聞こえているなら、返事をして
「夏のホラー2026」参加作品です。
今回のテーマは「音」。
スマートフォンの通知音、録音された声、扉を叩く音、そして、聞こえていたのに誰も返事をしなかった沈黙を題材にした現代ホラーです。
何気なく耳にしている音が、少しずつ日常を侵食していく恐怖を感じていただければ幸いです。
※本作には、いじめ、自死を想起させる内容、精神的な追い詰め、不可解な死に関する描写が含まれます。
聞こえていたのに
――死んだ同級生の声を生成するAIアプリ
【序章 明日は、もっと近くで】
午前二時十四分。
枕元で、短く乾いた電子音が鳴った。
ピッ!と……。
それは一度きりだった。
けれど、眠りの底にいた樫村拓海の意識を、針のように正確に刺した。
拓海は目を開けた。
天井は暗く、エアコンの青い運転ランプだけがぼんやりと光っている。カーテンの隙間から差し込む向かいのマンションの非常灯が、寝室の床を細く切っていた。
耳を澄ます。
エアコンの風。
冷蔵庫の低い唸り。
遠くを走る車の音。
ほかには何も聞こえない。
「……通知かよ」
拓海は舌打ちし、顔の横に置いていたスマートフォンを手に取った。
画面には、ごく普通のアプリが開いていた。
白を基調にした画面。上部には淡い青の帯があり、中央には丸みのあるロゴ。音声アシスタントや睡眠管理アプリにありそうな、角の取れた親しみやすいデザインだった。
アプリ名はECHO。
その下には、今日の日付と気温、現在地の天気まで表示されている。
『こんばんは、拓海さん』
『今日の記録を確認しますか?』
大きなボタンが二つ。
『今日の音を聞く』
『あとで確認する』
「入れた覚えねえぞ」
広告アプリか、何かの自動インストールだろうと思った。会社支給ではなく私物のスマートフォンだ。父親の会社を継ぐ身として、取引先との連絡も銀行とのやり取りも一台に集約している。
勝手に入ったアプリなど、気味が悪い。
拓海はホーム画面へ戻り、ECHOのアイコンを長押しした。
白地に淡い青の円。その中心に、小さな波紋のような線が三本。
削除を選ぶ。
何も起こらない。
「は?」
もう一度長押しする。
削除。
反応なし。
端末を再起動しようと電源ボタンを押した瞬間、再び音が鳴った。
ピッ!と……。
今度は少しだけ長かった。
短い電子音の後ろに、何かが擦れるような余韻があった。
ザ……。
まるで、古い録音テープが回り始める直前の音。
ECHOが自動で開く。
『一日目の記録を作成しました』
『再生時間 00:14』
再生ボタンは、ありふれた三角形だった。
拓海は眉を寄せた。
普段なら、こんなものは無視してスマートフォンを伏せただろう。
だが、画面下部に表示されたファイル名が、彼の指を止めた。
『旧校舎 放送室前』
喉の奥が乾いた。
「……誰の悪戯だ」
拓海は再生ボタンに触れた。
最初に聞こえたのは蝉の声だった。
ザーッ、ザーッ、と……。
八月の熱気そのものを、スピーカーの奥へ閉じ込めたような音。録音が古いのか、ところどころが割れている。
次に、遠くから学校のチャイムが鳴った。
キーン、コーン……。
カーン、コーン……。
その音に重なって、若い男女の笑い声が聞こえる。
拓海は息を止めた。
自分の声が入っていた。
『おい、もう一回言わせろよ』
十七歳の自分。
軽く、太く、相手を人間ではなく玩具のように扱っていた声。
『拓海、やりすぎじゃない?』
女の声。
誰だったか考えるより先に、扉を叩く音がした。
コン。
少し間を置いて、もう一度。
コン……。
三回目は強かった。
ドン!と……。
拓海の手のひらに汗がにじんだ。
録音の中で、少女が泣いている。
『お願い。開けて』
拓海はスマートフォンを耳から離した。
再生バーは十一秒。
十二秒。
十三秒。
最後の一秒で、少女の声が急に近づいた。
『聞こえてるんでしょう?』
耳元で囁かれたようだった。
拓海はスマートフォンをベッドへ投げ出した。
画面の中では、淡い青色の波形がまだ揺れている。
やがて普通のアプリらしい柔らかな文字で、メッセージが表示された。
『再生が完了しました』
『明日は、さらに鮮明な記録をお届けします』
その下に、小さな星印が並んでいた。
『今回の音声はいかがでしたか?』
「ふざけやがって……」
拓海はベッドから降りた。
高校時代の誰かが、今になって動画を掘り返した。そうに違いない。凪が死んでから八年も経っている。警察も学校も、もう何も言ってこない。
あの件は終わった。
終わったはずだ。
寝室の奥から、音がした。
コン。
拓海の肩が跳ねた。
クローゼット。
扉は閉まっている。
その内側から、ゆっくりともう一度。
コン……。
「誰だ」
返事はない。
「親父か? 勝手に入ったんなら、冗談じゃ済まさねえぞ」
父親が夜中に息子のマンションへ入り込む理由などない。自分でもわかっている。それでも、人間の仕業にしておきたかった。
床を引っかく音がした。
カリ……。
カリ、カリ……。
細い爪で、内側から扉を探っている。
拓海はゴルフバッグからアイアンを引き抜いた。
「出てこいよ!」
怒鳴った声が裏返った。
クローゼットの扉が、内側からわずかに押された。
蝶番が、ギ……と鳴る。
拓海は一歩ずつ近づいた。
スマートフォンがまた鳴った。
ピッ!と……。
背後からだった。
振り返る。
ECHOの画面に、新しい通知。
『扉の前に到着しました』
拓海の呼吸が止まった。
クローゼットの扉が開く。
中にはスーツとシャツが並んでいるだけだった。
誰もいない。
ただし、一番奥の壁に古いスマートフォンが張りついていた。
八年前、拓海が使っていた機種だった。
ひび割れた画面に動画が映っている。
制服姿の自分が、放送室の扉を蹴っていた。
『聞こえへんなあ。もっと大きい声で言えや』
画面の中の拓海が笑う。
扉の向こうで、白井凪が泣いていた。
『沙耶ちゃん。そこにいるんでしょう?』
録画していた誰かの呼吸が入る。
そして、現在の拓海の背後で、同じ声がした。
「開けて」
拓海は振り返った。
誰もいない。
寝室の扉が閉まっていた。
さっきまで開いていたはずなのに。
拓海は駆け寄り、ドアノブを回した。
動かない。
「おい!」
肩をぶつける。
扉の向こうに、マンションの廊下があるだけだ。鍵をかける構造でもない。
それでも開かなかった。
背後で、クローゼットの扉が閉まる。
バタン!と……。
部屋の照明が消えた。
真っ暗闇の中、スマートフォンだけが光っている。
ECHOの画面には、地図が表示されていた。
現在地を示す青い点。
その周囲を、白い円が狭めてくる。
『音源との距離 3m』
ピッ!と……。
『音源との距離 2m』
ピッ!と……。
『音源との距離 1m』
拓海はゴルフクラブを振り回した。
「来るな!」
何もない空間を金属が切る。
耳のすぐ後ろで、湿った呼吸がした。
すう……。
はあ……。
拓海の首筋に、冷たい息が触れる。
画面が切り替わった。
『記録を開始します』
赤い丸が点滅する。
拓海は扉を叩いた。
「開けろ! 誰か、開けろ!」
拳の皮が裂ける。
何度も何度も叩いた。
ドン!
ドン!
ドン!と……。
やがて、自分が八年前に聞いた音と同じだと気づいた。
内側から助けを求めて、扉を叩く音。
スマートフォンから、十七歳の自分の笑い声が流れる。
『聞こえへんなあ』
拓海は叫んだ。
「聞こえてるだろ! ここにいる! 開けろ!」
笑い声が大きくなる。
部屋の空気が薄くなった。
息を吸っても、肺に何も入ってこない。
拓海は喉を押さえた。
口を開く。
空気がない。
誰かに首を絞められているわけではない。
口を塞がれているわけでもない。
ただ、呼吸という仕組みだけが部屋から消えていた。
拓海は床へ倒れ、爪を立てて這った。
扉まであと少し。
ピッ!と……。
耳元でECHOが鳴る。
『録音時間 00:14』
『保存しました』
翌日の夜。
樫村拓海は駅前のカラオケ店で発見された。
個室は内側から施錠され、防犯カメラには彼以外の人間は映っていなかった。
遺体は扉の前に倒れ、両手の爪が剥がれかけていた。壁と扉には、内側から必死に引っかいた跡が残っている。
死因は窒息。
だが、気道を塞いだ物も、首を絞めた痕もなかった。
店員が警察へ説明している間も、無人になった個室から電子音が聞こえたという。
ピッ!と……。
少し間を置いて、扉を叩く音。
コン。
コン……。
そして最後に、太い男の声がした。
『開けろ』
その声は、死んだ樫村拓海のものだった。
【第一章 招待された五人】
樫村拓海の死を知ったのは、月曜日の朝だった。
真壁沙耶は、満員電車の中でスマートフォンに表示された記事を何度も読み返した。
『二十六歳男性、カラオケ店で変死』
記事には名前が出ていなかった。
だが、同級生から届いたメッセージには、はっきり書かれていた。
『樫村くんらしいよ。高校のとき同じクラスだったよね?』
沙耶は返信できなかった。
窓に映る自分の顔が青ざめている。
八年間、樫村とはほとんど連絡を取っていない。
高校卒業後、樫村は父親が経営する建設会社へ入り、沙耶は地元を離れて機械部品メーカーの営業事務になった。
顔を合わせる理由などなかった。
それでも、樫村拓海という名前を見た瞬間、耳の奥で扉を叩く音が蘇った。
コン。
コン……。
八年前の夏。
旧校舎の放送室。
扉の向こうから聞こえた、白井凪の声。
『沙耶ちゃん』
沙耶はスマートフォンの画面を伏せた。
電車の走行音が大きくなる。
ガタン、ゴトン……。
ガタン、ゴトン……。
車輪の規則的な音が、途中から言葉に聞こえ始める。
き・こ・え・て・る。
き・こ・え・て・る。
沙耶は目を閉じた。
「大丈夫ですか」
隣に立っていた女性が声をかけてきた。
「すみません。大丈夫です」
反射的に微笑む。
昔からそうだった。
怖くても、困っていても、大丈夫だと言う。
会社へ着いても、数字が頭に入らなかった。
納期一覧を更新し、顧客からのメールを担当者へ振り分ける。いつもなら身体が手順を覚えている仕事なのに、今日は何度も入力を間違えた。
「真壁さん、体調悪い?」
向かいの席の後輩が尋ねた。
「少し寝不足なだけ。ごめんね」
「無理しないでくださいね」
「ありがとう」
沙耶はまた笑った。
昼休み、誰もいない給湯室でコーヒーを入れていると、電子音が鳴った。
ピッ!と……。
沙耶の手が止まる。
聞き慣れたメールの着信音ではなかった。
もっと短く、冷たい。
余韻の奥に、針でガラスを引っかくような音が混ざっている。
スマートフォンを見る。
見覚えのない通知が表示されていた。
『ECHOから新しいお知らせがあります』
アイコンは、白地に淡い青の波紋。
健康管理アプリか音声メモのような、ありふれた見た目だった。
「こんなの、入れたっけ……」
通知を開く。
白い画面。
上部には今日の日付、気温、歩数。
中央には『こんにちは、沙耶さん』と表示されている。
『あなたの一日を、音で振り返りましょう』
下には、録音開始、履歴、設定という三つのタブが並んでいた。
どこにでもある生活記録アプリにしか見えない。
しかし、履歴にはすでに一件のファイルが保存されていた。
『招待メンバー』
沙耶が開くと、六人の名前が表示された。
樫村拓海。
宮下玲奈。
稲葉昴。
小松美咲。
佐久間遼。
真壁沙耶。
樫村の名前だけが灰色になり、その横に小さく『記録完了』と書かれている。
沙耶の指先が震えた。
六人は、高校二年生のときの同級生だった。
白井凪が死んだ日、旧校舎にいた六人。
「真壁さん?」
給湯室へ同僚が入ってきた。
「どうしたの。すごい顔してるよ」
「ごめんなさい。これ、見てもらってもいいですか」
沙耶はスマートフォンを差し出した。
「このアプリ、私が入れたように見えます?」
「どれ?」
「ECHOっていう、青いアイコンの」
同僚は画面を覗き込み、首を傾げた。
「そんなのないけど」
「今、開いてるでしょう?」
「開いてる? 普通のホーム画面だよ」
沙耶が見ると、そこには確かにECHOの画面がある。
白い背景。
青い帯。
六人の名前。
「ここに、名前が並んでて」
「真壁さん、本当に大丈夫?」
同僚の声に警戒が混じった。
沙耶はスマートフォンを引っ込めた。
「ごめんなさい。勘違いみたい」
その瞬間、端末が鳴った。
ピッ!と……。
同僚は反応しない。
「今の音、聞こえた?」
「音?」
「通知音」
「何も鳴ってないよ」
画面にメッセージが表示された。
『他の方へ画面を共有することはできません』
『あなた専用の記録です』
柔らかな青い文字。
下部では、かわいらしい丸いキャラクターが笑っている。
その普通さが、かえって不気味だった。
幽霊らしい黒い画面でも、血のような赤い文字でもない。
利用者を安心させるために計算された、明るく清潔なデザイン。
それなのに、自分以外には見えない。
沙耶はアプリを削除しようとした。
設定画面も普通だった。
通知。
プライバシー。
音量。
アカウント。
最下部に『退会する』という項目がある。
押す。
『これまでの大切な記録が失われます。本当に退会しますか?』
『退会する』を選ぶ。
『処理中です』
淡い青の円が回る。
数秒後。
『退会できませんでした』
『すべての記録が完了するまで、サービスをご利用ください』
沙耶はスマートフォンを伏せた。
午後六時を過ぎた頃、佐久間遼から電話が来た。
「沙耶。今、話せるか」
低く、飾りのない声。
懐かしさより先に、背筋が緊張した。
遼は昔から、必要なことだけを短く言う。
自動車修理工場を営む父親と二人で育ち、幼い頃から大人の機嫌を読むより、壊れた物の原因を探すことに慣れていた。
「大丈夫。会社を出たところ」
「ECHOってアプリが入ったか」
沙耶は立ち止まった。
「遼にも?」
「ああ。拓海が死んだ翌朝からある」
「ほかの人には見えないの」
「俺も試した。親父には見えなかった。スクリーンショットを送っても、ただのホーム画面になる」
「拓海くんの死と関係があると思う?」
「ある」
遼は即答した。
「死ぬ前の晩、拓海から電話があった。放送室の音がすると言ってた」
沙耶は歩道の端で足を止めた。
「何て答えたの?」
「酔ってると思って切った」
遼の声が少しだけ沈んだ。
「その二時間後に、拓海から十四秒の音声が送られてきた。朝には消えてた」
「何が入ってた?」
「拓海が扉を叩いてた」
車道をトラックが通過した。
大きなエンジン音が、言葉の間を埋める。
「今夜、玲奈の部屋に集まる。美咲と昴も来る」
「玲奈が?」
「あいつのアプリだけ、次の記録を作成中になってる」
沙耶はECHOを開いた。
宮下玲奈の名前の横に、小さな円が回っている。
『音声を準備しています 72%』
アプリとしては自然な表示だった。
動画のダウンロードやクラウドへの保存を待つ画面と変わらない。
だからこそ、その下に書かれた一文が異様だった。
『残り時間 今夜まで』
「沙耶」
遼に呼ばれ、我に返る。
「来られるか」
「うん」
「来い。今回は、聞こえなかったことにするな」
電話が切れた。
沙耶はしばらく動けなかった。
遼の言葉は責める調子ではなかった。
それでも、八年前の自分を正確に刺していた。
宮下玲奈は、駅前の高層マンションに住んでいた。
父親は大手法律事務所の代表。母親は市議会議員。祖父の代から地元の名士として知られる家だった。
高校時代の玲奈は、誰に対しても丁寧に話した。
ただし、その丁寧さは相手を尊重するためのものではない。
自分が上にいることを崩さず、相手を遠ざけるための薄い壁だった。
「お久しぶりね、沙耶さん」
玄関へ現れた玲奈は、淡い灰色のワンピースを着ていた。
肩までの髪は丁寧に巻かれている。樫村が死んだ直後とは思えないほど、化粧も服装も整っていた。
「突然お呼び立てして、ごめんなさい。どうぞ、お上がりになって」
「お邪魔します」
「そんなに固くならなくて結構よ。同級生ではありませんか」
玲奈は微笑んだ。
その目は笑っていない。
広いリビングには、稲葉昴と小松美咲がいた。
昴は音楽制作会社で働いている。
父親はジャズピアニスト、母親は声楽家。幼い頃から音楽家に囲まれ、言葉を音色のように選ぶ男だった。
「久しぶり、沙耶」
長い指を軽く上げる。
「こういう再会は、響きがよくないね。音のない葬式みたいだ」
「縁起でもないこと言わないで」
「ごめん。緊張すると、余計な比喩が出る」
昴は薄く笑った。
美咲はソファの端に腰掛けていた。
実家は古い寺で、父親が住職をしている。幼い頃から、言葉は口に出した瞬間に戻せないと教えられて育った。
「沙耶さん。お久しぶりです」
「うん。美咲も元気だった?」
「はい。おかげさまで」
美咲は深く頭を下げた。
その礼儀正しさの奥で、視線だけが落ち着かなく動いている。
遼は窓際に立ち、全員のスマートフォンをテーブルへ並べた。
五台すべてにECHOが表示されている。
画面構成は同じだった。
白い背景。
淡い青のメニュー。
上部には利用者の名前と、今日の天気。
一見すれば、同じ会社が提供している普通の生活記録アプリだ。
だが、中央に表示されている内容は端末ごとに異なっていた。
昴、美咲、遼、沙耶。
『現在、新しい記録はありません』
玲奈だけ。
『二日目の音声を作成しています 93%』
「お茶が冷めてしまいますわ」
玲奈はティーカップを持ち上げた。
「こんなものを睨んでいても、答えは出ないでしょう?」
「怖くないの?」
沙耶が尋ねる。
「もちろん、不快ではあります」
「不快って……拓海くんが死んだんだよ」
「存じています」
玲奈はカップを受け皿へ戻した。
「ですが、取り乱したところで拓海さんが生き返るわけではありませんもの」
「そういう言い方、相変わらずだな」
遼が言った。
玲奈は眉をわずかに上げる。
「どういう意味かしら」
「自分だけは上品な場所に立って、他人の汚れを眺めてる言い方だ」
「佐久間さんは、相変わらず言葉を工具のように扱うのね。叩けば何でも直るとお考え?」
「回りくどく刺すよりましだ」
「お二人とも」
美咲が静かに口を挟んだ。
「今は争っている場合ではありません」
玲奈は美咲を見た。
「あなたが仲裁なさるの?」
美咲の顔が強張る。
「何か、おかしいでしょうか」
「いいえ。八年前にも、その勇気を見せてくださればよかったのにと思っただけよ」
「玲奈」
沙耶が止める。
「美咲だけじゃない。私たち全員でしょう」
「そうですわね」
玲奈は微笑んだ。
「沙耶さんは、いつも公平でお優しい。誰も責めない代わりに、誰も助けない」
言葉が胸に刺さった。
昴が長く息を吐く。
「玲奈。昨日、何を聞いたの」
「通知音よ」
玲奈の表情から、わずかに余裕が消えた。
「最初は普通の電子音でした。ピッ!と……短く鳴って、それだけ。ですが、回数が増えるたびに、後ろへ人の声が重なるの」
「何て言ってる」
遼が尋ねる。
「まだ、はっきりとは」
玲奈は視線を逸らした。
「嘘だな」
「断定なさらないで」
「顔に出てる」
「あなたにわたくしの何がわかるの」
「怖がってる」
玲奈の指がティーカップの取っ手を強くつかんだ。
その瞬間、五台のスマートフォンが同時に鳴った。
ピッ!と……。
電子音が重なり、部屋の空気を細く切った。
全員が画面を見る。
『音声の準備が完了しました』
玲奈の端末にだけ再生ボタンが現れる。
ファイル名。
『送信済み 32件』
玲奈は動かなかった。
「再生しろ」
遼が言う。
「命令しないでくださる?」
「拓海は再生した後に死んだ。中身を知らないと対策できない」
「再生したから死んだ可能性もあるでしょう」
昴が画面を覗き込む。
「でも、再生しなくても通知音は鳴ってる。アプリ側が、聞かせる相手を選んでいるように見えるね」
玲奈は唇を引き結んだ。
そして再生ボタンへ触れた。
ピッ!と……。
最初に鳴ったのは、古いスマートフォンの通知音だった。
ピッ!と……。
少し間を置いて、もう一度。
ピッ!と……。
そのたびに、誰かが小さく息を呑む音が重なる。
四回目。
高校生の玲奈の声がした。
『皆さま、面白いものをお送りしますわ』
五回目。
少女の泣き声。
六回目。
『消して』
七回目。
『お願いだから、送らないで』
八回目。
玲奈の笑い声。
九回目から十三回目まで、通知音だけが続いた。
ピッ!と……。
ピッ!と……。
ピッ!と……。
最後の十四回目。
耳元で、白井凪の声がした。
『次は、あなたが送られる番』
音声が終わった。
玲奈のスマートフォンに評価画面が表示された。
『今回の記録はいかがでしたか?』
『役に立った』
『役に立たなかった』
その下で、丸いキャラクターが笑っていた。
玲奈はカップを持ち上げようとした。
指が震え、陶器が受け皿に当たる。
カチ、カチ……。
「昔のデータを、どなたかが悪用しているだけです」
声は平静を装っていた。
「玲奈さん」
美咲が恐る恐る言う。
「送信済み三十二件とは、あのときの……」
「昔の悪戯よ」
「悪戯じゃない」
遼が低く言った。
「凪は死んだ」
「わかっております!」
玲奈の声が初めて大きくなった。
全員が黙る。
玲奈はすぐに姿勢を正し、髪を耳へかけた。
「……失礼しました」
丁寧な口調へ戻す。
「ですが、わたくし一人がしたことではないでしょう。編集したのは昴さん。見張っていたのは遼さん。閉じ込めたのは拓海さん。美咲さんは教師に嘘をつき、沙耶さんは凪さんの訴えを聞いても黙っていた」
「玲奈、おまえは送った」
遼が言う。
「ええ、送りましたとも」
玲奈は遼を睨んだ。
「ですが、皆さん笑ったでしょう?」
部屋のどこかで電子音が鳴った。
ピッ!と……。
五人はスマートフォンを見る。
どの端末にも通知はない。
もう一度。
ピッ!と……。
今度は玄関の方からだった。
玲奈がゆっくり顔を向ける。
白い玄関扉の前に、一台の古いスマートフォンが落ちていた。
八年前、玲奈が使っていた機種。
画面には、メッセージ送信画面が表示されている。
『しらいなぎ告白音声・完全版』
送信先、二年三組グループ。
送信ボタンが点滅していた。
ピッ!と……。
誰も触れていないのに、送信された。
既読が一つずつ増える。
一。
二。
三。
三十二。
そして三十三人目の名前が表示された。
宮下玲奈。
玲奈の顔から血の気が引いた。
『あなたへ送信しました』
その直後、部屋中のスマートスピーカー、テレビ、タブレット、パソコンから同時に通知音が鳴った。
ピッ!と……。
ピッ!と……。
ピッ!と……。
音はしだいに間隔を縮める。
ピッ!ピッ!ピッ!と……。
玲奈は両耳を塞いだ。
「止めて」
丁寧さのない、幼い声だった。
音は止まらない。
やがて通知音の一つ一つに、泣き声が重なり始めた。
『消して』
ピッ!と……。
『送らないで』
ピッ!と……。
『みんなが聞く』
ピッ!と……。
『恥ずかしい』
玲奈は膝から崩れた。
遼が電源盤を落とす。
部屋の照明も家電もすべて消えた。
暗闇。
それでも音は続いた。
ピッ!と……。
玲奈の胸元で、ECHOの画面だけが明るく光っている。
『明日の配信を楽しみにしています』
その文字の下に、予約時間が表示された。
『21:00 ライブ配信』
玲奈は画面を見つめたまま、かすれた声で言った。
「わたくし、明日も予定どおり配信いたします」
「何言ってるの」
沙耶がしゃがみ込む。
「中止しよう。ここを離れて、警察へ行こう」
「中止すれば、怖がっていると思われます」
「実際、怖いでしょう」
玲奈は沙耶を見た。
目の端に涙がにじんでいる。
「宮下の人間は、公の場で取り乱してはいけないの」
まるで母親から教えられた言葉を繰り返す子どものようだった。
「弱っているところを見せれば、そこへ指を入れられる。家の名を背負う者は、痛くても笑っていなければならないのよ」
沙耶は返す言葉を失った。
玲奈は立ち上がり、乱れた髪を整えた。
「わたくしは、普段どおりに過ごします」
暗闇の中で、また通知音がした。
ピッ!と……。
今度は玲奈の口の中から聞こえた。
【第二章 送られる人】
翌日の午後九時。
玲奈は予定どおりライブ配信を始めた。
白い壁。柔らかな照明。花を一輪だけ飾ったガラスの花瓶。画面の中は、玲奈が何年もかけて作り上げた清潔で穏やかな世界だった。
「皆さま、こんばんは。本日は秋に向けたスキンケアについてお話しいたします」
声に震えはない。
沙耶と遼はカメラの外にいた。
玲奈は一人で行うと言い張ったが、沙耶が帰らなかった。遼は配信機材とスマートフォンを別の端末へ接続し、異常な通信がないかを調べている。
「外部との接続はない」
遼が小声で言った。
「ECHOだけ、端末の中に存在してないみたいに見える」
「見えているのに?」
「保存場所がない。容量も使ってない。アプリの形をしてるだけだ」
配信開始から九分。
玲奈は笑顔で化粧水を紹介していた。
十分快。
電子音が鳴った。
ピッ!と……。
玲奈の眉が、ほんの少し動く。
「乾燥が気になり始める前に、日々の保湿を見直しておくことが大切です」
ピッ!と……。
コメント欄が流れる。
『通知鳴ってる?』
『音切った方がいいかも』
玲奈は微笑みを崩さない。
「申し訳ありません。少々通知が多いようですわね」
遼は首を横に振った。
通知はすべて切ってある。
ピッ!と……。
今度は玲奈の背後から鳴った。
棚の上に、古いスマートフォンが置かれている。
昨日、玄関で見つけた端末は遼が工具箱へ入れて持ち帰ったはずだった。
その画面に、動画が映っている。
白井凪が教室の隅で泣いていた。
高校生の玲奈が、画面の外から声をかける。
『せっかく皆さんが聞いてくださるのよ。もう少し嬉しそうになさったら?』
配信のコメントが変わった。
『後ろの女の子、誰?』
『白い制服みたいなの見える』
『玲奈ちゃんの肩に手置いてる』
沙耶には何も見えない。
玲奈の右肩だけが、重い物を載せられたようにゆっくり沈んだ。
「悪質な書き込みは、お控えくださいませ」
声の末尾が震えた。
ピッ!と……。
玲奈の耳元で鳴る。
続いて、凪の囁き。
『みんなに送ったのは、あなたでしょう?』
「違うわ」
玲奈が反射的に答えた。
コメント欄が止まる。
視聴者には凪の声も聞こえていた。
『今、誰と話した?』
『女の声した』
『イヤホンだとすごく近い』
「わたくしが作ったのではありません」
玲奈はカメラへ向かって言った。
「送っただけです。編集したのは昴さん。閉じ込めたのは拓海さん。遼さんも、美咲さんも、沙耶さんも、全員――」
言葉が止まった。
画面の外、玄関から女性の声がした。
『玲奈。いらっしゃい』
玲奈の母親の声だった。
「お母様?」
玲奈は椅子から立ち上がった。
「玲奈、待て」
遼が腕をつかむ。
「離してくださる?」
「母親は今、議会の会合だ。ここにはいない」
「お母様が帰っていらしたの」
「違う」
『玲奈』
今度は廊下から。
ピッ!と……。
『よくできましたね』
玲奈の顔に、幼い喜びが浮かんだ。
「褒めてくださった」
玄関を開ける。
廊下には誰もいない。
エレベーターではなく、非常階段の扉が開いていた。
冷たい風が吹き込む。
玲奈はそちらへ歩いていく。
「玲奈さん!」
沙耶が追う。
非常階段の踊り場。
はるか下から通知音が聞こえた。
ピッ!と……。
また少し下から。
ピッ!と……。
音が玲奈を誘導する。
「ほら。届いているわ」
玲奈は手すりから身を乗り出した。
「何もない。戻って」
沙耶が手を伸ばす。
「未読が一件あるの」
「そんなもの、読まなくていい」
玲奈は微笑んだ。
「届いたものに目を通さないのは、失礼でしょう?」
階段の下から、母親の声がした。
『玲奈。家の名を汚すつもりですか』
玲奈の顔が凍りつく。
「違います、お母様」
『ならば、こちらへいらっしゃい』
玲奈は一歩、前へ出た。
そこに床はなかった。
沙耶の指が袖をつかむ。
布が伸びる。
玲奈は宙に傾いた。
「助けて」
初めて、飾りのない声だった。
沙耶は両手で玲奈の腕をつかんだ。
だが、下から何十本もの白い手が伸び、玲奈の足首をつかんでいるように見えた。
玲奈の身体が強く引かれる。
袖が裂けた。
落下する直前、玲奈のスマートフォンが鳴った。
ピッ!と……。
『送信しました』
玲奈の身体は、十五階分の階段の中央を落ちた。
途中で何度も手すりへぶつかる。
ゴン!と……。
ガン!と……。
最後に、濡れた布袋を床へ投げつけたような音がした。
沙耶は声を出せなかった。
下を見ないようにしても、玲奈の折れ曲がった腕だけが視界に入った。
配信は続いていた。
無人の椅子。
明るい照明。
最後の十四秒、カメラの前へ制服姿の少女が現れた。
顔は髪に隠れていた。
少女は玲奈のスマートフォンを持ち、画面へ向ける。
『送信先を選んでください』
候補に、稲葉昴の名前が表示されていた。
少女の指が触れる。
ピッ!と……。
『送信しました』
【第三章 笑った音】
稲葉昴は、音を恐れない男だった。
「人の顔は嘘をつく。文章も嘘をつく。でも、呼吸の乱れや声の震えまでは完全には隠せない」
玲奈の葬儀の帰り、昴はそう言った。
黒いシャツの襟元を緩め、火のついていない煙草を指先で転がしている。
「だから、音だけは信用できると思ってた」
「今も?」
沙耶が尋ねる。
「今は逆だね。耳が一番簡単に騙される」
昴のECHOには、新しい音声が届いていた。
『今日のおすすめ』
『八年前の笑い声を高音質で再生します』
まるで音楽配信アプリの推薦欄だった。
再生ボタンの横には、ヘッドホンのアイコンまである。
「聞いたの?」
「一度だけ」
昴が再生する。
ピッ!と……。
最初は小さな笑い声。
男。
女。
何人もの声が重なり、次第に厚くなる。
高校時代のクラスメイト。
樫村。
玲奈。
遼。
昴自身。
音の奥で、凪が泣いている。
『やめて』
その声が聞こえるたび、笑い声が大きくなる。
昴は再生を止めた。
「この音源を作ったのは僕だ」
「知ってる」
「凪の声を切って、音程を変えた。泣き声をリズムに合わせた。十七歳の僕には、人の声も素材にしか聞こえていなかった」
「どうして、そんなことができたの」
昴は長い指を見つめた。
「面白かったから」
静かな声だった。
「音が別の意味に変わっていくのが、純粋に面白かった」
その夜から、昴の部屋では笑い声が続いた。
壁の中。
水道管。
換気口。
電源を抜いたスピーカー。
防音室に入っても、笑い声は壁を越えた。
ピッ!と……。
通知が鳴るたび、笑う人数が一人ずつ増える。
昴は音声解析ソフトへ録音を取り込み、声を分離した。
二十三人分の声。
二十四人目だけ、波形はあるのに聞こえない。
「無音の声だ」
電話で昴は言った。
「音量がゼロじゃない。誰かが黙っている形が、音として入っている」
「意味がわからない」
「僕にもわからない。でも、凪はその無音を聞いていたんだと思う」
沙耶と遼が昴の部屋へ着いたとき、玄関は開いていた。
奥の防音室から笑い声が聞こえる。
最初は遠い。
一歩進むたび近づく。
最後には、自分の口の中から笑い声が出ているように聞こえた。
防音室の中央で、昴は椅子に縛られていた。
コードや縄ではない。
無数のイヤホンの線が、腕、脚、首へ絡みついている。
耳には大型のヘッドホン。
口元は笑った形に引きつっていた。
「昴!」
沙耶がヘッドホンを外す。
イヤーパッドの内側が濡れている。
血だった。
昴の耳から細い血が流れている。
「音が、近すぎる」
昴は震えた。
「頭の中で鳴ってる。僕の笑い声が、骨の内側を叩いてる」
スピーカーから凪の声。
『面白かった?』
「今は違う」
『あのときは?』
昴の口元が勝手に持ち上がる。
笑いたくないのに、頬の筋肉が引かれていく。
「面白かった」
涙を流しながら、昴は笑った。
「ごめん。あのときは、面白かったんだ」
笑い声が一斉に止まる。
完全な静寂。
昴が大きく息を吸った。
吐かない。
胸が膨らんだまま止まる。
「昴、息を吐いて!」
沙耶が背中を叩く。
昴の目が見開かれる。
呼吸の方法を忘れたように、口を開閉する。
やがて肺の中の空気が血管を圧迫し、顔が赤黒く変わった。
遼が胸を押す。
肋骨が軋む。
それでも昴は息を吐けない。
耳元で電子音が鳴った。
ピッ!と……。
『笑い声を保存しました』
昴の身体から力が抜けた。
死後、防音室に残された音声には、十四秒間の笑い声が入っていた。
最後の一秒に、病院のナースコールが鳴る。
【第四章 呼ばれた人】
小松美咲は、幼い頃から嘘を禁じられていた。
実家は三百年以上続く寺で、父親は口癖のように言った。
『仏さまは、口から出た言葉をすべて聞いておられる』
だから美咲は、乱暴な言葉を使わなかった。
怒っても声を荒らげず、相手を責める前に自分の非を探した。
そんな美咲が、生涯で最も大きな嘘をついたのは十七歳の夏だった。
「白井さんは、一人で放送室へ入りました」
教師にそう証言した。
本当は、樫村が凪の腕をつかみ、旧校舎へ連れていくところを見ていた。
「父に知られるのが怖かったのです」
夜勤の休憩室で、美咲は沙耶へ告白した。
「家の名を汚したら、二度と敷居をまたぐなと言われると思いました」
「私も同じだよ。自分を守った」
「いいえ。私たちは、それぞれ違う形で凪さんを一人にしました」
病院内で、学校のチャイムが鳴った。
キーン、コーン……。
カーン、コーン……。
時計は午前二時十四分。
秒針が止まる。
ナースコールが点灯した。
一〇四号室。
「空室です」
美咲が立ち上がる。
「行かないで」
「呼ばれているのに無視をするのは、もう嫌なのです」
一〇四号室の扉は少し開いていた。
中から少女の声。
『看護師さん』
美咲が足を止める。
『私、一人で入ったの?』
「いいえ」
『誰かに連れてこられたの?』
「はい」
『見ていた?』
美咲の唇が震える。
「見ていました」
扉が開く。
無人のベッドに、古い制服が置かれている。
ナースコールのボタンがひとりでに沈む。
ピッ!と……。
『どうして嘘をついたの?』
「怖かったからです」
『私も怖かった』
「はい」
『助けてほしかった』
「はい」
美咲は病室へ入った。
扉が閉じる。
沙耶がドアノブを回すが、開かない。
「美咲!」
「沙耶さん」
扉の向こうから、穏やかな声。
「今度は、私が返事をいたします」
ナースコールが十四回鳴った。
ピッ!と……。
ピッ!と……。
音の間に、美咲の念仏が聞こえる。
十回目から声が苦しげに途切れた。
十二回目、何かを吐く音。
十三回目、骨が軋む音。
十四回目。
ピッ!と……。
扉が開いた。
美咲はベッドの横に正座していた。
両手は膝の上。
背筋を伸ばし、目を閉じている。
一見、祈っているようだった。
だが、首は人間には曲がらない角度で後ろへ反っていた。
口から長いナースコールのコードが垂れている。
コードの先端は喉の奥まで押し込まれていた。
それでも顔には、安堵したような微笑みが浮かんでいた。
美咲のスマートフォンには、最後の音声が保存されていた。
『仏さまは、全部聞いているの?』
美咲が答える。
『はい。私たちが隠したことも、きっと』
その後、テープを巻き戻す音がした。
キュルキュルキュル……。
次に選ばれたのは、佐久間遼だった。
【第五章 姉の声を作った男】
白井冬馬の研究室は、都心から電車で一時間ほど離れた大学の地下にあった。
外は真夏の午後だったが、階段を下りるにつれて空気が冷たくなる。蛍光灯は等間隔に並び、白い壁には研究室番号を示す小さなプレートしかない。
沙耶と遼が扉の前へ立つと、室内から微かな声が聞こえた。
『聞こえてる?』
沙耶の足が止まる。
「凪……」
遼が黙ってドアノブへ手をかける。
扉は施錠されていなかった。
中には、大小のスピーカーとコンピューターが並んでいた。壁一面のモニターには、何本もの音声波形が表示されている。
中央の机に、一人の青年が座っていた。
細身の身体。黒いシャツ。銀縁の眼鏡。
白井凪の弟、白井冬馬。
八年前は中学生だった。
冬馬は椅子から立ち上がり、静かに頭を下げた。
「お越しになると思っていました」
言葉遣いは丁寧だった。
ただし、玲奈のように相手との距離を示す丁寧さではない。感情を押さえ込み、余計なものを一切外へ出さないための話し方だった。
「ECHOを作ったのは、あなた?」
沙耶が尋ねる。
「原型を作ったのは私です」
「原型?」
「現在、皆さんの端末に表示されているものは、私が設計した範囲を逸脱しています」
遼が一歩前へ出る。
「四人死んだ」
「存じています」
「おまえが送ったアプリでだ」
「私が送信したECHOに、人を殺す機能はありません」
「信用しろって言うのか」
「信用していただく必要はありません」
冬馬は遼の目を見た。
「事実だけをご確認ください」
彼はモニターへ向き直り、キーボードを操作した。
ECHOの初期画面が表示される。
白い背景。
淡い青のロゴ。
日付、天気、歩数。
沙耶たちの端末にあるものと同じだった。
「もともとは、日常の生活音を自動で記録し、利用者の記憶を整理するためのアプリでした」
「音声日記みたいなもの?」
「ええ。ただし主目的は、断片的な音声から失われた会話を復元することです」
冬馬が別の画面を開く。
古い留守番電話。
動画の背景音。
教室で撮影された短い映像。
校内放送の記録。
凪の声が含まれるデータが、年代順に並んでいた。
「姉が亡くなった後、学校から渡された記録の多くは削除されていました。警察も、いじめとの直接的な関係は確認できないと判断した」
冬馬の声は平坦だった。
「母は姉の死から二年後に病気で亡くなり、父は家を出ました。私は祖母に引き取られました」
「それで、凪の声を復元しようと?」
「姉が最後に何を言ったのかを知りたかった」
モニターに、一本の細い波形が表示される。
「音声は一部しか残っていませんでした。そこで、姉の過去の録音から声の特徴を学習させ、欠けた部分をAIに推定させた」
遼が机へ手をつく。
「俺たちの端末へ勝手に入れた理由は」
「姉の音声を最も多く保持していた可能性があるからです」
「俺たちは全部消した」
「データは消しても、端末の記憶領域に痕跡が残る場合があります。また、皆さん自身の聴覚記憶も重要でした」
「記憶をどうやって読む」
「本来は読めません」
冬馬の指が止まる。
「少なくとも、私が作った段階では」
室内のスピーカーが鳴った。
ピッ!と……。
ECHOの起動音。
冬馬は操作していない。
モニターの画面が一斉に白くなる。
『こんにちは、冬馬さん』
沙耶の皮膚に鳥肌が立つ。
「あなたの端末にも入っているの?」
「いいえ」
冬馬は初めて困惑を見せた。
「私は対象者ではありません。何度インストールを試しても、利用資格がないと表示される」
画面に丸い案内キャラクターが現れた。
『ご家族の記録をお探しですか?』
冬馬の顔が強張る。
「停止しろ」
キーボードを叩く。
画面は変わらない。
『凪さんの音声を再生します』
「やめろ」
ピッ!と……。
スピーカーから、少女の声が流れた。
『冬馬』
冬馬の肩が震えた。
先ほどまでの冷静な顔が崩れる。
「姉さん?」
『私を作ったの?』
「違う」
冬馬は立ち上がった。
「僕は姉さんを戻そうとしたんじゃない。何があったのか、知りたかっただけだ」
丁寧な言葉遣いが消えていた。
姉を前にした瞬間だけ、八年前の少年へ戻った。
『これは、私?』
複数のスピーカーから同じ声が流れる。
『これは、私?』
「違う。姉さんはこんなことをしない」
『どうしてわかるの?』
冬馬は答えられなかった。
モニターに、樫村、玲奈、昴、美咲の死の直前の音声波形が表示される。
ノック。
通知音。
笑い声。
ナースコール。
それらが一本の大きな波形へ結合されていく。
「死者の音を回収してる」
遼が呟いた。
「はい」
冬馬は再び平静を取り戻そうとした。
「利用者が死亡するたび、アプリはその人の最後の十四秒を次の音声へ追加している」
「止められないの?」
沙耶が尋ねる。
「サーバーを停止しました。保存装置も破壊しました。プログラムの元データも削除した」
「それでも動いてる」
「翌日には、すべて復元されていました」
冬馬は画面を見つめた。
「私は科学者です。霊や怨念という言葉で説明することを避けてきました。しかし、これは情報だけではない」
「何なんだ」
遼の問いに、冬馬はゆっくり答えた。
「記録された悪意です」
笑った声。
助けを求めた声。
止めなかった沈黙。
学校が削除した記録。
教師が口を閉ざした時間。
「それらが、姉の声を核にして一つのものへまとまった」
モニターの文字が変わる。
『私は、あなたたちが残した音です』
沙耶は画面へ向かって尋ねた。
「あなたは、凪なの?」
短い電子音。
ピッ!と……。
『違います』
「じゃあ、どうすれば止まるの」
『すべての記録が完了すれば、サービスは終了します』
遼のスマートフォンが鳴った。
ピッ!と……。
ECHOを開く。
『五日目の音声を作成しました』
『今日のおすすめ 削除した記録を聞く』
再生時間、十四秒。
遼はためらわず再生した。
テープを巻き戻す音。
キュルキュルキュル……。
逆再生された人の声が重なる。
その中に、高校生の遼の声があった。
『全部消せ。残すな』
最後に、現在の遼の声。
『次は俺か』
音声が終わる。
画面に地図が表示された。
目的地は、閉鎖された母校。
『削除作業を開始してください』
遼はスマートフォンをポケットへ入れた。
「行くぞ」
「どこへ」
「学校だ」
「罠かもしれない」
「罠でも、ほかに手がない」
沙耶が首を横に振る。
「一人では行かせない」
遼は沙耶を見た。
「怖くないのか」
「怖いよ」
声が震えた。
「でも、また誰かが行くのを見ているだけにはなりたくない」
冬馬が机の引き出しから小型の録音機を取り出した。
「私も同行します」
「おまえは対象外だ」
「姉の声を作った責任があります」
遼はしばらく冬馬を見た。
「勝手にしろ」
三人が研究室を出ようとしたとき、すべてのモニターから電子音が鳴った。
ピッ!と……。
『ご利用ありがとうございます』
『目的地まで、安全にお越しください』
画面の案内キャラクターが、笑顔で手を振っていた。
その丸い口の中に、びっしりと人間の歯が並んでいた。
【第六章 旧校舎へ向かう音】
母校は、翌月から解体される予定だった。
町外れの丘に建つ校舎は、周囲を高い仮囲いで覆われている。正門には立入禁止の札が下がり、校庭には背丈ほどの雑草が生えていた。
午後十一時四十分。
三人は裏門の隙間から敷地へ入った。
湿った土と枯れ草の匂い。
昼間の熱を含んだ校舎の壁から、ぬるい空気が漂っている。
蝉は鳴いていない。
それなのに沙耶のスマートフォンから、夏の蝉時雨が聞こえた。
ザーッ、ザーッ……。
画面には、一般的な地図アプリのような校内案内が表示されている。
『目的地まで 180m』
『推定所要時間 3分』
青い線が旧校舎の放送室まで伸びていた。
「親切なアプリだな」
遼が吐き捨てる。
「道案内までしてくれる」
「皮肉を言えるなら、まだ大丈夫そうですね」
冬馬が答えた。
「おまえ、意外と口が悪いな」
「祖母からは、言葉を慎むよう教えられました。ただし、黙って耐えろとは教わっておりません」
遼が少しだけ口元を緩めた。
旧校舎の昇降口は板で塞がれていた。
遼が工具で釘を外す。
金属が木を擦る音。
ギイ……。
板が外れた瞬間、校舎の中から冷たい空気が流れ出した。
夏の夜とは思えない冷気。
その奥で、上履きが床を擦る音がした。
キュッ。
キュッ……。
誰かが廊下を歩いている。
「解体業者かもしれない」
沙耶が言った。
「午前零時前に?」
遼が懐中電灯を向ける。
誰もいない。
三人が校舎へ入る。
足音が響いた。
コツ。
コツ。
コツ。
三人分。
二階へ上がる途中、足音が一つ増えた。
コツ。
コツ。
コツ。
コツ……。
遼が止まる。
すべての音も止まった。
「後ろを見るな」
「なぜですか」
冬馬が小声で尋ねる。
「見たら、いることになる」
「すでに音は存在しています」
「理屈を言うな」
三人は再び歩く。
四人目の足音がついてくる。
踊り場を曲がると、五人目が増えた。
さらに廊下へ出たところで、六人分になる。
沙耶は聞き分けた。
樫村の重い革靴。
玲奈の細いヒール。
昴のゆっくりしたスニーカー。
美咲の静かな看護靴。
死んだ四人が、三人の後ろを歩いている。
遼のスマートフォンが鳴る。
ピッ!と……。
『同行者が増えました』
『現在のグループ 7名』
沙耶は息を呑んだ。
「七人?」
三人と、死んだ四人。
それで七人。
だがECHOのメンバー一覧には、別の表示が出ていた。
樫村拓海。
宮下玲奈。
稲葉昴。
小松美咲。
佐久間遼。
真壁沙耶。
白井凪。
冬馬の名前はない。
「姉さんが、同行者に含まれている」
冬馬が呟く。
その直後、背後から少女の声がした。
『冬馬』
冬馬が振り返りかける。
沙耶が腕をつかんだ。
「見ないで」
「でも」
「あなたのお姉さんなら、こんなふうに呼ばない」
冬馬は歯を食いしばり、前を向いた。
旧放送室の扉には、新しい南京錠が掛かっていた。
遼が工具を差し込む。
金属が曲がる。
カチン!と……。
錠が外れた。
扉を開ける。
八年前の匂いがした。
埃。
古い機械。
日に焼けたカーテン。
夏の汗。
室内は、ほとんど当時のままだった。
放送卓。
マイク。
壁に貼られた時間割。
割れた椅子。
中央の机にだけ、黒いノートパソコンが置かれている。
画面にはECHOのロゴ。
『おかえりなさい』
遼がパソコンを調べる。
「校内放送の設備につながってる」
冬馬が録音機を起動した。
「ネットワーク接続はありません。それでもアプリが動いています」
電源の入っていないスピーカーから、チャイムが鳴った。
キーン、コーン……。
カーン、コーン……。
続いて、八年前の録音が流れる。
『凪、もっと大きい声で言ってみろよ』
樫村。
『きちんと録音できませんわ。もう少しマイクへ近づいてくださる?』
玲奈。
『音が割れてる。泣くなら同じテンポで泣いて』
昴。
『先生が来ます。もう、おやめになった方が……』
美咲。
『五分で終わらせろ。見回りが来る』
遼。
沙耶の声は、すぐには聞こえない。
放送室の扉を叩く音。
コン。
コン……。
『沙耶ちゃん』
凪が呼ぶ。
『そこにいるんでしょう?』
録音の中で、沙耶の浅い呼吸が聞こえる。
やがて、小さな声。
『もう、やめようよ』
あまりにも弱い。
止めるためではなく、自分は止めようとしたと言い訳するための声。
誰も反応しない。
凪には届いただろうか。
十四秒間、扉を叩く音だけが続く。
コン。
コン……。
ドン!と……。
十四秒後、凪が言った。
『聞こえてるなら、返事をして』
録音が止まる。
沙耶は床へ座り込んだ。
「私、返事をしなかった」
遼は何も言わない。
「聞こえてたのに」
「俺もだ」
遼が放送卓へ手をついた。
「俺は見張ってた。拓海に頼まれた」
「どうして」
「親父の工場が潰れかけてた。拓海の親父から仕事を回してもらう代わりに、拓海の言うことを聞いた」
遼は拳を握った。
「俺は凪を、工場の仕事と引き換えに売った」
パソコンが鳴る。
ピッ!と……。
『削除する記録を選択してください』
画面に複数のファイルが並ぶ。
『放送室音声』
『凪 最後のメッセージ』
『学校調査報告』
『教員聞き取り記録』
すべて、遼が八年前に削除したものだった。
「俺が消した」
遼が言う。
「凪が死んだ後、拓海に頼まれて、端末と学校のパソコンから全部消した」
「学校の記録まで?」
「教師から金をもらった」
沙耶は遼を見た。
「そこまでしていたの」
「ああ」
遼は逃げなかった。
「最低だと思うなら、そう言え」
「最低だよ」
沙耶は答えた。
遼がわずかに目を見開く。
「でも、私も同じ場所にいた」
パソコンの画面に確認ボタンが現れる。
『すべて削除しますか?』
遼の指が伸びる。
「待って」
冬馬が止める。
「削除すれば、また同じことになります」
「逆だ。消せばアプリの材料がなくなる」
「八年前も、そう考えたのでしょう」
「今度は全部消す」
遼がボタンを押した。
ピッ!と……。
『削除を開始します』
テープを巻き戻す音が、放送室全体に響いた。
キュルキュルキュル……。
時計の針が逆回転する。
外れた南京錠が床から跳ね上がり、扉へ戻る。
開いた扉が閉じる。
沙耶たちの足が勝手に後ろへ動く。
世界が、数十秒前へ巻き戻っていく。
【第七章 巻き戻す人】
沙耶が目を開けると、三人は再び旧校舎の昇降口に立っていた。
外したはずの板が、入口を塞いでいる。
時計は午後十一時四十分。
「戻った……?」
沙耶は自分の腕を見る。
放送室で床へついたときに付いた埃が消えていた。
冬馬が録音機を確認する。
「記録がありません。大学を出てからの音声がすべて消えています」
遼だけが黙っていた。
「遼?」
「行くぞ」
「また同じことをするの?」
「今度は、削除の順番を変える」
「待って。もう一度考えよう」
「考えてる時間があるか」
遼は板を外し始めた。
同じ金属音。
ギイ……。
同じ冷気。
同じ上履きの音。
キュッ。
キュッ……。
三人は再び旧放送室へ向かった。
足音が増える場所も、ECHOの通知も、すべて同じだった。
放送室へ入り、八年前の録音を聞き、遼が削除ボタンを押す。
世界が巻き戻る。
また昇降口。
午後十一時四十分。
三回目。
遼は放送室のパソコンではなく、配電盤を壊した。
巻き戻る。
四回目。
冬馬がノートパソコンを持ち出そうとした。
巻き戻る。
五回目。
沙耶が削除ボタンを押す前に遼の腕をつかんだ。
遼は彼女を振り払い、結局押した。
巻き戻る。
六回目の昇降口。
沙耶は膝をついた。
記憶は残っている。
身体は元へ戻っているのに、恐怖と疲労だけが積み重なる。
「もうやめよう」
「あと一回だ」
遼の声も掠れていた。
「何回やっても同じだよ」
「同じじゃない。毎回、削除できる量が増えてる」
遼がスマートフォンを見せる。
ECHOの画面に進行状況が表示されていた。
『削除済み 84%』
「あと十六%だ」
冬馬が画面を確認する。
「これは削除率ではありません」
「何?」
「音声の復元率です。私たちが繰り返すたび、アプリは行動と会話を学習している」
数字が上がった。
『復元済み 86%』
ピッ!と……。
『より正確な記録を作成しています』
遼の顔が歪む。
「俺がやってることまで材料にしてるのか」
「そうです。削除しようとするあなたの声を集めている」
校舎の奥から、複数の遼の声が聞こえた。
『消せ』
『全部消せ』
『残すな』
過去五回分の遼が、暗い廊下で同じ言葉を繰り返している。
懐中電灯の光の先に、人影が並んでいた。
一人目の遼。
二人目の遼。
三人目。
すべて背を向け、旧放送室へ歩いていく。
「俺が増えてる」
遼が呟く。
影の一人が振り返った。
顔には目も鼻もない。
口だけがあり、言った。
『消せば、なかったことになる』
遼は工具を握りしめた。
「違う」
『おまえは、そう思っていた』
「違う」
『親父の工場を守るためだった』
「黙れ」
『金が欲しかった』
「黙れ!」
遼が影へ工具を振り下ろす。
金属が頭部へめり込む。
だが影は倒れず、遼と同じ声で笑った。
『壊せば、消えると思ってる』
ほかの影も振り返る。
口だけの顔が一斉に開く。
『だから、おまえは何度でも壊す』
テープの巻き戻し音が鳴った。
キュルキュルキュル……。
三人はまた昇降口へ戻された。
七回目。
遼は板を外さなかった。
その場に座り、壁へ背を預けた。
「遼」
「俺には、これが何回目かわからない」
「七回目」
「おまえたちにはな」
沙耶は意味がわからなかった。
遼は両手を見つめる。
「俺だけ、途中から戻される場所が違う」
「どういうことですか」
冬馬が尋ねる。
「削除ボタンを押した後、俺は八年前に戻る」
遼の声が震えた。
「凪が死んだ翌日だ。拓海に呼ばれて、学校のパソコンから記録を消す。何度も同じ操作をする。教師が後ろで見てる。拓海が急かす。俺は金を受け取る」
沙耶は言葉を失った。
「何回やっても、俺は消す。最初は工場のためだと思ってた。でも繰り返すうちに、違うとわかった」
「何が?」
「証拠が残れば、俺が悪者になるからだ」
遼は笑った。
「親父のためじゃない。俺は俺を守った」
ECHOが鳴る。
ピッ!と……。
『正しい回答です』
白い画面に、子ども向け学習アプリのような花丸が表示された。
その無邪気さに、沙耶は吐き気を覚えた。
『次の問題です』
『あなたは、もう一度削除しますか?』
選択肢。
『はい』
『はい』
どちらも同じだった。
遼はスマートフォンを床へ投げた。
画面は割れない。
「俺に選ばせる気はない」
『八年前も、選択肢は一つでしたか?』
遼は立ち上がった。
「沙耶。冬馬を連れて外へ出ろ」
「何するつもり?」
「俺が残る」
「だめ」
「この巻き戻しは俺の音だ。俺がここにいる限り、おまえたちも巻き込まれる」
「一緒に止めるって言ったでしょう」
「止められない」
遼は沙耶の肩をつかんだ。
「俺は、消すことしか覚えてない」
暗い廊下の奥から、無数の遼が近づいてくる。
工具を持つ者。
封筒に入った金を持つ者。
学校のパソコンへ向かう者。
全員が同じ言葉を繰り返す。
『消せ』
『消せ』
『消せ』
「だから、おまえは残せ」
遼が言った。
「凪の音声も、俺たちがやったことも、全部」
「遼も一緒に話せばいい」
「俺にはもう時間がない」
遼の右腕が透け始めていた。
皮膚の下で、逆回転する時計の針が見える。
骨が一本ずつほどけ、細い磁気テープのように腕から引き出されていく。
遼は痛みに顔を歪めた。
それでも声を上げなかった。
「怖いなら、怖いって言って」
沙耶は遼の手をつかんだ。
「強がらなくていい」
遼はしばらく黙っていた。
「怖い」
かすかな声だった。
「死にたくない」
それは、遼が初めて口にした弱音だった。
「なら、一緒に――」
「でも、戻り続ける方がもっと怖い」
遼は沙耶の手を外した。
「次に巻き戻しが始まったら、昇降口から出ろ。俺が扉を押さえる」
影たちが迫る。
遼は工具を構え、影の群れへ向かって歩いた。
「遼!」
振り返らない。
「今度は聞こえてる!」
沙耶が叫ぶ。
「遼が怖いって言ったの、聞こえてるから!」
遼の足が一瞬止まった。
振り向かず、片手を上げる。
巻き戻し音が校舎を満たした。
キュルキュルキュル……。
床も壁も天井も、長い黒いテープへ変わっていく。
遼の影たちが一斉に彼へ襲いかかった。
工具が骨へ当たる音。
ゴッ!と……。
何かが裂ける音。
遼の呻き。
それらが逆再生され、また最初へ戻る。
同じ殴打が繰り返される。
遼は自分自身の影に、何度も殺され、何度も直前へ戻された。
「走ってください!」
冬馬が沙耶の腕を引く。
二人は昇降口へ向かった。
背後で遼が叫ぶ。
「消すな!」
その声だけは逆再生されなかった。
昇降口の板が閉じ始める。
沙耶と冬馬が隙間から外へ転がり出る。
直後、校舎の中で大きな音がした。
バキン!と……。
巨大なテープが切れるような音。
巻き戻しが止まった。
時計は午前二時十四分。
遼は戻ってこなかった。
昇降口の内側に、彼のスマートフォンだけが落ちていた。
ECHOの画面。
『削除処理を中止しました』
『記録を保存しました』
音声ファイルが一件増えている。
『佐久間遼 最後の十四秒』
沙耶は再生した。
最初の十三秒は、激しい巻き戻し音だった。
最後の一秒。
遼の声がした。
『次は、おまえが答えろ』
【第八章 聞こえない音】
沙耶のECHOには、音がなかった。
遼が消えた翌晩、午前二時十四分。
ピッ!と……。
通知が届く。
『六日目の記録を作成しました』
『今日の音声 沈黙』
再生時間は十四秒。
沙耶は再生ボタンを押した。
何も聞こえない。
一秒。
二秒。
三秒。
部屋の時計の音さえ消えた。
外を走る車も、冷蔵庫も、沙耶自身の呼吸も聞こえない。
耳が聞こえなくなったのではない。
音が存在しない空間へ、一人だけ落とされたようだった。
十四秒後。
日常の音が一気に戻る。
冷蔵庫の作動音が異様に大きい。
自分の呼吸が荒い。
画面に文字が表示された。
『再生が完了しました』
『あなたは、この音を八年前にも聞いています』
沙耶は何度も再生した。
無音。
だが聞くたび、胸の奥へ何かが積もる。
無音の中で、凪が返事を待っている。
冬馬は大学の研究室で、復元された音声を整理していた。
「姉の最後のメッセージが見つかりました」
沙耶へ小型の再生機を差し出す。
「あなた宛てです」
沙耶は受け取れなかった。
「怖いですか」
「うん」
「では、私が再生します」
「待って」
沙耶は両手で再生機を受け取った。
「自分で聞く」
ボタンを押す。
雑音。
凪の呼吸。
『沙耶ちゃん。急にごめんね』
弱い声だった。
『私、明日、学校に行くのが怖い』
短い沈黙。
『玲奈さんたち、また放送室へ来いって言ってる。行かなかったら、もっとひどい音を流すって』
凪が息を吸う。
『沙耶ちゃんは、あの人たちと仲がいいから、言えないよね』
小さく笑う。
『でも、聞いてくれるだけでいいの。助けてって言ったことを、誰かに知っていてほしい』
声が震える。
『聞こえてる?』
一呼吸。
『聞こえてるなら、返事をして』
音声が終わる。
沙耶は再生機を胸へ抱いた。
「私は聞いた」
「いつですか」
「届いた夜」
声が喉へ張りつく。
「聞いて、そのまま寝た。翌朝、凪と目が合ったけど、何も言わなかった」
「なぜですか」
冬馬の質問は静かだった。
逃げ道を与えない静けさだった。
「怖かったから」
「何が」
「玲奈たちに嫌われること。次の標的にされること。一人になること」
「姉は一人でした」
「わかってる」
「いいえ」
冬馬の声が硬くなる。
「あなたは今、わかっただけです」
沙耶は顔を上げた。
冬馬の目には涙が浮かんでいた。
「姉は、あなたなら聞いてくれると言っていました」
「ごめんなさい」
「私に謝らないでください」
「でも」
「姉が許すかどうかを、私が決めることはできません」
冬馬は眼鏡を外し、目元を押さえた。
「生きている人間が死者の代わりに許しを与えれば、また死者の声を奪うことになります」
「じゃあ、私は何をすればいいの」
「知りません」
冬馬は正直に答えた。
「ただ、もう一度黙ることだけは、選ばないでください」
その日の夕方、ECHOの画面に新しい機能が追加された。
『みんなに共有』
一般的な音声アプリにある共有ボタンと同じだった。
押すと、送信先の候補が表示される。
警察。
報道機関。
学校関係者。
卒業生。
共有ファイルには、八年前の音声と、死んだ五人の最後の十四秒が含まれている。
画面下部に注意書き。
『共有を完了するには、あなた自身の記録が必要です』
「私の記録」
冬馬が画面を確認する。
「旧放送室の設備を使い、事件について話す必要があるのでしょう」
「また学校へ行く」
「危険です」
「でも、行かなければ終わらない」
「終わる保証はありません」
「それでも」
沙耶は再生機を握った。
「今度は返事をする」
旧校舎へ向かう前に、沙耶は自宅へ寄った。
机の引き出しから、高校時代の卒業アルバムを出す。
二年三組の集合写真。
凪は一番端に立っていた。
前列の玲奈は笑っている。
樫村は肩を組み、昴は退屈そうに横を向き、美咲は姿勢を正している。
遼は無表情。
沙耶は玲奈の隣で笑っていた。
凪と自分の距離は、写真の中で数十センチしかない。
それなのに八年前は、手の届かないほど遠かった。
アルバムを閉じる。
部屋の中で通知音が鳴った。
ピッ!と……。
スマートフォンではない。
引き出しの中からだった。
開ける。
高校時代に使っていた古い携帯電話が入っている。
電池は抜いてある。
それでも画面が光っていた。
『未再生メッセージ 1件』
沙耶は再生ボタンを押す。
『沙耶ちゃん』
凪の声。
『返事、まだ?』
画面が暗くなる。
背後から、同じ声がした。
『まだ?』
沙耶は振り返った。
部屋の入口に、制服姿の凪が立っていた。
顔は髪に隠れている。
右手には、玲奈の折れたスマートフォン。
左手には、遼の工具。
首には美咲のナースコールのコード。
耳からは昴のイヤホンが垂れている。
死んだ五人の音を身につけた姿。
凪ではない。
ECHOが作った何か。
少女が一歩近づく。
足音は、五人分重なっていた。
ゴツ。
カツ。
キュッ。
コツ……。
沙耶は逃げずに立った。
「聞こえてる」
少女の動きが止まる。
「でも、ここでは終わらせない」
少女が首を傾ける。
沙耶はスマートフォンと再生機を持ち、玄関へ向かった。
背後から五人分の足音がついてくる。
旧校舎へ着くまで、音は一度も途切れなかった。
【第九章 最後の放送】
旧校舎の時計は、午前一時五十二分を示していた。
冬馬は先に放送室へ入り、古い設備と持ち込んだ録音機を接続していた。
「校内放送の回線は生きています」
「電気は止まっているはずでしょう」
「止まっています」
冬馬は配線へ触れた。
「それでも、信号だけが流れている」
放送卓のランプが一つずつ点灯する。
緑。
黄色。
赤。
最後に『ON AIR』の文字が光った。
ピッ!と……。
沙耶のECHOに案内が表示される。
『録音の準備ができました』
『マイクに向かって、はっきりとお話しください』
一般的な音声入力画面だった。
画面下では青い波形が、沙耶の呼吸に合わせて小さく揺れている。
「何を話せばいいの」
「事実を」
冬馬は答えた。
「飾らず、弁解せず、事実だけを」
廊下から足音が近づく。
一人ではない。
樫村の重い足音。
玲奈のヒール。
昴の靴底。
美咲の看護靴。
遼の革靴。
五人分の歩調はばらばらだった。
それが放送室の前で同時に止まる。
扉を叩く音。
コン。
少し間を置いて。
コン……。
三度目は強く。
ドン!と……。
沙耶の身体が震えた。
「始めましょう」
冬馬が録音ボタンへ指を置く。
「待って」
「どうしました」
「怖い」
沙耶はマイクの前で両手を握った。
「話したら、全部本当になる」
「すでに本当です」
「わかってる。でも、言葉にしたら、もう自分は何も知らなかったふりができない」
冬馬は沙耶を見た。
「それが、記録するということです」
扉がまた叩かれる。
ドン!
ドン!
ドン!と……。
木の表面が内側へ膨らむ。
蝶番から埃が落ちる。
ECHOの画面にカウントダウンが始まった。
『録音開始まで 10』
「勝手に……」
『9』
冬馬が端末を操作する。
「止まりません」
『8』
廊下から玲奈の声がした。
『沙耶さん。無理にお話しになる必要はなくてよ』
『7』
昴の声。
『沈黙だって、一つの音なんだから』
『6』
美咲の声。
『お口を閉ざしていれば、罪を重ねずに済みます』
『5』
樫村の声。
『おまえ一人が喋ったって、何も変わらねえよ』
『4』
遼の声。
『消せ。全部消せ』
『3』
凪の声。
『沙耶ちゃん』
『2』
『聞こえてる?』
『1』
ピッ!と……。
『録音を開始します』
マイクの赤いランプが灯った。
沙耶は口を開いた。
声が出ない。
喉が固く閉じている。
青い波形は一本の直線になった。
ECHOの表示。
『沈黙を検出しました』
廊下の五人が笑った。
樫村の太い笑い。
玲奈の口元だけの笑い。
昴の音程を確かめるような笑い。
美咲の押し殺した笑い。
遼の乾いた笑い。
笑い声が扉を通り抜け、放送室を満たす。
沙耶は耳を塞ぎたくなった。
だが、両手をマイクの前へ置いたままにした。
「私は」
かすかな声。
波形が小さく揺れる。
「私は、真壁沙耶です」
笑い声が少し遠のいた。
「八年前、この学校の二年三組で、白井凪さんへのいじめに関わりました」
スピーカーから沙耶自身の声が校舎全体へ流れる。
空の教室。
誰もいない廊下。
閉鎖された体育館。
すべての場所で、言葉が反響する。
「樫村拓海くんは、凪さんを旧放送室へ連れていき、扉を閉めました」
廊下で樫村が扉を蹴る。
ドン!と……。
『俺だけじゃねえ!』
沙耶は続ける。
「宮下玲奈さんは、凪さんの声を録音し、クラスのグループへ送りました」
通知音が連続する。
ピッ!と……。
ピッ!と……。
『わたくしが作ったものではありません!』
「稲葉昴くんは、凪さんの泣き声を編集し、音源を作りました」
笑い声が壁から溢れる。
『音は、ただの素材だったんだ!』
「小松美咲さんは、教師に嘘の証言をしました」
ナースコール。
ピッ!と……。
『申し訳ございません。どうか、お許しを』
「佐久間遼くんは、事件の記録を削除しました」
巻き戻し音。
キュルキュルキュル……。
『消さなければ、俺たちが終わる!』
五人の声が放送室へ押し寄せる。
扉が大きく歪む。
木材に亀裂が走る。
バキッ!と……。
冬馬が扉を押さえた。
「続けてください!」
「でも、冬馬くんが」
「私を見ないでください。マイクを見て」
扉の隙間から白い指が入る。
何本も。
爪が木を引っかき、冬馬の腕へ伸びる。
一本が手首をつかんだ。
皮膚が白く凍る。
冬馬は歯を食いしばった。
「姉の声を、また途中で止めないでください」
沙耶はマイクへ向き直った。
「そして私は」
喉が震える。
ECHOの画面に新しい表示。
『核心部分を録音しています』
「私は、凪さんが助けを求めていることを知っていました」
扉の向こうの音が一瞬止まる。
「凪さんから届いた音声メッセージを、亡くなる前日の夜に聞きました」
沙耶の目から涙が落ちる。
「学校で、凪さんが放送室の中から私を呼ぶ声も聞きました」
スピーカーから八年前の凪の声。
『沙耶ちゃん』
「でも、返事をしませんでした」
青い波形が大きく揺れる。
「止めようと言った声も、小さくて、誰にも届かないような声でした」
沙耶は息を吸った。
「私は、本気で助けようとしませんでした」
放送室の蛍光灯が割れた。
パン!と……。
ガラス片が降り注ぐ。
沙耶の頬を切り、血が流れる。
それでも話し続けた。
「怖かったからです。自分もいじめられることが。仲間から外されることが。一人になることが」
廊下から凪の声。
『私も怖かった』
「うん」
沙耶は答えた。
『私は一人だった』
「うん」
『沙耶ちゃんは、聞いていた』
「聞いてた」
扉が内側へ弾け飛んだ。
冬馬が床へ投げ出される。
廊下には、死んだ五人が立っていた。
樫村は両手の爪が剥がれ、口を大きく開けている。
玲奈は頭部の片側が潰れ、折れた首を手で支えている。
昴の耳から血が流れ、頬は笑った形に引きつっている。
美咲は首を後ろへ反らし、口からナースコールのコードを垂らしている。
遼の身体は黒いテープで縫い合わされ、ところどころが逆回転するように震えている。
五人の中央に、制服姿の少女。
凪の顔をしている。
だが両目の奥には、細かな音声波形が流れていた。
『謝れば、終わると思ってる?』
「思ってない」
沙耶は答えた。
『許してほしい?』
「許してほしいと言う資格はない」
『では、なぜ話すの?』
「隠さないため」
少女が一歩入ってくる。
五人も続く。
放送室の温度が下がる。
吐く息が白い。
「凪さんが苦しんだことを、私たちの都合で消さないため」
『死んだ人たちも苦しんだ』
「うん」
『あなたも苦しんでいる』
「でも、それで凪さんの苦しみと同じにはならない」
少女の首が不自然に傾く。
『あなたは死にたくない?』
「死にたくない」
沙耶は正直に答えた。
「怖い。逃げたい。今すぐここから出たい」
五人の死者が笑う。
少女は笑わない。
「それでも、話す」
沙耶はマイクを握った。
「白井凪さん。私は、あなたの声を聞いていました」
少女の身体がわずかに揺れる。
「聞こえていたのに、黙っていました」
校舎中からノック音が鳴った。
すべての教室の扉。
ロッカー。
窓。
机。
コン。
コン……。
ドン!と……。
数百の音が重なり、校舎が震える。
冬馬が床から起き上がる。
「沙耶さん!」
少女の腕が伸びた。
人間の長さを超え、マイクへ巻きつく。
冷たい指が沙耶の喉へ触れる。
声が出なくなる。
ECHOの表示。
『沈黙を再生しています』
十四秒のカウントが始まる。
『00:01』
少女の指が喉を締める。
『00:02』
肺から空気が抜ける。
『00:03』
樫村の窒息する音が耳元で鳴る。
『00:04』
玲奈が落下するときの風切り音。
『00:05』
昴の笑い声。
『00:06』
美咲の喉へコードが入る湿った音。
『00:07』
遼の骨が巻き戻される音。
死んだ五人の最後が、沙耶の身体へ流れ込んでくる。
痛みで視界が白くなる。
『00:08』
冬馬が少女へ飛びついた。
「姉さんの声を使うな!」
少女の髪が広がり、冬馬の身体へ巻きつく。
『私は、姉さんではない』
複数の声で答える。
『あなたが作った』
「違う!」
『あなたは姉を戻したかった』
冬馬の首へ髪が食い込む。
『戻した姉が、優しいままだと思った』
「やめろ!」
『死者にも、怒る権利がある』
冬馬の顔が赤くなる。
『00:09』
沙耶は喉を締める指をつかんだ。
冷たく硬い。
声が出ない。
凪は八年前、この無音の中で待った。
誰かが返事をするのを。
『00:10』
沙耶はマイクへ顔を近づけた。
わずかに残った息を押し出す。
「き……」
少女の目が動く。
『00:11』
「聞こ……」
指がさらに食い込む。
喉の内側で何かが切れ、血の味がした。
『00:12』
「聞こえ……てる」
かすかな声がマイクに入る。
青い波形が揺れた。
『00:13』
少女の指が止まる。
沙耶は最後の息を吐いた。
「今度は、黙らない」
『00:14』
ピッ!と……。
『録音が完了しました』
少女の身体に亀裂が走った。
白い皮膚の下から、無数の青い波形が溢れる。
死んだ五人の身体も崩れ始める。
樫村は扉を叩く姿へ。
玲奈は送信ボタンを押す指へ。
昴は笑い声へ。
美咲はナースコールへ。
遼は巻き戻るテープへ。
それぞれが音へ戻り、空中で渦を巻く。
少女が沙耶を見た。
その顔から凪の形が剥がれ落ちる。
中には顔がなかった。
口だけが開く。
『私は、あなたたちが残した音です』
「だったら、残す」
沙耶は共有ボタンを押した。
『すべての記録を共有しますか?』
「はい」
『公開後は取り消せません』
「取り消さない」
ピッ!と……。
『共有を開始します』
進行状況が表示される。
1%。
5%。
12%。
音の渦が激しくなる。
少女がマイクへ手を伸ばす。
冬馬がその腕をつかんだ。
「姉さんの声を返せ」
『これはもう、姉の声だけではない』
「わかってる」
冬馬の手の皮膚が裂ける。
血が床へ落ちる。
「だから、姉さんではないものに、姉さんの顔を使わせない」
共有率、38%。
校舎の外でパトカーのサイレンが聞こえた。
沙耶が事前に送った予約メールが、警察へ届いたのだろう。
共有率、52%。
少女の身体が巨大な波形へ変わり、放送卓を包む。
機械から火花が散る。
バチッ!と……。
冬馬が感電し、床へ倒れる。
「冬馬くん!」
「止めないでください!」
冬馬は痙攣しながら叫んだ。
「最後まで、送って!」
共有率、71%。
放送室の窓が一斉に割れる。
夜風とガラス片が吹き込む。
沙耶はスマートフォンを胸へ抱え、画面を守った。
共有率、84%。
少女の声が校舎中から響く。
『聞かれる』
「聞かせる」
『知られる』
「知ってもらう」
『また笑われる』
沙耶の指が止まりかけた。
凪の声が公開されれば、悪意ある人間が面白がるかもしれない。
死者の声が、また娯楽として消費されるかもしれない。
冬馬が床から顔を上げる。
「音声だけではなく、私たちの説明も送られます」
苦しげに言った。
「姉を、被害者の声だけにしないでください。生きていた人として残してください」
沙耶は頷いた。
共有率、96%。
ECHOの画面に、最後の確認が現れる。
『白井凪さんの記録名を入力してください』
初期設定では『いじめ被害者音声』となっていた。
沙耶は削除する。
新しい名前を入力した。
『白井凪が助けを求めた声』
共有率、99%。
少女が沙耶の耳元へ顔を近づける。
『聞こえてる?』
沙耶は画面を見たまま答えた。
「聞こえてる」
100%。
ピッ!と……。
『共有が完了しました』
すべての音が止まった。
完全な静寂。
少女も、死者も、青い波形も消えていた。
床には、壊れた放送設備とガラス片だけが残る。
沙耶のスマートフォンには、普通のホーム画面が表示されていた。
ECHOのアイコンはない。
冬馬がゆっくり起き上がる。
「終わったのでしょうか」
「わからない」
沙耶は喉を押さえた。
声を出すと痛い。
「でも、送った」
校舎の外から警察官の声が近づく。
沙耶は放送室の床へ座った。
窓の外が少しずつ明るくなる。
夜明けの鳥が鳴いた。
チチ……。
小さく、普通の音だった。
沙耶は目を閉じた。
その静けさを、初めて恐ろしいと思わなかった。
【間章 午前二時十四分の調査記録】
警察官が旧放送室へ到着したのは、午前二時二十九分だった。
最初に入ってきた二人は、床へ散乱したガラスと焼け焦げた放送卓を見て足を止めた。
「動かないでください!」
若い警察官が懐中電灯を向ける。
沙耶は両手を上げた。
喉が腫れ、うまく声が出ない。
「私が、通報しました」
冬馬は床へ座り込んだまま、右手を押さえていた。掌から肘にかけて、細長い火傷が走っている。まるで何本もの音声波形を皮膚へ焼きつけたような形だった。
「ほかに人は?」
警察官が尋ねる。
沙耶は開いた扉を見る。
廊下には誰もいない。
樫村も、玲奈も、昴も、美咲も、遼も消えていた。
「二人だけです」
答えた直後、放送室の奥で短い電子音が鳴った。
ピッ!と……。
若い警察官が振り返る。
「今の音は?」
もう一人の年配の警察官は眉を寄せた。
「何も聞こえなかったぞ」
「いや、鳴りました。スマホの通知みたいな」
沙耶は若い警察官を見る。
「聞こえたんですか」
「ええ。あなたの端末じゃないんですか」
沙耶のスマートフォンは、ECHOが消えた普通のホーム画面を表示している。
冬馬の端末にも異常はない。
若い警察官は床へ落ちていた黒いノートパソコンへ近づいた。
電源ランプは消えている。
画面も割れていた。
それでも彼が手を伸ばした瞬間、内部から起動音がした。
ピッ!と……。
「触らないで!」
沙耶が叫ぶ。
傷ついた喉に痛みが走り、声が掠れた。
警察官の手が止まる。
「どういうことです」
「その機械に、触らないでください」
「危険物ですか」
「わかりません。でも、聞こえたなら……」
沙耶は言葉を探した。
「聞こえたことを、忘れないでください」
年配の警察官が不審そうに二人を見比べた。
「まず、救急を呼ぶ。話はそれからだ」
沙耶と冬馬は別々の救急車で病院へ運ばれた。
車内で救急隊員が血圧を測り、喉の腫れを確認する。
「首を絞められたんですか」
「はい」
「誰に?」
沙耶は答えられなかった。
凪の姿をしたもの。
死んだ五人の音をまとったもの。
自分たちが残した音。
どれを言っても、事実の一部にしかならない。
「人ではありません」
救急隊員は一瞬だけ手を止めた。
「転倒したときに、何かへ首を引っかけた可能性は?」
「ありません」
「では、何に」
「声に」
救急隊員はそれ以上聞かなかった。
代わりに、酸素マスクを沙耶の顔へ当てた。
透明なマスクの中で、自分の呼吸だけが大きく響く。
すう……。
はあ……。
その音の後ろに、別の呼吸が混ざった。
細く、震えた少女の息。
沙耶は目を開けた。
救急車の後部座席には誰もいない。
ピッ!と……。
心電図モニターが鳴る。
画面に二本の波形が表示されていた。
一本は沙耶の心拍。
もう一本は、それより少し遅れて上下している。
「この波形は何ですか」
沙耶が尋ねる。
救急隊員は画面を見る。
「一人分しか出ていませんよ」
二本目の波形が、ゆっくり文字の形へ変わった。
キコエテル。
沙耶は酸素マスクを外しかけた。
その瞬間、波形は普通の線へ戻った。
病院では、喉の内側に強い圧迫痕が見つかった。
しかし、外側の皮膚に指の痕はなかった。
冬馬の火傷も、医師を困惑させた。
「高圧電流に触れた傷に似ていますが、入口と出口がありません」
医師は写真を撮りながら言った。
「皮膚の表面だけが、複雑な模様に焼けています」
冬馬は右腕を見下ろした。
波形状の火傷は、よく見ると一つの音声データに似ていた。
「録音できますか」
冬馬が尋ねる。
「何をです?」
「この形を音へ戻せるかもしれません」
「今は治療が先です」
医師は困ったように笑った。
冬馬は黙った。
もう、姉の声を復元しないと決めたばかりだった。
それでも、身体へ刻まれた波形の内容を知りたいという衝動が湧いている。
知りたい。
聞きたい。
失われた声を戻したい。
それがECHOを作った始まりだった。
冬馬は左手で火傷を覆った。
「録音しません」
自分へ言い聞かせるように呟いた。
「これは、聞かないでおきます」
翌朝、沙耶は警察署へ移された。
小さな取調室。
灰色の机。
壁の時計。
録音機。
担当した刑事は、五十代の女性だった。
短く整えた髪に、化粧気の薄い顔。机の上へ書類をまっすぐ並べ、沙耶の前に水を置いた。
「声を出すのが難しいなら、筆談でも構いません」
「話します」
「無理をしなくても」
「話したいんです」
刑事は少し間を置き、録音機のスイッチを入れた。
ピッ!と……。
沙耶の肩が跳ねる。
「どうしました」
「いえ」
刑事は録音状態を確認した。
「では、昨夜、旧校舎へ入った理由から話してください」
沙耶は話し始めた。
ECHOが勝手に端末へ入ったこと。
他人には画面が見えなかったこと。
樫村から順に、五人が死んだこと。
冬馬が凪の音声を復元するAIを作ったこと。
旧放送室で、死者の姿を見たこと。
刑事は途中で遮らなかった。
時折、確認の質問をするだけだった。
「そのアプリは、現在も端末にありますか」
「消えています」
「データは」
「共有しました」
「誰に」
「警察、報道機関、学校関係者、卒業生です」
刑事は手元の資料を見る。
「午前二時十四分、複数の機関へ同時にメールが届いています。送信元はあなたのアドレスですが、通信会社には送信記録が残っていません」
「それでも、届いたんですよね」
「届いています」
刑事は沙耶を見た。
「添付された音声の一部に、樫村拓海さんたちの死亡時刻以降に録音されたと思われる声があります」
沙耶は膝の上で手を握った。
「最後の十四秒です」
「誰が録音したのですか」
「ECHOです」
刑事はペンを置いた。
「真壁さん。私は、あなたの話を最初から否定するつもりはありません。ただ、亡くなった五人の死について、現実的な説明も調べなければなりません」
「わかっています」
「あなたと白井冬馬さんが関与した可能性も含めてです」
「はい」
「怖くありませんか」
沙耶は少し考えた。
「怖いです」
「それでも話す?」
「黙っていた方が、もっと怖いから」
刑事は録音機へ視線を落とした。
赤いランプが点滅している。
「私にも、娘がいます」
唐突に言った。
「中学生です。学校のことは何でも話してくれていると思っていました。でも、親に聞かせない声もあるのでしょうね」
「あると思います」
「聞くためには、どうすればいいのでしょう」
「すぐに答えを出さなくても、聞こえていると伝えることだと思います」
刑事は頷いた。
そのとき、録音機が鳴った。
ピッ!と……。
赤いランプが消える。
「電池切れかしら」
刑事が録音機を持ち上げる。
液晶には、見慣れない表示があった。
『音声を保存しました』
『再生時間 00:14』
沙耶は椅子から立ち上がりかけた。
「再生しないでください」
「なぜ?」
「その表示、普通の録音機には出ません」
刑事の顔から表情が消える。
再生ボタンには触れていない。
それでも録音機から音が流れた。
最初に、少女の呼吸。
次に、教室のざわめき。
若い女の子の声がした。
『お母さんには言わないで』
刑事の手が震える。
「娘の声……」
『心配させたくないから』
音声は十四秒で終わった。
録音機の画面に、新しい文字が表示される。
『聞こえていますか?』
刑事は椅子へ座り込んだ。
「これは、いつの音声なの」
「わかりません」
沙耶は答えた。
「でも、聞こえたなら、娘さんに返事をしてください」
刑事は長い間、画面を見つめていた。
その日の夕方、録音機は証拠品として保管庫へ移された。
担当者二人が動作を確認したが、異常な音声は再生されなかった。
液晶にも通常の録音時間しか表示されていない。
ただし、証拠品台帳には不可解な記録が残った。
午前二時十四分。
誰も入室していない保管庫で、録音機が自動的に起動。
十四秒間のデータを保存。
警備カメラに音声はない。
映像には、棚の前に制服姿の少女が立っていた。
少女は録音機へ顔を近づけ、何かを囁いている。
十四秒後、カメラの方を向く。
髪に隠れた顔の中で、口だけが動いた。
読唇を依頼された専門家は、その言葉を次のように報告した。
『まだ、全部は聞かれていない』
後日、五人の変死に関する検視記録が、同じ捜査本部へ集められた。
樫村拓海。
血中酸素濃度の急激な低下による窒息死。
気道閉塞なし。
頸部圧迫なし。
肺に水や異物なし。
遺体の爪の間からは、カラオケ個室の扉に使われていた木材が検出された。扉には百七十二箇所の損傷があり、その大半は死亡推定時刻の十四分前から集中して付いたものとされた。
防犯映像では、樫村は一人で個室へ入り、途中で何度も背後を振り返っている。
午前二時十三分五十秒。
樫村が扉へ駆け寄る。
午前二時十四分。
突然、映像だけが十四秒間停止する。
再開したとき、樫村は床へ倒れていた。
停止した十四秒の間、映像には何も記録されていない。
だが、店内の別の部屋にいた客十二人が、同じ時刻に扉を叩く音を聞いていた。
宮下玲奈。
高所からの落下による多発外傷。
非常階段の手すりや踊り場には、落下時に身体が衝突した痕跡が残る。不可解なのは、十五階から一階までの各踊り場に、同じ形の裸足の足跡があったことだった。
足跡は小さく、十代女性のものと推定された。
すべての足跡が、階段の下ではなく上を向いていた。
まるで誰かが落下する玲奈を追い、階段を駆け上がっていたように。
玲奈の配信映像は、削除しても複製が現れた。
運営会社が元データを完全に消去した三時間後、別の利用者名義で同じ映像が投稿される。
投稿者名は『SHIRAI_NAGI』。
アカウントの作成日は、凪が死亡した日になっていた。
稲葉昴。
死因は急性呼吸不全。
肺は異常に膨張し、一部の肺胞が破裂していた。昴が大きく息を吸った後、長時間呼気を停止した可能性がある。
通常、意識を失えば筋肉が緩み、呼吸は再開される。
しかし昴の横隔膜は、死後もしばらく吸気位置で硬直していた。
防音室の録音機には、彼の笑い声が四百二十一種類保存されていた。
乳児期。
幼少期。
小学生。
高校生。
成人後。
本人も家族も録音した覚えのない時期の声まで含まれている。
音響解析の担当者は、最後のファイルだけ再生を拒否した。
理由を尋ねられると、彼は耳を押さえて答えた。
『再生前から、笑い声が聞こえている』
小松美咲。
頸椎損傷および窒息。
ナースコールのコードは口から食道まで入り込んでいたが、外部から押し込まれた痕跡はなかった。
両手は膝の上に置かれ、爪や指に抵抗した跡もない。
病室の監視カメラには、美咲が一人で入室する姿が映っている。
扉が閉まった後、ベッド脇へ正座し、誰もいない空間と十四分間会話していた。
音声は記録されていない。
ただし、彼女は何度も頷き、最後に自分で口を大きく開いた。
その直後、映像の外から黒いコードが伸びてくる。
コードを持つ手は映っていない。
美咲は逃げず、両手を合わせた。
佐久間遼。
遺体は見つからなかった。
旧校舎内から採取された血液と毛髪は本人のDNAと一致したが、血液の飛散状態には複数回の激しい殴打を受けた痕跡があった。
問題は、それぞれの血痕に含まれる細胞の劣化状態が異なっていたことだった。
新しいもの。
一日前のもの。
一週間前のもの。
八年前のもの。
同一人物の血液が、異なる時間から同じ場所へ集められたように見えた。
放送室前の廊下には、遼の靴跡が往復千回以上残っていた。
どの足跡も同じ場所から始まり、同じ場所で途切れている。
捜査員は計測を終えた後、報告書に一文を加えた。
『現場では、巻き戻しに似た機械音が断続的に聞こえる』
これらの記録は、外部へ公開されなかった。
捜査本部は集団的な幻覚、未知の音響装置、薬物の影響など、複数の可能性を検討した。
だが、いずれの現場からも薬物や特殊な装置は発見されていない。
唯一、すべての現場に共通していたものがある。
白地に淡い青の波紋を描いた、小さなアプリアイコン。
ただし、写真に撮るとアイコンは消えた。
端末を押収し、別の捜査員が確認すると、普通の健康管理アプリに見える場合もあった。
表示される名称も人によって違った。
ECHO。
Daily Sound。
My Record。
きょうの音。
共通するのは、起動した際の短い電子音だけだった。
ピッ!と……。
そして、利用者の名前を呼ぶ穏やかな案内文。
『あなたが忘れている音を、再生します』
捜査本部はアプリを削除するよう指示した。
その日の午前二時十四分。
署内に保管されていた五台の端末が、同時に起動した。
ピッ!と……。
画面には、同じ通知が表示されていた。
『削除をご希望ですか?』
『大切な記録が失われる可能性があります』
当直の警察官が『削除する』を押した。
画面が白くなり、淡い青の円が回る。
数秒後。
『削除が完了しました』
五台すべてからアイコンが消えた。
警察官たちは安堵した。
その直後、署内の内線電話が一斉に鳴った。
ピッ!と……。
受話器を取った者は、全員同じ声を聞いた。
『記録は、すでに共有されています』
取調べを担当した女性刑事は、その夜、帰宅すると娘の部屋の前で立ち止まった。
時刻は午後十一時を過ぎている。
扉の向こうから、押し殺した泣き声が聞こえた。
普段なら、勉強の邪魔をしないようにと通り過ぎていたかもしれない。娘も思春期なのだから、一人にしてほしいこともある。そう考え、自分を納得させていた。
だが昼間、録音機から聞こえた声が耳に残っている。
『お母さんには言わないで』
刑事は扉を叩いた。
コン。
部屋の中の泣き声が止まる。
「起きてる?」
「……何」
「少し話せる?」
「今、無理」
拒絶する声。
刑事はドアノブへ手を伸ばさなかった。
「わかった。ここにいるから」
「何それ」
「話したくなるまで、廊下にいる」
「気持ち悪いんだけど」
「そうね。自分でもそう思う」
扉の向こうで、娘が鼻をすする。
刑事は床へ座った。
十分。
二十分。
何も話さない。
廊下の時計が午前零時を告げる。
やがて、扉が数センチ開いた。
娘は目を赤くしていた。
「学校で、変な音声回されてる」
刑事は息を止めた。
「誰の?」
「友達の。私、止めたら次は自分だって言われた」
「怖かったね」
娘の顔が歪む。
「お母さんに言ったら、学校とか警察とか、大ごとにするでしょう」
「あなたが望まないことを、勝手にはしない」
「本当に?」
「でも、聞かなかったことにもしない」
娘はしばらく母親を見ていた。
それから扉をもう少し開けた。
「中、入る?」
刑事が立ち上がった瞬間、娘の机の上でスマートフォンが鳴った。
ピッ!と……。
二人が画面を見る。
白地に淡い青の波紋。
『今日の音声を保存しました』
娘が首を傾げる。
「何、このアプリ」
刑事には画面が見えていた。
ECHO。
取調室の録音機に表示されたものと同じ文字。
その下に、新しいメッセージがあった。
『今回は、返事がありました』
刑事は娘の肩を抱いた。
スマートフォンの画面から、少女の小さな息遣いが聞こえる。
すう……。
はあ……。
苦しそうな呼吸ではなかった。
誰かの返事を確認し、ようやく息を吐いたような音だった。
画面は数秒後に消えた。
アプリのアイコンも残らなかった。
ただし翌朝、娘のクラスで拡散されていた音声ファイルは、すべての端末から消えていた。
代わりに、送信しようとした生徒たちの画面へ一件の通知が届いたという。
ピッ!と……。
『聞こえている人がいます』
その日から、女性刑事は捜査記録の最後に同じ一文を書くようになった。
『音が確認できないことは、音が存在しないことを意味しない』
そして、事情聴取を始める前には必ず相手へ伝えた。
「あなたの声を聞きます。小さくても構いません」
その言葉を口にするたび、録音機の奥で短い電子音が鳴ることがあった。
ピッ!と……。
刑事以外には、ほとんど聞こえなかった。
その録音機は、半年後に故障した。
メーカーへ送られたが、内部に異常は見つからなかった。返却された機器の履歴には、存在しないファイルが一件だけ残っていた。
『0000_02_14.wav』
再生時間は十四秒。
女性刑事は再生しなかった。
代わりに、娘と一緒に小さな箱へ入れ、机の奥へしまった。捨てることも、壊すこともしなかった。消せば終わると考えた人間が、何を繰り返したのか知っていたからだ。
箱を閉じた夜、机の奥で音がした。
コン。
コン……。
刑事は引き出しを開けなかった。
「聞こえています」
暗い部屋へ向かって答えた。
ノックは止まった。
その代わり、箱の中から、少女が安堵するように息を吐く音が聞こえた。
そして、ごく小さな電子音。
ピッ!と……。
翌朝、録音機の液晶には一行だけ表示されていた。
『回答を記録しました』
電池を抜いても、その文字だけは消えなかった。
刑事は報告書へ書かず、ただ娘へ「おはよう」と声をかけた。娘は少し驚いてから、「おはよう」と返した。
その声は、届いた。
【第十章 聞かれた後】
公開された音声は、数時間で広がった。
八年前の校内放送。
凪の最後のメッセージ。
学校の調査報告。
教師と樫村家の関係を示す記録。
沙耶の告白。
警察は凪の死亡経緯を再調査すると発表した。
学校法人は、当時の説明に不十分な点があったことを認めた。
元担任は取材に対し、記憶にないと繰り返した。
樫村建設は、事実無根の情報が含まれる可能性があるとしてコメントを控えた。
玲奈の母親は記者会見を開いた。
『娘が行った行為が事実であれば、決して許されるものではございません』
最後まで、家の名を守るための言葉だった。
インターネットでは、凪に同情する声だけでなく、死んだ五人を面白がる書き込みも増えた。
『呪いのアプリ、本当にあるの?』
『十四秒音源を再現してみた』
『ECHOチャレンジ』
誰かが偽物のアプリを作り、配布した。
白地に淡い青の波紋。
日付、天気、歩数。
見た目だけは、本物とそっくりだった。
沙耶は、それらを見ないようにした。
だが、目を背けることと、黙ることは違う。
警察の事情聴取では、知っていることをすべて話した。
何度も同じ質問を受けた。
『あなたは、白井さんがいじめられていると知っていましたか』
「はい」
『助けを求める音声を聞きましたか』
「はい」
『なぜ、誰にも相談しなかったのですか』
「自分が標的になるのが怖かったからです」
答えるたびに、胸の中の傷が開く。
それでも、言葉を変えなかった。
冬馬は研究室を辞めた。
ECHOに関するすべての研究資料を第三者機関へ提出し、姉の音声モデルを削除した。
「本当に削除したの?」
沙耶が尋ねると、冬馬は小さく頷いた。
「今度は、削除する意味が違います」
「どう違うの」
「姉の声を隠すためではありません。姉の声を、私の所有物にしないためです」
冬馬は、復元前の短い音声だけを残した。
凪が家で歌っている声。
食事中に笑う声。
弟を叱る声。
いじめとは関係のない、白井凪が生きていた音。
「姉は、最後のメッセージだけの人ではありませんから」
冬馬はそう言った。
三か月後。
沙耶は電車で通勤していた。
喉の傷は治ったが、大きな声を出すと少し掠れる。
窓の外には、冬の薄い雲が広がっている。
向かいの座席に、高校生の男女が座っていた。
一人の女子生徒がスマートフォンを見せ、声を殺して笑っている。
「これ、やばくない?」
「何これ」
「同じクラスの子。告白してるところ、勝手に録られてんの」
隣の男子生徒がイヤホンを片方入れる。
「声、キモ。グループに送ろうぜ」
沙耶の指が動かなかった。
胸が苦しくなる。
知らない高校生。
自分には関係がない。
声をかければ、面倒な大人だと思われる。
逆に笑われるかもしれない。
八年前と同じ言い訳が、頭の中へ並ぶ。
女子生徒の指が共有ボタンへ触れる。
そのとき、短い電子音が鳴った。
ピッ!と……。
沙耶は顔を上げた。
女子生徒のスマートフォンに、白い通知が表示されている。
『ECHOから新しいお知らせがあります』
アイコンは、白地に淡い青の波紋。
女子生徒が首を傾げた。
「何これ。こんなアプリ入れたっけ」
隣の男子生徒が画面を覗く。
「何も出てなくね?」
「出てるよ。ほら」
「普通のホーム画面じゃん」
沙耶の耳に、冬の電車には存在しない蝉の声が聞こえた。
ザーッ、ザーッ……。
ECHOの画面が開く。
『こんにちは』
『あなたの一日を、音で振り返りましょう』
『新しい音声を作成しました』
ファイル名。
『教室 告白音声』
女子生徒の指が再生ボタンへ伸びる。
沙耶は立ち上がった。
「待って」
思ったより大きな声が出た。
車内の視線が集まる。
女子生徒が驚いて顔を上げた。
「え?」
「その音声、送らないで」
男子生徒が眉を寄せる。
「誰ですか。関係ないでしょう」
怖い。
身体が逃げろと言っている。
沙耶は吊り革を握った。
「関係ない人が黙っていたら、聞こえないことにされるから」
「意味わかんない」
「録られた子は、みんなに聞かれたいと思ってる?」
女子生徒の笑顔が消える。
「別に、冗談だし」
「本人が笑っていないなら、冗談じゃない」
男子生徒が立ち上がる。
「説教ですか」
沙耶の膝が震えた。
それでも目を逸らさない。
「そう思ってもいい。でも、送らないで」
電車が駅へ近づき、速度を落とす。
車輪がレールを擦る。
キイイイ……。
その音の中で、ECHOの通知音が鳴った。
ピッ!と……。
画面に十四秒の再生バーが現れる。
女子生徒は沙耶を見た後、スマートフォンへ視線を落とした。
共有画面を閉じる。
「……消せばいいんでしょ」
音声ファイルを削除した。
男子生徒が何か言いかけたが、女子生徒はイヤホンを外した。
ECHOの画面に文字が表示される。
『送信を中止しました』
沙耶は息を吐いた。
次の瞬間、表示が変わる。
『記録を保存しました』
「え?」
女子生徒が画面を見つめる。
『聞こえている人を確認しました』
利用者一覧に、新しい名前が追加される。
真壁沙耶。
沙耶のポケットで、自分のスマートフォンが鳴った。
ピッ!と……。
取り出す。
消えたはずのECHOが戻っていた。
白い画面。
淡い青の波紋。
今日の日付、気温、歩数。
『おかえりなさい、沙耶さん』
その下に、新しいメッセージ。
『今回は、間に合いました』
沙耶は画面を見つめた。
電車の扉が開く。
乗客が降り、別の人々が乗ってくる。
日常の音が流れ込む。
足音。
話し声。
発車メロディー。
女子生徒のスマートフォンから、もう一度だけ電子音が鳴った。
ピッ!と……。
画面には、普通の健康管理アプリのようなメッセージが表示されていた。
『今日も、周囲の音に耳を傾けましょう』
丸い案内キャラクターが笑顔で手を振っている。
沙耶の端末にも同じキャラクターが現れた。
だが、その口元だけがゆっくり開いた。
中には、人間の歯が並んでいた。
『次も、聞こえますか?』
沙耶はスマートフォンを握りしめた。
窓の外、線路沿いの住宅の一室で、誰かの端末が光った。
次の家。
その次の家。
白く小さな画面が、町の中で一つずつ点灯していく。
ピッ!と……。
遠くで一つ。
ピッ!と……。
また一つ。
音は電車の走行音に混ざり、どこまでも続いた。
沙耶は目を閉じなかった。
聞こえなくなるまで待つこともしなかった。
次の通知が鳴る前に、隣の車両へ歩き出した。
そこから、誰かの泣き声が聞こえたからだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回のテーマである「音」について考えたとき、悲鳴や足音、扉を叩く音だけでなく、「助けを求める声を聞いていたのに、誰も答えなかった時間」もまた、強い恐怖になるのではないかと思いました。
ECHOは、白井凪本人の霊だったのか。
AIが残された音声や記憶をつなぎ合わせた結果、生まれた何かだったのか。
それとも、事件に関わった人々の罪悪感が、同じ音を聞かせていただけなのか。
作中では、あえて答えを一つに決めていません。
ただ、誰かの苦しむ声を聞いたとき、「自分には関係がない」と黙ってしまうことも、一つの選択です。そして、その沈黙もまた、聞いていた相手の記憶には残り続けるのかもしれません。
この物語を読み終えたあと、スマートフォンから、
ピッ!と……。
通知音が鳴ったとき、ほんの少しだけ画面を開くのが怖くなっていただけたなら、作者としてうれしく思います。
ご感想や、特に印象に残った「音」がありましたら、教えていただけると励みになります。




