Last Day(1):奪い、奪われたモノ
勇者はその聖なる剣で、魔王を打ち倒すと言う。
握り締めた途端、迸るような熱が掌を焼いた。
それでも、握った手を離さない。
立ち上がる。
生まれたての子犬が何度も転びながら立つように、その何倍もの時間をかけて立ち上がる。
体中が悲鳴を上げた。
痛み以外の感覚など、すでに持ち合わせてはいなかった。
ボロボロの体で、炎よりも揺れて立ち上がる。
呼吸を繰り返すたびに、焼けた空気がのどの奥と肺の中をさらに焼き尽くす。
満身創痍とはこのことだった。
立ち上がったところで、前に進む力が残るとは思えない。
それでも俺は、立ち上がらなくちゃいけない。
目の前で泣いているアイツを、助けなくちゃいけない。
何かを救うために、別の何かを犠牲にしなくてはいけないというのなら。
俺は喜んで、この体を差し出してやる。
膝が笑う。
情けないな、無様だなと、自分で自分を笑い飛ばす。
ああ、情けねーよ。
ああ、みっともねーよ。
無様で仕方ねーよ。
それでも俺は、立った。
この一瞬だけ、勇者であるために。
ヒーローであるために、俺は立つんだ。
だけど、きっとそこまでだ。
立ち上がったところで、俺にはもう戦いを挑む力なんて残されてはいないだろう。
この手に握った、剣とは似ても似つかない小さな刃も、ただの一回さえも振り下ろすことは叶わないさ。
……だけど。
そんな無様な勇者でも。
そんな傷だらけのヒーローでも。
目の前の敵に向かって、倒れ込むくらいのことはできるんだ。
笑う膝で、一歩前へ。
体はバランスを崩し、前へと倒れる。
その刹那、さらに一歩前へ。
さらに、さらに一歩前へ。
ひどく乱れた足並み。
九十歳を超えた老人だって、もうちょっと真っ直ぐ歩けるだろう。
でも、それでもいい。
絶望的とも思えたその距離は、這うように歩いても十分手が届く距離だったのだから。
よろめき、つまづきそうになりながら前へ。
ただひたすらに、前へ。
地上と星との距離が今、限りなくゼロへと近づく。
ここまできたら、もうエンディングは目の前だ。
最後の一歩。
踏みしめた大地は、どうしようもなく不安定で。
だけどその手に握った刃を、決して離さない。
今一度、強く握り締める。
炎の熱さを忘れるほどに、強く、強く、強く。
何よりも強く。
願いはただ一つだけ。
壊れてもいい。
ただ、もうアイツの泣き顔を見たくなかった。
本当に、それだけのこと。
傾く体。
これで、本当に終わり。
薄れ行く意識の中で、振り返った悪魔の顔を見た。
直後に、吐き気を覚えるような手応え。
肉を突き破る刃の感覚。
右手が何か、温かい液体に濡れていた。
倒れれば最後。
もう、立ち上がる力なんてどこにも残されていない。
だからこれは、俺が最後に見た炎の中の記憶。
一瞬、幻かと思った。
悪魔の顔が、優しく笑ってた。
口の端に赤い雫を伝わせながら、何かを告げていた。
ありがとう、と。
そう、聞こえたような気がして。
そこで俺は、今度こそ意識を失った。
日に日にあの頃の夢が鮮明になっていく。
推理ドラマが解決編に向かって進行していくようだ。
最初はただの映像。
次はシーンの再生。
そして、役者の再演。
苦痛でしかなかった。
誰も好き好んでこんな夢を見たいわけではないと言うのに。
まるであてつけのように、悪夢は連日甦る。
だから今もこうして、夢見の悪さに俺は一人苦しんでいる。
どれだけ体が拒み続けても、夢と言うのは結局その人間の心の問題だ。
だから俺にはきっと、この悪夢に苛まれ続ける、その理由となる何かが心にあるのだ。
そして俺はそれが何であるか、すでに答えを導いている。
そこまでできているのなら、あとはそれを言葉や行動に移すだけでいい。
そう、その通りだ。
だけど俺は、そのたったそれだけのことができないんだ。
伝えるべき言葉も、やるべきことも全て知っている。
それでも心のどこかで、俺はいつも怯えていた。
だって、俺の手はもう真っ赤な血の色に染まってしまっている。
罪人の手なんだよ、この手は。
たった一度の傲慢で、数え切れないほどのものを失ってしまったんだ。
……いや、失わせてしまったんだ。
それは本当にかけがえのないもので。
世界中どこを探しても、そこにしかなかったもので。
たとえそれが俺にとってどれだけ大切な人を傷つけたとしても、俺がその人を傷つけていい理由にはならなかったんだ。
ちょっと考えれば分かることだった。
そんな大切なことに気付いたのは、もう何もかもが手遅れになってからだった。
結果として、俺は俺の大切なものを守った。
その代わり、大切なものが大切にしていたものを奪った。
奪った俺が幸せを手に入れて。
奪われたアイツが幸せを失った。
それがどれだけ理不尽なことか、考えるまでもないだろう。
結局はただの自己満足だったんだ。
俺はあの日、ヒーローになれたつもりだった。
自分にとって大切な人を守ることができたから。
だけど、大切な人を守ったその手は、もう取り返しのつかない罪を犯していた。
何かを守るためには何かを犠牲にしなくてはいけない。
その犠牲は、俺が背負わなくちゃいけないはずだった。
俺が俺を犠牲にしなくちゃいけなかったんだ。
だけど俺は、知らず知らずのうちにそのことから逃げていた。
結果、俺は自分を何一つ犠牲にすることなく、俺の大切なものを守り通した。
その影で、俺の代わりに犠牲になったものがあったなんてこと、気付きもしなかったんだ。
そのことに気付いたのが、アイツが俺の家で一緒に暮らすようになった頃だった。
新しい三人の家族。
母さんと二人だけの暮らしは辛くも苦しくもなかったけど、一人増えた三人の家族は楽しかった。
違和感なんて何一つ感じさせなかった。
まるで最初から三人は家族だったかのように、当たり前の日々を過ごしていた。
でもあるとき、俺は思った。
どうしてアイツは、俺と母さんと一緒に暮らしたいと思ったんだろう?
そして俺は、一つの結論に至る。
この新しい三人の家族の中で、血の繋がりがないのはアイツだけだ。
家族なのに、どうして血が繋がってないんだろう?
それは、アイツが本当の家族じゃないからだ。
じゃあ、アイツの本当の家族はどこにいるの?
それは……。
……あれ?
アイツの、本当の、家族……?
ねぇ、どこにいるの?
それ、は…………。
ねぇ、どうなの?
…………。
……いないんでしょ?
え……。
いないんだよ、本当の家族なんて。
……何を、言って……。
いるわけないんだよ。
…………。
だって、当たり前でしょ?
まさか、忘れたの?
だったら、思い出させてあげるよ。
……やめろ。
アイツに家族がいない理由。
…………やめろ。
俺がこの手で――殺したからさ。
やめろ……っ!
目が覚める。
どこへ伸ばしたのか、俺の右腕は無造作に虚空を掴もうとしていた。
「は、はぁ、はぁ……」
寝起きとは思えないほどに呼吸が乱れている。
にもかかわらず、不思議と寝汗の一つも流していない。
だらしなく伸びた手が、ストンと抜けるように落ちる。
呼吸を少しずつ整えながら、俺はようやく悪夢にうなされていたことを思い出した。
夢の中はいつも炎の中。
誰かを守り、誰かを殺したあの日。
あのときから十年、今でも俺の手は見えない血の色に染まったまま。
罪を背負うこともできない罪人。
傲慢すぎた自分の中の正義。
悔やんでも悔やみきれず、だからこうして夢の中で苦しむのかもしれない。
自分の罪を改めて知るように、そうすることが償いであるかのように。
「……っ!」
奥歯が軋む。
今更許してほしいなんて思っていない。
許されればきっと、俺は罪の重さまで忘れてしまうから。
背負わなくちゃいけないと、頭では嫌になるほどに分かっているのに。
未だに答えが見つからないんだ。
俺が犯した罪をどう背負えばいいのか。
アイツに、伝えなくちゃいけない言葉があるはずなんだ。
それはきっと、難しいことじゃない。
驚くくらいに簡単な言葉なんだ。
「隼人? いるの?」
コンコンと扉を叩く音と、廊下のいる七星の声。
俺は一瞬、肩を震わせた。
単純に驚いただけでもあったが、あまりにも悪いタイミングでその声を聞いてしまったからかもしれない。
「……隼人? まだ寝てる?」
「……いや、起きてる。何?」
「ん、別に用事ってほどのことじゃないんだけど。ただ、なんか悪い夢でも見た? 叫んでたよ?」
「え……俺がか?」
「うん。なんか、やめろって。ちょうど部屋を出たときに聞こえたんだけど、いきなりでビックリしたよ」
「……そう、か……。そんなこと言ってたか、俺……」
やめろ、か……。
それは、誰に向けて叫んだ言葉なんだろうな。
今の俺自身か、それともあの日の俺に向けてか。
どちらにしても、そんなことを叫ぶようじゃ結局俺は何も変わってないってことだな。
ずっと逃げ続けてる。
逃げ切れないって分かってんのにさ……。
ったく、往生際が悪いって言うか、諦めが悪いって言うか……。
「ホント、何やってんだろうな、俺は……」
「……ねぇ、隼人? まだ半分寝ぼけてるの?」
「ああ、そうかもしれない。今起きたばっかなんだ」
「まぁ、そんなことだろうとは思ったけどさ。もうお昼近いんだし、あんまり寝すぎてると脳が溶けちゃうよ」
「……ああ、悪い」
「……変な隼人。ま、いっか。早く起きなさいよね」
足音が遠ざかっていく。
足取りは軽く、どこか嬉しそうなリズム。
どうしてそれが、こんなにも俺を苦しめるんだろう……。
「……ちくしょう……」