殺風景な廊下で
夕刻の西棟は、ひどく静かだった。
講義を終えた学生たちはすでに帰路につき、長い廊下には夕陽だけが差し込んでいる。石造りの壁が赤く染まり、足音がやけに大きく響いた。
「相談、ですか」
エドワードは歩調を合わせながら、穏やかに言った。
「ええ」
レイナは窓の外に目を向けたまま、続ける。
「研究発表は……不許可になりました」
わずかな沈黙。
驚きは、声に出なかった。
「理由は」
「時期尚早、とのことです」
エドワードは小さく息を吐く。
「……なるほど」
否定も憤りも、まずは飲み込む。その姿勢が、レイナにはありがたかった。
「それだけではありません」
足を止める。
「転籍の話が出ています。エリザール学園へ」
初めて、エドワードの表情がわずかに変わった。
「エリザール、ですか」
「理事長からの推薦だそうです」
それほど深い関わりはないはずの人物。
なぜ自分なのか、未だに分からない。
廊下に、長い沈黙が落ちる。
「……良い話ですね」
やがて、エドワードはそう言った。
「魔導理論の蓄積も、実践研究の環境も、あちらの方が整っている。あなたの研究にとっては、確実に前進になる」
理性的で、迷いのない言葉。
「そうですよね」
レイナは小さく笑う。
「経緯は気になりますが、滅多にない話ではあります、でも……」
言葉が続かない。
「……でも?」
優しく促される。
胸の奥が、きゅっと締まる。
――離れたくない。
そう言えば、彼は困るだろう。
自分のために、彼の未来を縛ることになる。
「いえ、なんでもありません」
レイナは首を振る。
その瞬間だった。
「レイナさん」
エドワードが優しい顔つきで言葉を紡ぐ。
「あなたは、いつもご自身を後回しにします」
いつもと同じ穏やかな声。
「誰かのために動くことを、迷わない。
誤解されても弁解せず、責任を引き受ける」
淡々と、事実を並べるように。
「研究も同じです。
評価よりも成果よりも、“救える可能性”を優先する」
レイナは瞬きを忘れる。
「その姿勢を、私は尊敬しています」
胸の奥が、じんわりと熱を持つ。
「そして誰よりも優しい」
わずかな間。
息を整える音すら聞こえないほどの静寂。
「そんなレイナさんを、愛しています」
時間が、止まった。
「……え?」
思わず漏れた声に、エドワードはほんの少し困ったように微笑む。
「愛しています、レイナさん」
そしてもう一度はっきりとした口調で言い直す。
その言葉を前にレイナの目が潤む。
胸がいっぱいになるのに、不思議と重くはない。
陳腐とさえ思っていたこの言葉がこんなにも幸せな気持ちにさせてくれるものだったのだと初めて気づく。
「……こんな殺風景な廊下で『愛している』はないでしょう」
涙をこらえながら、笑う。
「そうですね」
エドワードも、珍しく肩をすくめる。
「ごめんなさい。でも言っちゃいました」
引き止める言葉は、どこにもない。
ただ、肯定だけがある。
「返事は……」
声が少し震える。
「今すぐでなくとも、いいですか?」
「もちろんです」
即答だった。
「お互い、それぞれの場所で成長して」
静かな視線。
「また再会する日に。
そのとき、返事をいただければ」
それは約束であり、未来への布石だった。
別れではない。
前へ進むための選択。
レイナはゆっくりと頷く。
「……約束ですよ」
「はい」
二人は再び歩き出す。
何も変わらないはずの廊下が、少しだけ違って見えた。
殺風景な場所で交わされた言葉は、
けれど確かに、これからの道を照らしていた。




