静かな人
婚約が解消されてから、数週間が過ぎていた。
学園の空気は、以前よりも落ち着いている。
あれほど囁かれていた噂も、今では別の話題に上書きされ、私の周囲から少しずつ消えていった。
それでも、完全に元通りというわけではない。
私は以前よりも、よく見られるようになっていた。
同情ではなく、評価の視線で。
「……これで、よし」
図書館の一角。
私は提出用の資料をまとめ、そっと息を吐いた。
家の事情で社交に出る機会は減ったが、その分、学園での課題や研究補助に集中できる時間が増えている。
不思議と、心は静かだった。
「集中してると、周りが見えなくなるんですね」
不意に、背後から声がした。
驚いて振り返ると、そこに立っていたのは見慣れない男子生徒だった。
派手さのない制服、きちんと整えられているが少し遠慮がちな立ち姿。
年は同じくらい。
けれど、目が合った瞬間、彼はわずかに肩をすくめた。
「あ、すみません。驚かせるつもりは……」
言葉を選びながら話す様子に、思わずこちらも姿勢を正す。
「いえ。こちらこそ、気づかなくて」
そう答えると、彼は少し安心したように息を吐いた。
「……資料、完成したみたいですね。とても丁寧でした」
それは、社交辞令には聞こえなかった。
淡々とした声音なのに、きちんと中身を見た上での言葉だと分かる。
「ありがとうございます。補助資料が多くて……」
「いえ。要点が整理されていて、読みやすいです」
そこで一瞬、彼は言葉を止めた。
何か言おうとして、躊躇っているようにも見える。
「……あの」
少しだけ、声が低くなる。
「もしよければ、この部分。計算式、別の書き方もあるかもしれません」
差し出されたのは、私の資料の一頁だった。
書き込みはなく、指先でそっと示されるだけ。
思わず、目を見開く。
「……確かに。その方法なら、簡潔になりますね」
「はい。無理に変えなくても大丈夫ですが……」
彼は急いで付け足した。
まるで、押し付けにならないかを気にしているように。
その慎重さが、不思議と心地よかった。
「いえ、とても助かります」
そう言うと、彼は少しだけ照れたように視線を逸らした。
「エドワード・リースといいます。準男爵家の次男です」
「レイナ・ヴァルディアです」
名乗ると、彼は一瞬だけ目を伏せ、それから丁寧に会釈をした。
「……存じています」
噂、だろうか。
一瞬だけ、胸がざわつく。
けれど、彼は続けた。
「提出物の精度で。よく名前を見かけていました」
それは、私自身を見てくれた言葉だった。
気づけば、自然と会話が続いていた。
無理に距離を詰めることもなく、互いに必要なことだけを話す。
沈黙があっても、気まずくならない。
「……失礼ですが」
エドワードが、少しだけ迷いながら口を開く。
「今の研究補助、負担になっていませんか」
「いいえ。むしろ、集中できて助かっています」
「そうですか」
それだけで、彼はそれ以上踏み込まなかった。
過去のことも、噂のことも、何一つ尋ねない。
ただ、今の私を見ている。
それが、どれほど救いだったか。
別れ際、彼は少しだけ言い淀み、それから真剣な表情で言った。
「……また、資料を見せていただいてもいいですか」
「はい。ぜひ」
そう答えると、彼は小さく、しかし確かに微笑んだ。
その背中を見送りながら、私は気づく。
胸の奥に、静かな温度が灯っていることに。
――この出会いが、私の未来を変えることになるとは。
その時の私は、まだ知らなかった。




