静かに動き出すもの
マリエの容体が安定したとの知らせが届いてから、学園は奇妙な静けさに包まれていた。
表向きは、何も変わらない。
講義は続き、鐘は鳴り、学生たちは試験の話題に一喜一憂している。
だが、見えないところで何かが整理され、何かが動き始めている――そんな気配があった。
ある日の午後。
レイナは学園長室に呼び出された。
重厚な扉の前で一度深呼吸をし、ノックをする。
「入りなさい」
扉の向こうにいたのは学園長と、そして理事長――リーズベルト・フリオだった。
普段は式典以外で姿を見ることは少ない人物だ。
柔和な笑みを浮かべるその姿に、レイナはわずかな違和感を覚える。
「本日は、研究発表の件についてです」
学園長が淡々と告げた。
エドワードと進めてきた魔導研究。
母胎安定の応用理論を含む、新たな魔導式の可能性。
「慎重な審議の結果――今回は承認を見送ることになりました」
静かな宣告だった。
レイナは一瞬、言葉を失う。
「……理由を、伺ってもよろしいでしょうか」
「時期尚早です」
即答だった。
「理論は興味深い。しかし学園として公にするには、まだ不確定要素が多い」
曖昧な表現。
反論の余地を与えない、閉じた言い方。
エドワードの顔が脳裏をよぎる。
あれほど検証を重ねた。危険性も洗い出した。
それでも“不許可”。
「ですが」
理事長が、そこで穏やかに口を開いた。
「あなたの才覚そのものを否定するものではありません、レイナさん」
その声音は柔らかい。
「むしろ、だからこそ――別の環境で研鑽を積むという道もある」
学園長が小さく頷く。
「転籍の提案が出ています」
レイナの鼓動が、ひとつ強く打つ。
「エリザール学園」
その名は、当然知っている。
魔導理論においては国内屈指。
実践研究にも積極的な、もう一つの名門。
「推薦人は、理事長です」
学園長の言葉に、レイナは視線を理事長へ向ける。
リーズベルト・フリオは、変わらぬ笑みを浮かべていた。
「あなたの研究姿勢に感銘を受けましてね」
穏やかな口調。
「環境が変われば、さらに花開くでしょう」
それほど接点はなかったはずだ。式典で挨拶を交わした程度。
なぜ自分が。
なぜ今。
疑問は尽きない。
「少し考える時間を、いただけますか」
「もちろんです」
即座に理事長は答えた。
まるで、断られる可能性を微塵も考えていないかのように。
部屋を出た瞬間、張り詰めていた息が漏れる。
廊下の窓から見える中庭は、いつも通りの景色だ。だがレイナには、それが少し遠く感じられた。
その日の夕刻。
別の場所で、別の会話が交わされていた。
「……そうですか」
低く落ち着いた声。
レヴァンティン・フェルク伯爵は、報告書から視線を上げた。
「研究は不許可。転籍の話は動いた、と」
執事が静かに頷く。
「はい。理事長殿は快く推薦を引き受けられました」
伯爵は、わずかに目を細めた。
「興味深い娘だ」
それだけを、静かに呟く。
「直接関わる必要はない。今はまだ」
指先で机を軽く叩く。
「だが、視野の広い場所に置いておく方がよい」
何を思っているのか、その表情からは読み取れない。
一方、学園の回廊。
レイナはエドワードの姿を見つける。
胸の内には、まだ整理のつかない思いが渦巻いている。
「エドワードさん……少し、相談があります」
彼が振り向く。
「どうしましたか?」
その問いに、レイナは小さく息を吸った。
――ここから、何かが変わる。
廊下には、静かな夕陽が差し込んでいた。




