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Third Day(5):真実と現実は近く遠く



 十五分ほどして、俺は七星と入れ替わりにシャワーを浴びていた。

 擦り剥いた腕の傷にお湯がヒリヒリと痛んだが、構わずに汗を洗い流す。

 体と髪の毛をしっかりと洗い流し、やることだけ終わらせて手早く着替えを済ませる。

 強く打った背中が気になったが、今はほとんど痛みもない。

 まぁ、あとから痛み出すようだったらシップでも張っておくことにしよう。

 タオルで髪の毛を拭きながら、俺はリビングに向かう。

 汗も流し終わり、サッパリとした気分だ。

 リビングに戻ると、ソファに座る七星の後姿が見えた。

 一瞬、さっきのやり取りが思い浮かんで心臓が高鳴るような錯覚を覚える。

 いや、それが本当に錯覚かどうかはこの際置いておくとして。

 テレビの中では、ドラマの再放送が流れていた。

 七星はそれに見入っているのか、俺がリビングに入ってきたことにもまだ気付いていないようだった。

 が、それは違った。

「……ん?」

 テレビの音声に紛れて、何かが聞こえる。

 まるで隙間風が吹き込むような、そんな小さな音だ。

 その音の正体は、案外目立つ形でそこにいた。

「……スゥ…………スゥ……」

 音の正体は、ソファで眠ってしまった七星の小さな寝息だった。

 午前中からの手伝いで疲れが溜まってしまったのか、七星はソファに座ったまま眠ってしまっていた。

「……ったく、呑気なヤツ……」

 俺は呆れながらも、どこかで七星の寝顔を直視できないでいた。

 しかし、いくら夏場といっても冷房の効いた部屋でそのまま寝かせておくと風邪を引かれてしまうかもしれない。

 世話が焼けるとは思いながらも、不思議とそれを面倒だとは思えなかった。

 俺は一度母さんの部屋へ行き、押入れの中から薄手の毛布を一枚引っ張り出す。

 そしてそれを、呑気に眠る七星の体にそっとかけた。

 何も知らない七星は、相変わらずスゥスゥと幸せそうな寝息を立てていた。


 さてと。

 俺も部屋に戻って、夕飯までの時間を潰すことにしようか。

 二階に上がる前に、テレビを消しておこうとリモコンに手を伸ばす。

 リモコンを画面に向け、電源を切ろうとした、その瞬間。

『そうやって、いつまで逃げているつもりなの?』

 その言葉に、俺は一瞬心臓を鷲掴みにされたような感覚を覚えた。

 なんてことはない。

 それはただ、ドラマの中の人物を演じる女優が放った、脚本どおりの一言に過ぎない。

 ただ、それだけだというのに。

 ……どうしてだろう。

 その言葉は、俺の心の全てを見透かしているような気がして……。

「…………ッ!」

 電源を切る。

 電子音と共に、画面は瞬く間に暗転した。

 リモコンをテーブルの上に戻す。

 ゴトリと音を立てたが、七星が起きることはなかった。

 言葉ではうまく言い表せない感覚が、俺の中で渦巻いていた。

 だけど俺は、それと向き合おうともせずに踵を返す。

 二階へと階段を上がる。

 自分の足音が、家の中にこだました。

 そうやって俺は、また知らず知らずのうちに逃げ出していたのかもしれない。

 いつまで、だって?

 そんなの、俺が聞きたいくらいだ……。




 助けて、助けて、助けて……。

 声にならない言葉がこだまする。

 痛みに歪む視界の先、炎の中で揺らめく景色。

 美しいほどに猛る赤は、灰燼の空に火の粉と言う星を降らせる。

 一方的な力の行使は止まることを知らず、あたかも炎がその凄惨さを強調しているかのよう。

 体は……ダメだ、動かない。

 指先一つ動かすだけで、全身をズタズタに引き裂かれるような痛みが走る。

 もはや苦痛を上げることさえも至難で、かろうじて目を開けるのが精一杯。

 揺らめく炎の中、悪魔の手もまた揺れていた。

 相変わらずの耳障りな音。

 叫ぶような悲鳴はいつしか、泣き声を殺して痛みに耐えるだけの悲痛に変わっていた。

 助けなくちゃいけない。

 心がそう言っている。

 助けられない。

 体がそう言っている。

 力が欲しい。

 たった一度だけでいい。

 この体を無理矢理にでも立ち上がらせ、目の前の悪魔を打ち倒すだけの力が欲しい。

 そのためなら、たとえこの体が炎に焼かれて消えてもいい。

 一度だけでいいんだ。

 たった一度だけ、俺にヒーローになれる力を与えてくれ。

 アイツを……助けなくちゃいけないんだ。

 守ってやるって、決めたんだ。

 だから……。

 動けよ、俺の体……ッ!

 筋肉をねじ切って、血管を引きちぎってでもいい。

 俺にはまだ、立ち上がる足がある。

 俺にはまだ、殴りかかる拳がある。

 俺にはまだ、やめろと叫ぶ声がある。

 俺には、まだ…………。

 守り通すと決めた、大切なものがあるんだ!

 そして俺は、それを見た。

 真っ赤な炎の中、それだけが奇麗な銀色を輝かせていた。

 それは。

 神が与えた、悪魔の刃だった。




 目を覚ます。

 いつの間に眠ってしまったのだろう。

 俺は体を起こし、明かりの消えた部屋の中を見回した。

「……俺、寝ちまったのか」

 部屋に戻ってきたところまでは記憶があるのだが、そのあとがどうしても思い出せない。

 ということは、部屋に戻ってすぐに眠ってしまったと言うことなのだろう。

 眠気はほとんどなかったはずだが、今日一日の肉体労働を考えれば無理もない。

 シャワーを浴びて目が覚めたと思っていたが、逆に体が休息を求め始めていたのかもしれない。

 枕元の時計は間もなく九時を示そうとしている。

 うたた寝程度の時間と思ったが、そうでもなかった。

 確か、帰宅したのは三時前後だったはずだから、かれこれ六時間近くも眠っていたことになる。

 どうりで頭がスッキリしているわけだ。

 そんなことを考えていると、急に空腹感がこみ上げてきた。

 いつもの夕食の時間はとっくに過ぎているし、それも当然か。

 何はともあれ、一度下に下りたほうがよさそうだ。

 寝癖の立った髪を軽くかきながら、俺は部屋を出てキッチンへと向かった。


「あら、ようやく起きてきた?」

 キッチンではすでに夕食が終わり、母さんは洗い物にいそしんでいた。

 テーブルの上には、俺の分の夕食がラップにかけられて残されたままである。

「ごめん、すっかり寝込んでた」

「いいのよ。今日はずいぶんと働いてくれたみたいだから、疲れたんでしょ」

「ん、そうかも」

「今ご飯温めるから、座ってなさい」

 言われるまま、俺は椅子に腰掛ける。

 ほどなくして、レンジをくぐって暖かさを取り戻した夕食が広げられた。

「いただきます」

 並んだ料理に箸を伸ばしていく。

 ところどころ熱の通ってないものもあったが、空腹の度合いが大きく、そんなものは気にもならない。

 俺は黙々と食事を続ける。

 普段は隣にいる七星がよく喋るのだが、今はいないのでやけに静かで違和感を覚えるくらいだ。

 結果、俺はほぼ無言のままで遅い夕食を食べ終える。

 時折母さんが背中越しに話しかけてきたが、ほとんど相槌を打つ程度の会話でしかなかった。

 まぁ、今の場合は食事に集中していただけなのだけど。

 食器を重ね、流し台に運ぶ。

「あ、食器はそこの置いておいていいわよ」

「いいよ。遅れたし、自分でやる」

 スポンジに洗剤を染み込ませ、泡出ったのを確認して蛇口をひねる。

 手早く食器を洗い、次々に乾燥機に立てかけていく。


「あら?」

 と、リビングにいる母さんがそんな声を上げた。

 洗い物の途中だったが、俺も首から上だけで背中を振り返る。

「これ、押入れにしまっておいたはずなんだけど……」

 母さんが手にしているのは、一枚の薄手の毛布だった。

「ああ、ごめん母さん。それ、俺が使ったんだ」

 答えるだけ答えて、俺は再び洗い物を再開する。

「使ったって、この暑い時期に?」

「いや、そうじゃなくってさ……」

 振り返らず、俺は続ける。

「昼間帰ってきてから、七星がそこで寝ちゃったんだよ。で、風邪引かれるのも困るから、母さんの部屋から借りたんだ」

「ああ、そういうことね」

 納得したのか、母さんはそう答える。

「でも、隼人」

 と、母さんは一度閉じた口をまた開いた。

「ん?」

「どうして風邪を引くだなんて思ったの?」

「どうしてって……そりゃ、冷房入れっぱなしの部屋で寝てたら体が冷えるだろ?」

「それはそうだけど、だったらどうして、直接冷房を切らないのよ?」

「……あ……」

 言われてみればその通りだった。

 何でそんな簡単なことに気がつかなかったんだろう?

 ……ああ、そういえば。

 確かあの時は、その前後に心臓によろしくないトークがあったりしたから、きっとそのせいだ。

 などとは、口が裂けても母さんには言えない。

 言えば最後、悪ノリする母さんはありとあらゆるところまで俺をいじり倒しに来るはずだ。

 そしてそれは恐らく、俺に限らず七星にも狙いをつけるだろう。

 同じ家の中で二倍恥ずかしい目に遭うなんて、まっぴらゴメンだ。

「……ごめん、気付かなかった」

 と、とりあえずそう言ってこの場をごまかしておく。

 さすがに母さんも、そこまでしつこい詮索はしてこないだろう。

 というか、そう願う。

「隼人って、時々妙なところで抜けてるのよね」

 などと言って、母さんはおかしそうに笑っていた。

 まぁ、いじり倒されるに比べれば笑われるくらいは何ともない。

 俺は特に反論もせず、洗い物を終えて蛇口を戻した。


「あれ?」

 そう言えばと、気付いた俺は母さんに聞いた。

「母さん、七星は?」

「今は部屋にいると思うわよ。もしかしたら、もう寝てるかしれないわね」

 確かに、七星もリビングで居眠りしてしまったくらいだ。

 今日一日の疲れがドッと押し寄せて、普段よりも早く寝てしまっても不思議ではない。

 って、今の今まで寝てた俺がそう言うのもどこかおかしい気がするけど。

 テレビのリモコンを操作して、適当にチャンネルを替えていく。

 と、ふいに今日が金曜であることを思い出し、俺は新聞のテレビ欄に目を向けた。

 その後チャンネルを替えるが、どうやら番組がまだ始まっていない様子だ。

 おかしいな。

 ロードショーは九時から放送しているはずだから、このチャンネルで合っているはずなのだが……。

 今の時刻は九時半になったばかりだ。

 CMに重なってでもいない限りは、番組が放送されているはずである。

 俺はもう一度番組欄を見る。

 と、その理由が分かった。

「野球放送の延長で、時間がずれてるのか……」

 これは決して珍しいことではなく、むしろ日常茶飯事と言える。

 まぁ、放送局側としてはプロ野球は高視聴率を確保できるわけだから当然の配慮だろう。

 間もなくして、ロードショーのオープニングが始まった。

 放送時間はちょうど三十分変更されているらしく、毎週のように見ている俺にとっては嬉しい誤算だ。

 食後のコーヒーを飲みながら、俺はしばらく画面へと集中する。




 長いようで短い二時間が過ぎ、ロードショーはエンディングを迎えた。

 今回放送されたのは海外の映画の日本語吹き替え版のもので、確か去年の春頃に日本でも劇場公開されていたものだ。

 いわゆるファンタジーで、様々な画面で最新技術のCGや演出効果が用いられ、見るものを楽しませてくれた。

「ふぁ……」

 スタッフロールを眺めながら、ふいにあくびが出た。

 少し前まで熟睡していたと言うのに、もう眠気が押し寄せてきているようだ。

 本当ならこの後ももう少し見たい深夜番組があるのだが、何よりもまず、体は休息を必要としている。

「明日も出かけるわけだしな……」

 出かけると言うよりは、遊びに行くといったほうが正しい。

 今日一日しっかりと働いて準備したのだから、祭りの当日を楽しまないのは損と言うものだろう。

 まぁ、祭りは夕方からなので時間的にはずいぶんと余裕はあるのだが。

「……寝るか。起きてても眠いだけだし」

 テレビのスイッチを切り、空のカップを流し台に置き、俺はあくびを殺しながら部屋に向かう。

「あら? もう寝るの?」

 と、ちょうど廊下で風呂から上がってきた母さんと出くわした。

「うん。何か今日は疲れた……」

「ま、がんばって働いてくれたしね。みんな感謝してたわよ。若いのに感心だって」

 若いから働かされたんじゃないだろうか、とは思いつつも、俺はあえて突っ込まないでおいた。

「とりあえず寝る。おやすみ」

「はい、おやすみ」

 母さんとの会話を早めに切り上げ、階段を上がる。


 二階の廊下はシンと静まり返り、地肌で触れる床の温度がどこか冷たく感じた。

 明かりの消えた廊下の奥、そこには七星の部屋がある。

 俺と七星の部屋は、ちょうど二階の廊下の端と端に位置して扉同士が向き合う形になっている。

 俺の部屋の扉は何もないが、七星の部屋の扉は小さなネームプレートがぶら下がっている。

 ほとんど飾りのようなものだが、それが七星にとっては自分の居場所を強く示すものだ。

 その扉の向こう側。

 七星は今も、午後のあの時と同じように優しい寝息を立てているのだろうか。

 それとも、眠れずに好きな小説でも読みふけっているのだろうか。

 その部屋から、漏れる光はない。

 ふいに、嫌なイメージが沸く。

 本当は七星は、もうあの部屋にはいないんじゃないだろうかという、根拠も何もない不吉なイメージ。

 バカ、そんなわけないだろう。

 俺は自分の頭に浮かんだ言葉をかき消した。

 一体何を考えているんだ、俺は。

 疲れているんだろう。

 と、気がつけば一夜前と同じ思考。

 朝がやってくれば、きっと全てがただの杞憂だと証明してくれる。

 俺は部屋の扉を押し開けて、明かりもつけずにそのままベッドになだれ込んだ。

 パタンと、扉が閉まる。

 眠れば何もかも、忘れることができる。

 夢にならない限り、現実という悪夢からは開放される。

 目を閉じると、すぐに睡魔はやってきた。

 早く眠ってしまえと、後押しされているようだった。

 たとえそれが今宵の悪夢への入り口だったとしても、今の俺は抗うこともできなかった。

 まぶたが下りる。

 胸の内に、拭いきれない不安を抱えたまま。



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