令嬢に向けられた悪意
マリエ・ルフォールは、学園の回廊に差し込む午後の光を、苛立たしげに睨みつけていた。
噂は、静かに、しかし確実に変質している。
かつては、レイナ・ヴァルディアの名が出れば、必ずと言っていいほど同情や揶揄が混じった。出来の悪い令嬢、地味でつまらない女。そうした言葉が、彼女の周囲には当たり前のように漂っていたはずだ。
それが今はどうだ。
「最近、レイナさん……雰囲気、変わったよね」
「落ち着いてるし、仕事も丁寧だし」
そんな声が、耳に入る。
マリエは爪を強く噛みしめた。
(ふざけないで)
自分が勝ったはずだった。婚約者も、立場も、周囲の視線も。すべて、手に入れたと思っていたのに。
それなのに――。
「……エドワード・リース?」
その名を聞いた瞬間、マリエの胸に冷たいものが走った。
研究棟で、図書室で、最近やけにレイナの近くにいる男。派手さはないが、教師陣からの評価は高い。何より、余計なことを言わない厄介なタイプ。
(あんな男に……)
苛立ちは、やがて歪んだ確信に変わっていく。
(レイナが悪い)
自分が奪われたのだと、マリエは思い込む。控えめな顔をして、裏では人のものを欲しがる女。昔から、そういう女だったはずだと。
だからこそ、動く理由は十分だった。
翌日の放課後。
人気の少ない資料室の前で、マリエは“偶然”を装って立っていた。
中から出てきたのは、目的の人物――エドワード・リース。
分厚い書類を抱え、少し困ったような顔で歩いてくる姿は、いつも通り不器用で、人の視線に慣れていない様子だった。
「エドワード様」
甘く、しかし控えめに。
計算された声色でマリエは呼び止める。
「……貴方はたしか……マリエさん、ですよね」
彼は一瞬だけ戸惑ったように目を瞬かせ、それから丁寧に頭を下げた。
「何かご用でしょうか」
「いえ、たいしたことではありませんの。ただ……最近、少し気になるお話を耳にしまして」
マリエは一歩距離を詰め、周囲を気にする素振りを見せる。
“内緒話”を共有する空気を、意図的に作り出した。
「レイナ・ヴァルディア様のことですわ」
その名を出した瞬間、エドワードの表情がわずかに硬くなる。
「……彼女が、何か?」
警戒。
だが、拒絶ではない。
(大丈夫。食いついている)
マリエは内心でそう判断し、言葉を慎重に選んだ。
「最近、随分と周囲と衝突しているようで……。あまり良くない噂も、ちらほら」
事実は語らない。
ただ、″噂″という形で不安の種を蒔く。
「……具体的には?」
エドワードの声は低く、冷静だった。
感情に流されるタイプではない――それはマリエも理解している。
「他人を見下すような態度を取っている、とか。
それに……ご自分に都合のいい相手だけを選んでいる、など」
それは、ほとんどがマリエ自身の姿勢だった。
だが言葉は、誰のものかを問わなければ、簡単にすり替わる。
エドワードはしばらく黙り込み、考えるように視線を落とした。
(効いている……)
そう思った、その時だった。
「……それは」
顔を上げた彼の瞳は、静かだった。
「マリエさんご自身が、そう感じた、ということですか?」
「え……?」
「私が知っているレイナさんは、そういう人ではありません」
はっきりと、しかし感情的にならずに言い切る。
「彼女は私と同じで少し不器用ですが、誠実です。
誰かを貶めて、自分を上げるようなことはしない」
マリエの胸が、ひくりと歪んだ。
「……随分と、彼女を信頼していらっしゃるのですね」
笑みは崩さない。
だが声は、わずかに硬くなる。
「はい」
即答だった。
「それに、噂というものは、誰が流したか分からない時点で、信用する価値は低い」
その言葉は、柔らかいが鋭かった。
――拒絶。
――そして、暗に突きつけられる不信。
「……そう、ですわよね」
マリエは一礼し、その場を去った。
背を向けた瞬間、顔から笑みが消える。
(……あの女のせいで)
――私が否定された。
――私が、選ばれなかった。
怒りは、次第に歪んだ決意へと変わっていく。
(噂が駄目なら……証拠を作ればいい)
マリエ・ルフォールは、そうしてさらに一歩、深い謀略へと踏み込んでいくのだった。




