近づく距離
レイナ・ヴァルディアは、図書室の奥、窓際の席で一人静かに本を読んでいた。
陽の光が柔らかく差し込み、紙の匂いと古い木の香りが混じり合うこの場所は、以前から彼女のお気に入りだった。けれど最近は、ここに来るたび、ほんのわずかな緊張を覚えるようになっている。
理由は、分かりきっていた。
数席離れた場所に座る、彼の存在だ。
――エドワード・リース。
名門でもなく、派手な噂もない。けれど学園の研究棟では、その名を知らない者はいないほどの実務能力を持つ生徒。無口で人付き合いが苦手、必要なことしか話さない変わり者……それが、レイナが耳にしていた彼の評判だった。
実際、こうして同じ空間にいても、エドワードはほとんどこちらを見ない。
本を読む姿勢は少し前のめりで、時折眉をひそめ、何かに気づくと慌てたように書き留める。その一つひとつの仕草が不器用で、けれどひどく真剣だった。
(……変な人)
そう思いながらも、レイナは不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
むしろ、落ち着く。
誰かに値踏みされるような視線も、同情や好奇の囁きも、ここにはない。ただ、互いに互いを邪魔しない距離が、静かに保たれている。
ページをめくる音が重なった、その時だった。
「……あの」
控えめな声に、レイナはびくりと肩を揺らした。
顔を上げると、エドワードが立ったままこちらを見ている。いや、正確には――視線は彼女の少し横を彷徨っていて、まともに目が合っていない。
「……はい」
レイナが応じると、エドワードは一瞬だけ息を吸い、覚悟を決めたように口を開いた。
「その本……第三章の理論式、注釈が間違っている版です」
思いもよらぬ指摘に、レイナは目を瞬かせた。
「え……?」
「新版だと、ここ……符号が逆で。計算、合わなくなるので……」
彼は言いながら、遠慮がちに自分の本を差し出した。指先が少し震えているのが分かる。
レイナはしばらくそのページを見つめ、それから小さく息を吐いた。
「……本当ですね。気づきませんでした」
そう答えると、エドワードの肩から目に見えて力が抜けた。
「よかった……余計なことだったらどうしようかと……」
その反応があまりにも素直で、レイナは思わず微笑んでしまう。
「教えてくださって、ありがとうございます。助かりました」
彼女がそう言うと、エドワードは一瞬固まり、それから耳まで赤くなった。
「い、いえ……こちらこそ……」
会話はそこで途切れた。
けれど、沈黙は先ほどよりも柔らかかった。
それから数日、二人は図書室で顔を合わせるたび、少しずつ言葉を交わすようになった。
本の内容について。研究課題について。時には、天気の話や、学園の食堂の混雑について。
どれも他愛のない話だ。
それでもレイナは気づいていた。
エドワードは、彼女の噂に触れない。
婚約破棄のことも、マリエのことも、周囲が囁く評価の変化についても、一切口にしない。ただ、今の彼女だけを見て、必要な言葉だけを選んで話してくれる。
(……こんなふうに接してもらえるの、久しぶり)
以前のレイナは、常に相手の顔色を窺い、自分を小さく畳んでいた。けれど今は違う。
自分の意見を言い、考えを述べても、否定されない場所がある。
それがどれほど救いになるかを、彼女はようやく知った。
ある日の帰り道。
「……あの」
並んで歩く途中、エドワードがまたしても言いにくそうに声をかけてきた。
「よければ……次の研究発表、一緒に組みませんか」
レイナは足を止めた。
「私で……いいんですか?」
そう尋ねると、エドワードは今度こそ彼女を見た。
真っ直ぐで、少し不安げで、それでも確かな眼差し。
「はい。レイナさんの考え方……好きなので」
胸の奥が、静かに温かくなる。
「……お願いします」
そう答えた瞬間、エドワードはほっとしたように、ほんの少しだけ笑った。
その笑顔を見ながら、レイナは思った。
これはまだ、恋ではないかもしれない。
けれど――確かに、新しい一歩だ。
過去に縛られない、自分自身のための一歩。
その隣に、彼がいることを。
レイナは、不思議と自然に受け入れていた。




