First Day(1):半自動食器乾燥機
この物語は物語上の舞台の中ではわずか四日間と言う短い期間の中で綴られているものです。
サブタイトルのFirst Dayというのは、物語の中での一日目ということであり、小説そのものとしての一話目という意味です。
それでは相変わらず拙い文章ではありますが、最後までお付き合いいただければ幸いです。
ヒーローに憧れた時期がなかったわけじゃない。
ただ、幼いながらにも心のどこかでは感じ取っていた。
――ヒーローになんて、絶対になれっこない。
少なくとも、あの日までは……。
それは、悪魔だった。
虚ろな視界の先、そこには確かに人ではない悪魔がいた。
振り下ろすその手が、耳障りな音を鳴らす。
「――――ッ!」
悲鳴。
涙に混じる声。
ただ、助けてと。
叶わない救いを求めて、叫んでた。
「起きろ! 隼人!」
そんな怒鳴り声で、俺は夢の世界から現実へと引き戻された。
ぼんやりと目を開く。
霞んだ視界の先に、無機質な部屋の天井が見えた。
その、すぐ横に。
「やっと起きたか。このネボスケめ」
そう言って呆れた顔を見せる、アイツがいた。
俺はゆっくりと布団の中から上半身を起こす。
寝起きでまともに働いてない頭では、思考も十分に機能しない。
ぼやけた目元をこすりながら、小さくあくびをした。
枕元の目覚まし時計の時刻を見る。
午前十時二十二分。
普段なら学校はとっくに始業の時間を迎えているが、夏休みである今はその心配はしなくていい。
……そうだ、今は夏休みじゃないか。
なのになんで俺は、こんな風に叩き起こされなくちゃいけないんだ。
休みの日に昼過ぎまで寝ていることくらい、別に珍しいことでもないだろうに。
「…………」
引き続き、俺はぼんやりとしたままソイツを……同居人である安曇七星を見上げた。
「朝ごはん、とっくに用意できてるんだから。さっさと起きてさっさと食べる。ほれほれ」
七星はしきりに俺を布団の中から追い出そうとする。
安眠を妨害された俺から言わせれば、それはいい迷惑だ。
俺の中では食欲よりも睡眠欲のほうが重要性が高い。
しかも夏休みとはいえ、こんな平日の真昼間から叩き起こされる覚えは何一つない。
したがって、俺は七星の言葉に従う必要はない。
「……寝る」
「……は?」
ボスン、と。
再び俺は体を横倒しにして、夢の世界へと旅立った。
自分の体温が残る布団の中が心地よいと思えるのは、いつになっても不思議な感覚だった。
つまりあれだろう。
水泳の授業の後に服を着替えるとやけに暖かさを感じて、すぐに眠気が押し寄せてくるあの現象と似たようなものだ。
まぁ、建前はこの際どうでもいい。
ようするに、俺はまだ寝足りないという、ただそれだけのことなのだ。
「こら、待て! 人がせっかく朝食の用意をしてやったって言うのに、何よその態度は!」
あー、ウルセェ。
耳元で何か正体不明の生物が雄叫びを上げているみたいだけど、そんなのは俺には関係ない。
大体、お前だって人が朝食作っても文句ばっか言うくせに。
やれ玉子焼きが甘すぎるだの、飯が柔らかすぎるだの、ドレッシングが違うだの。
自分のことを棚にあげて偉そうに説教するようなやつに、自由まで横取りされてたまるものか。
七星の戯言など意にも介さず、俺はまどろみの中に吸い込まれるように落ちていく。
その、刹那。
「…………んでしょ……」
何か、こう。
決してこの世のものではないような、そんな囁き声を。
「……つってんでしょ……」
聞いたような。
……聞かなければよかったような。
「起きろっつってんでしょーがぁ!」
「あ……?」
うっすらと開いた視界の先。
いつの間にか引き抜かれた枕が、天高く振りかざされ、一瞬の後に俺の顔面へと直撃した。
鼻の頭と眉間と額、総じて言うなら顔面が全体的にヒリヒリと痛い。
本日未明、材質が綿百パーセントの枕という隕石が俺の顔面に直撃した。
落下地点の周囲に対する被害状況の報告は今のところない。
当たり前だ。
俺の顔面で防いだのだから。
そんな慌しい起こされ方を経て、俺は今こうして大して減ってもない胃袋の中に黙々と冷めた朝食を詰め込んでいる。
白米に味噌汁、野菜サラダに焼き鮭。
典型的な日本食であり、見た目も味も正直言って文句はない。
まぁ、冷めてしまってはいるけれど。
「……ごちそうさん」
こう言わないとやたらと七星はうるさいので、俺は仕方なく呟く。
「ほい、お粗末さま。食器は自分で洗ってね」
ぐ、このヤロウ……。
相変わらず妙なところでしっかりしてやがる。
しかし、文句を言ったところで仕方ない。
実際、起きてきたのはこうして俺が一番遅かったわけだし、後片付けくらいはいつもやっていることだから苦にもならない。
蛇口をひねり、洗剤をしみこませたスポンジで手早く食器を洗っていく。
「あれ? そういえば母さんは?」
洗い物をしながら、俺はリビングでテレビを見ている七星に声をかけた。
「明美さんなら、九時過ぎくらいに出かけたよ。町会の集まりとか言ってたけど」
「ふーん……」
洗った食器を乾燥機の中に並べていく。
時代は便利になったもので、今では食器の洗いや乾燥までもがボタン一つで全自動である。
その割りに俺が食器を手洗いしているのは、単に食器洗いの機械が最近調子が悪いからだ。
うちの……来栖家の中でもっとも科学技術が結集しているのは、恐らくこのキッチンだろう。
全自動食器洗い機はもちろんのこと、ガスコンロやグリルにも近代科学の結晶体が目を光らせている。
その理由としては、来栖家は母親だけの片親生活ということが一番の理由になるだろう。
母親の明美は当然仕事をしているが、それを家事と両立させるのは決して楽なことではない。
なので、少しでも負担を減らすためにと、いつの間にかキッチンが目を見張る速度でハイテク化していったのだ。
もっとも、そんなことなどしなくても俺や七星だってある程度の家事全般をこなすことはできる。
だけど母親の明美としては、せめて食卓くらいは任せてほしいとのこと。
それでも今日みたいに用事ができてしまった場合などは、事前に俺か七星のどちらかが食事の用意をするという取り決めになっている。
今にして思えば、その取り決めのせいで俺はこうして無理矢理に叩き起こされてしまったのかもしれない。
かといって今日の当番が俺だとしても、結局は叩き起こされた挙句に飯の支度をさせられていたわけなので、どう転んでも俺に不利だ。
とりあえずの遅い朝食を終えて、俺は一度二階の自室へと戻った。
おかげさまと言うかなんと言うか、食事を終えた頃には眠気もすっかりなくなってしまっていた。
家の中とはいえ、いつまでも寝巻き代わりのジャージ姿でいるのも変なので、まずは普段着に着替えることにした。
着替えるとはいっても、薄手のシャツにジーパンを穿いてしまえばそれだけで着替えは終わってしまう。
しかも着替えたまではいいが、もうすぐお昼を迎えるこの時間。
ぶっちゃけた話、これといってすることはない。
かといって、私服に着替えてまで布団の上で寝転がるのもいささかどうかと思う。
と、思い出したように今更に締め切ったままだった部屋のカーテンを開け放つ。
窓越しに暑い日差しが差し込んできたが、今日はいつもと比べれば幾分かは涼しいようだ。
風も出ているし、散歩がてらに外をブラブラするのも悪くないかもしれない。
ズボンのポケットに、財布と携帯をねじ込む。
特に目的地とするような場所はないが、足が向いたらその方向へ行けばいいだろう。
部屋を出て、階段を下りる。
リビングに入ると、七星はまだテレビに見入っている様子だった。
テレビの中では、なにやら故郷特集のような番組が進行していた。
それを食い入るように見ているのか、それとも全く目には入らず、ただボーッともの思いにでもふけっているのか。
どちらにしても、七星はどこかぼんやりとしていた。
寝不足かとも思ったが、そうだとしたら先ほどの叩き起こされ方はあまりにも八つ当たり的ではないだろうか。
触らぬ神に祟りなしとは言うが、触らなくてもこの神は怒り出すからタチが悪い。
やれやれと、色んなものが混じった溜め息を一つ吐いて、俺は口を開く。
「七星」
「……ん……ああ、何?」
心ここにあらず、とはこのことだろうか。
七星と一緒に暮らすようになってからずいぶんと時間が流れたけど、時々こうしてぼんやりとしている姿を見ることがあった。
まるで空を流れる雲のようにふわふわと落ち着かないというか、ひどく不安定な印象を受ける。
心当たりはあった。
だけどそれは、できるならもう掘り返してはいけない過去の出来事だ。
誰にだって一つくらいあるだろう、そういうものが。
誰にだってあるさ。
そう、俺にだって……。
「隼人? どうかしたの?」
「……え? ああ、いや。なんでもない」
「……変なの」
そう言うと、七星は少しだけおかしそうに笑った。
全く、勝手なヤツだ。
自分が同じような顔をしていたことなんて、これっぽっちも気付いていないんだろう。
だけどまぁ、それでいいさ。
沈んだコイツの顔なんて、それこそ見たくない。
「俺、ちょっと街まで出かけるけど、お前はどうする?」
「……どうするって?」
……鈍いヤツだ。
いや、俺もそういう意味合いで声をかけたわけではないけどさ……。
ハァ、と。
もう一度溜め息をついて、俺は続けた。
「――暇なら付き合えよ。たまには散歩ってのも悪くないだろ」
その言葉に。
「…………」
七星はどうしてか、呆気に取られたような、そんな顔をしていた。
しかしそれも、束の間のことで。
「……しょうがないな。一人が寂しい隼人のために、私が特別に付き合ってあげるよ」
「バ……別に頼んだわけじゃ……」
「はいはい、そういうことにしておきましょう」
七星は楽しそうに笑うと、準備をしてくると言って部屋へと戻っていった。
全く、わけが分からない。
でもまぁ……。
こういうのも、悪くはないだろう。