とある集落にて
二度目の野外検証から学園へ戻る帰路、せっかくここまで来たのだからと、エドワードの提案で休息をかねて近くの村へ立ち寄った。
街道から少し外れた先にあるその集落は、地図には名が載っていても、実際に訪れる者は少ない。
土の感触が靴底に戻ってくるだけで、不思議と肩の力が抜ける。舗装などされていない、踏み固められただけの道。両脇には背の低い石垣と畑が続き、乾いた土と青い葉の匂いが混じり合っている。
畑では数人の村人が鍬を振るっていた。規則正しい金属音が、風に乗ってゆっくりと届く。こちらに気づいた老人が手を止め、軽く会釈をしてきた。
家々は古く、だが手入れが行き届いている。屋根瓦には補修の跡が残り、壁には幾度も塗り直された痕がある。派手さはないが、暮らしを守る意思が積み重なった形だった。
広場に近づくにつれ、空気がわずかに賑やかになる。井戸の周りでは子どもたちが遊び、洗濯物を干す女たちの声が交差する。笑い声と水音、布がはためく乾いた音。どれも特別なものではないが、欠ければすぐに気づく種類の音だ。
その中心で、小さな出来事が起きていた。
泣き声だった。
幼い子どもの、息が詰まるような泣き方。母親らしき女性が慌てた様子で抱き上げている。
「どうかされましたか?」
エドワードが周囲を見回しながら、言葉を探す。
「……子供が、熱を下げなくて」
聞くと村に薬も、医者もないわけではない。
今も診てもらった帰り道との事だった。
「重い病じゃないって言われたんです。でも……」
微熱が続き、体調はすぐれないという。
その言葉の端々に、不安が滲んでいた。
「それは……心配、ですよね」
「はい……あまり薬も効かなくて、安静にしてしっかり栄養を取らせるしかないと……」
その声は少し震えていた。
私とエドワードは、視線を交わす。
おそらく同じ事が頭をよぎった。
(もし、魔導でこの子の回復力を促進できたら……)
でも、現時点で不確かなものを使うべきかどうか。
研究の範囲を越える行為ではないか。
色々な感情がせめぎ合う中、最後に出た結論は「助けたい」だった。
「……大変な時だと思いますが、何かお手伝い出来ないでしょうか、様子を見るだけでも」
私がそう言うと、エドワードも一度だけ頷いた。
案内された家は、簡素だった。
寝台の上に寝かされた子供は浅い呼吸を繰り返している。
顔色は悪いが、命の危険が迫っているわけではない。
それが、かえって判断を難しくしていた。
「すぐ治る、と言われ続けて……」
母親の声は、かすれていた。
私はそっと子供の傍に座り、ほのかに熱くなっている額にそっと触れる。
そして、ただその状態を感じ取ろうとする。
(集中しろ……この子の持っている回復力を最大限発揮出来るように、寄り添うように……)
焦ってはいけない。
草木に力を与えた時の、あの感覚を思い出せ……
――その瞬間。
身体の内側で、微かに何かが揺れた。
言葉は発しない。ただ、痛み、苦しみが抜けていく「方向」を、こちらがはっきりと思い描く。
時間を早めるのではなく、過程を滑らかにする感覚。
強制ではない。
命令でもない。
呼吸に合わせ、こちらが整うと、向こうも整い始める。
数瞬の沈黙のあと、子どもの泣き声が、少しずつ弱まった。
完全に止んだわけではない。
それでも、母親が「あれ?」と小さく声を漏らす程度には、変化があった。
やがて、子供の呼吸は、わずかに深さを取り戻した。
それだけだった。
「なんで……こんなの奇跡だわ、貴方は一体……いえ、ありがとう、ありがとうございます……」
母親は涙声を震わせながら深く頭を下げる。
「そんな、顔を上げてください。それに奇跡じゃありません。お母様の看病の甲斐あっての事です。私たちはたまたまこの場に居合わせただけですから」
理由は口にしない。
それでいいのだと思った。
この子と母親の苦痛を少しでも柔らげる事が出来たなら、それが全て、それで十分だ。
私は一歩下がり、再び風景の一部に戻った。
帰り道、エドワードが小さく息を吐いた。
「研究、という言葉を使うのが、少し怖くなりました」
「……ええ」
私も同じだった。
集中による物質の促進――魔導を仮にそう言い換えるなら、どれだけの人の役にたつことが出来るだろうか。反面、その力を間違えた方向に使ってしまう人が出てきたら……
これは成果ではない。
発表でもない。
けれど――。
人に向き合う覚悟だけは、確かに深まっていた。




