奇跡の名を持たない夜
目を覚ますと、天井が見えた。
白い――というほど清潔ではない。
長い年月を経た石造りの天井は、ところどころに細かなひびが入り、そこから射し込む光が、柔らかく輪郭を溶かしている。
窓の外から、遠くで鳥の声が聞こえた。
それだけで、時間が確かに流れていることが分かる。
「……気がつきましたか」
すぐそばで、低く抑えた声がした。
視線を向けると、椅子に腰掛けたエドワードがこちらを見ている。
背筋は伸びているが、指先は組まれ、わずかに力が入っていた。
いつもより、少しだけ表情が硬い。
「……私……」
身体を起こそうとして、思った以上の倦怠感に気づく。
意識ははっきりしているのに、身体だけが、まだ現実に追いついていない。
「無理をしないでください」
エドワードはすぐにそう言って、身を乗り出した。
「数時間、眠っていました。倒れたあと……すぐに。手当てはされていますが」
その言葉で、記憶がゆっくりと繋がっていく。
張り詰めた空気。
荒い呼吸。
必死に掴もうとした、あの感覚。
そして――扉が開いた音。
「……マリエは……?」
声が、思ったよりもかすれていた。
エドワードは、一度だけ、はっきりと頷く。
「容体は、完全に安定しました」
その一言で、胸の奥に張りつめていたものが、音もなくほどける。
「レイナさんが倒れたほぼ同時刻にレヴァンティン・フェルク公爵が到着されました。公爵の“介抱”によって、母胎の状態も、胎児の状態も、完全に危機を脱しています」
迷いのない口調だった。
事実を、事実として告げる声音。
(レヴァンティン・フェルク公爵……アルヴィンの叔父様……)
奇跡。
それは、きっとこういう事を言うのだろう。
「……そう、ですか」
胸を撫で下ろす感覚と同時に、別の感情が静かに浮かび上がる。
私は、ぽつりと呟いた。
「本当に……奇跡を起こせる方が、いるのですね」
視線を天井に向けたまま、続ける。
「……私が出しゃばる必要も、なかったですね」
自嘲でも、後悔でもない。
ただ、事実を受け止めた言葉だった。
少しの沈黙。
「……でも」
息を吸い、胸の奥を整理する。
「私″が″助けたかったわけじゃないんです」
思い出すのは、寝台の上で苦しげに呼吸をしていた、あの姿。
「彼女″を″……助けたかった」
その言葉を口にした時、自然と表情が緩んでいることに気づいた。
エドワードは、しばらく黙っていた。
視線を落とし、言葉を選ぶように。
やがて、静かに口を開く。
「正直に言えば……そうなります」
研究者としての、冷静な声音。
「公爵の力で、マリエさんと子供は助かりました。
研究中の魔導では、状況を悪化させた可能性すらあります」
厳しい言葉だ。
だが、そこに責める響きはなかった。
「……ですが」
彼は、はっきりと続ける。
「その人物を動かしたのは、誰だったのか」
私は、ゆっくりと瞬きをした。
「それは、完成された魔導ですら成し得ない所業です」
真っ直ぐに向けられた視線。
「あなたが倒れる程の覚悟を見せなければ、公爵が……いえ、誰も動くことはなかった」
言い切る。
「それは、紛れもない事実です」
その後、エドワードは静かに立ち上がった。
「……マリエさんは、まだ眠っています」
私は、支えられながら隣の部屋へ向かった。
寝台の上で、マリエは穏やかな寝息を立てている。
張りつめていた表情は消え、顔色も、はっきりと良くなっていた。
苦しげだった呼吸は、今は静かだ。
私は、そっと近づく。
指先で、ほんの少しだけ髪に触れる。
「……本当に、頑張りましたね」
返事はない。
それでいい。
言葉は、必要なかった。
部屋を出ると、外の空気が、ひどく澄んで感じられた。
帰路につく道すがら、エドワードがぽつりと言う。
「……あなたを、尊敬します」
あまりにも率直で、飾り気のない言葉。
「力の有無ではありません。
結果でもありません」
歩みを止めずに、彼は続ける。
「誰かのために、あそこまで自分を賭けられることを」
私は、少しだけ驚いて、それから静かに微笑んだ。
「……研究者としては、失格ですね」
「いいえ」
間髪入れずに返ってくる。
「人を救う研究をする者として、これ以上ない姿だと思います、勿論貴族としても……人としても」
夕暮れに染まる道を、並んで歩く。
魔導は、まだ未完成だ。
理論も、技術も、何もかもが足りない。
それでも――。
助けたい人を救う事が出来た。
それが全て……それ以上何も望むことは無い。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
奇跡と呼ばれる出来事の裏で、
それでも人は、迷い、手を伸ばし、傷つきます。
それが無意味だったのかどうかは、
きっと物語の中で、少しずつ明らかになっていくはずです。
次話から、物語はまた静かに動き出します。




