死のからくり牢
塔の部屋に足を踏み入れた瞬間、レビリアの胸はざわめいた。
そこに広がっていたのは、何の気配もない、静まり返った空間。
「……どうして……リオの声が確かに聞こえたのに」
視線を巡らせる。
散らかった形跡も、戦った跡もない。
まるで誰も存在したことがないかのような空虚。
だが、空気に残る微かな違和感――冷たい風が揺らした蝋燭の火が、その“幻”を告げていた。
「幻聴……? いいえ、これは……罠……」
胸騒ぎが膨れ上がる。
脳裏に浮かぶのは、城に残してきたセピア様の顔。
「――セピア様!」
レビリアは踵を返し、全力で駆け出した。
裾を翻し、城内を走り抜ける。
だが、戻った場所に、彼の姿はなかった。
「どこ……? どこにいるの、セピア様!」
叫んでも返事はない。
ただ、ひとつ。床に落ちていた小さな布切れ――それは、セピアの袖の布地だった。
「……やられた」
怒りと恐怖で、全身が震える。
視線の先、廊下の石畳に微かに続く擦れ跡。
まるで、何かを引きずったような跡だ。
レビリアはその跡を辿り、暗く沈んだ廊下を進む。
やがて辿り着いたのは、王宮の奥深く――普段は誰も足を踏み入れぬ、地下への階段。
冷気が、血のように重たく淀んでいた。
「……ここに、閉じ込めたのね」
階段を降りるたび、靴音が冷たく反響する。
やがて現れたのは、鉄格子の門。
その向こうに広がるのは――王妃が密かに作り上げた秘密の牢獄だった。
壁には複雑な歯車と鎖が組み込まれ、石造りの床には奇妙な紋様。
それはただの牢ではない。
からくり仕掛けで、間違えば中にいる者ごと押し潰す、残酷な罠の檻。
レビリアは歯を食いしばった。
「セピア様……どうか、無事でいて」
握りしめた拳に、爪が食い込む。
心臓の奥に広がるのは、ただひとつ――彼を取り戻す決意。
闇の底に、かすかに響いた。
「……レビ、リ……ア…たん…」
微かな声。
翡翠の瞳を持つ青年の、かすれた呼び声だった。
「――っ! セピア様!」
レビリアの瞳に炎が宿る。
彼女は迷わず鉄格子へと踏み込み、王妃が仕掛けた死のからくりに挑もうとした。
「セピア様! しっかりして! 私はここにいますわ!」
石壁に反響する声に、かすれた返事が漏れる。
「レ……ビ…リ……ア……たん?」
薄い声でも、あの翡翠の音が戻ってきたことで、レビリアの胸は一瞬で張り裂けそうになる。
「セピア様! 気づきましたか? しっかり!」
鉄格子越しに伸ばされた細い手に、レビリアは自分の両手を重ねて絡め、ぎゅっと握った。指の先から伝わる微かな温度が、冷たい空気の中で確かな鼓動となって伝わる。
「助けに来てくれたの…?」
セピアの瞳が、ぼんやりと覗き込む。表情はまだ弱々しいが、確かにそこに安心が広がった。
「もちろんですわ。貴方が目の前からいなくなって、私は――怖かった。貴方を失った気がして、どうしようもなくて」
レビリアの声は震え、でも真っ直ぐだった。格子を握る手に力を込めると、続けた。
「必ず、貴方を守りますわ。」
その言葉に、セピアはかすかに微笑んだ。唇が乾いている。血の匂いでも、鉄の冷たさでもなく、――彼女の声が、彼を生かしているのだと、レビリアは思った。
――時間がない。
牢の中は、古びた油と湿気の匂いが混ざり合い、壁のあちこちに複雑な歯車と滑車、金属の軸が組み込まれている。床には規則的な溝と小さな凹み。からくりは単なる錠前ではなく、間違えば扉ごと落ちるか、内部の床が傾いて、閉じ込めた者ごと奈落に落とす類の致命的な機構だ。
レビリアはすぐに思い出す。ゲームで見たマップ、メモに書き残した図式、そしてポアロが昔教えてくれた王宮の古い設計図の断片。彼女は転生者として蓄えた“知識”を頭の中で手繰り寄せる。
「ここは……床のウェイトセンサーと連動してる。歯車が三つ、同じ角度に揃ったらロックが外れるはず」
自分のノートを取り出せる状況ではなかったが、手の感覚と記憶が確かに働く。床の凹みに小石を置いて重さを変えられないかと目を走らせる。だが、凹みは密閉近くで小石では反応しない。代わりに、壁面の小さな突起――王家の紋章に似た三つの刻印が目に入った。
「王家の紋……三兄弟の位置じゃないかしら。ガゼル、エルヴィン、そしてセピアの。角度を合わせて――」
レビリアは格子の隙間から腕を伸ばし、粘り強く小さな工具の代わりになりそうな金具を探す。幸い、床に落ちていた古い鍵の一片を見つけ、力任せに歯車の一つに差し込んだ。
「セピア様、もし力が入るなら、私の手を握って、右へ回して――」
「うん……やる」
セピアは弱々しくも手を握り返し、わずかな力を振り絞る。二人の手が軸を回す。滑車がギギギと悲鳴を上げ、周囲の小さな歯車が連鎖していく。だが一つだけ噛み合わず、軋む音が止まらない。
「くっ、あと二つ……」
レビリアは格子の縁を蹴り、身を低くして、もう一方の刻印へと素早く手を伸ばす。指先が冷たい金属に触れ、器具を当てる。汗が額を伝う。時間の感覚が極度に鋭くなる。外では誰かが笑うような足音を立てて去った記憶があったが、今はその声が遠く、時計の針のように二人だけを追いつめる。
「セピア様、左の刻印は“逆向き”に回して。強く、でも急ぎ過ぎないで」
「わかった……」
セピアはもうろうとしながらも言う通りに動く。二人の手が噛み合い、金属が一瞬滑って……カチ、と小さな音が鳴った。歯車の一つが正しい位置に入った合図だ。
だが次の瞬間、床の一部がかすかに沈む感覚が走る。落ちるのか――レビリアの心臓は真っ逆さまに冷えた。彼女は焦りの中で周囲を探る。壁沿いの小さなレバー、古い油汚れに塗れた棒。――それが最後の解除装置のようだ。
「ここを、押して。力を──」
レビリアは自分の体重をかけ、レバーを押し下げた。音が重く、ゆっくりと石の床の一部が戻るように動き、歯車が逆回転を始める。閉ざされていた通気口がジャリと開き、ひんやりとした空気が流れ込む。金属の匂いが薄れ、湿った石の匂いが混じる。
「開いた……?」
セピアの瞳に、ようやく光が戻る。まだ意識は遠く揺れているが、閉ざされた牢の一部が僅かに動いたことで、生命の危機は幾分和らいだ。
「セピア様、あと少しです。力を入れて!」
レビリアは格子に手をかけ、全身を使って最後の軸を回した。セピアもかすかな力を振り絞り、二人の息が合わさる。――キー、という金属音が響き、最後の施錠が外れた。
鉄格子がガラリと開いた時、レビリアは息を切らせ、濡れた髪を額に貼り付けながら、ほっと小さく笑う。セピアはぐったりとしつつも、少しだけ口元を緩めた。
「よかった……目を開けて、お願い」
レビリアは格子を押し開き、すぐに彼の身体を抱き上げようとする。だが、セピアはふらりと膝をつき、かすかに震えた声を漏らした。
「レビリアたん……ごめん……心配かけた」
「バカなことを、言わないで。今はとにかく外へ出ましょう。ここは安全じゃない」
レビリアは彼を抱き起こし、その肩を支えながら牢の出口へ向かった。外は薄闇が広がり、遠くで歯車の音が鳴り続ける。誰かがまだこの地下を動かしているのかもしれない。
二人はゆっくりと、しかし確実に階段を登っていく。セピアの腕がレビリアの首に回り、彼女の匂いに顔を埋める。弱々しい声で囁く。
「レビリアたん……ありがとう。君がいてくれて、よかった」
レビリアはその言葉に、胸の底がぎゅっと締めつけられるのを感じた。彼女はぎゅっと彼を抱き返す。痛みよりも温もりに、二人の距離がまた一段と縮まった。




