の詩がいつも言っていた。
その言葉が、全然ウソに聞こえなくて……。
「…………」
気付けば俺は、目を閉じて曲に耳を傾けていた。
あの夜。
ほんの数日前、この店で買った同じ曲のCD。
一度聴いただけで、今はもう机の上に投げ出したまま。
あの夜は、信じられなかった。
自由なんてない。
俺には羽根もないと、否定した。
……おかしな話だよな。
あれっきり聴きたくもないと思ってた曲に、今こうして耳を傾けているんだから。
だけど、不思議なんだ。
どうしてか今は、あの頃と同じように、ただこの曲を心地よく思えてしまえるんだ。