アルヴィン・フェルク
その名を聞いただけで、今でも胸の奥は冷える。
アルヴィン・フェルク。
かつて私の婚約者だった男。
学園の廊下に立つ彼は、以前と変わらない装いをしていた。
背筋は伸び、身なりも整っている。けれど、その表情には、どこか落ち着きのなさが滲んでいる。
「久しぶりだな、レイナ」
親しげな口調。
まるで、何事もなかったかのような声音。
「……何の用ですか」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
アルヴィンは一瞬だけ眉を上げ、それから困ったように笑った。
「いや、少し話がしたくてね。ほら……いろいろ、状況が変わっただろう?」
状況。
その言葉が、胸に刺さる。
彼は続ける。
「マリエの件も、結果的には白紙だ。婚約も、家同士の話も……全部、な」
だから、と。
その先を言わずとも、意味は伝わってきた。
復縁。
それを、選択肢の一つとして差し出しているつもりなのだ。
表情を変えない私にアルヴィンは、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。そして、追い打ちとばかりにこう続けた。
「……そうだ。君には、一応伝えておいた方がいいと思ってね」
その口調は、配慮というよりも、報告だった。
「マリエの件だ。子ども――あまり、状態が良くないらしい」
胸の奥が、わずかに冷える。
「医師の話では、このまま順調にいく保証はないそうだ。
……産めない可能性も、否定できないってさ」
言葉の選び方は慎重なのに、感情が伴っていない。
事実を並べているだけの声だった。
「正直に言うよ」
アルヴィンは声を落とし、周囲を気にする素振りを見せた。
「僕は……ほっとしている」
胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
「生まれてくる子に罪はない。それは分かっている。でもね」
彼は、ため息混じりに言う。
「誰からも望まれず、幸せにならない未来が見えている子供を、無理にこの世に引き留めるのが正しいとは思えなくてさ」
あまりにも軽い口調だった。
命を語るには、あまりにも無責任で、他人事で。
まるで、それが自然な判断だとでも言うように。
「……残念だけど」
その一言が、決定的だった。
気づけば、私は立ち止まっていた。
胸の内に湧き上がる感情は、怒りだけではない。
失望でもない。
ただ、深く、冷たい確信。
――この人は、何も変わっていない。
「アルヴィン様」
私は、彼の名を静かに呼んだ。
その声に、彼は少しだけ安心したように表情を緩める。
「今の話、本気で言っているのですか」
「本気も何も……現実的な話だろう?」
その瞬間。
私の中で、何かがはっきりと切り替わった。
「あなたは」
一歩、踏み出す。
「自分が捨てた責任が、都合よく消えてくれることを、喜んでいるだけです」
アルヴィンの表情が、わずかに強張る。
「……言い方がきついな」
「いいえ。足りないくらいです」
声は震えていない。
以前のおどおどした私ではない。
「生まれてくる子に罪はない、と言いながら、その命の重さから目を逸らしている。望まれないから不幸だと、勝手に決めつけている」
彼は、何か言い返そうとして口を開いたが、言葉が続かなかった。
「それは、あなた自身の弱さです」
はっきりと告げる。
「私は――そんな考え方をする人と、二度と人生を共にするつもりはありません」
沈黙が落ちた。
アルヴィンは、しばらく私を見つめていたが、やがて視線を逸らした。
「……変わったな、レイナ」
「ええ」
私は頷く。
「あなたのおかげで」
それ以上、話すことはなかった。
私は彼に背を向け、廊下を歩き出す。
足取りは、驚くほど迷いがなかった。
向かう先は、決まっている。
マリエ・ルフォールが療養している屋敷。
彼女は、私を憎み、陥れ、そして――すべてを失った。
それでも。
今、命の瀬戸際にあるのは、彼女の中にいる小さな存在だ。
私は、深く息を吸った。
これは、研究の成果を示すためではない。
評価のためでも、証明のためでもない。
ただ、人として。
助けを求める声に、背を向けないために。




