第3話 文字よりも、確かな音と響きで。
心地よい風が吹く十月上旬の街角。
路地裏にひっそりと佇む『ビストロ月の庭』。
前々から気になっていて、いつか来ようと思っていたお店に、思い切って単独で突入する事を決めた。
「いらっしゃいませ」
アンティークのベルの音と、店員さんの元気な挨拶が迎え入れてくれる。
うわぁ、いい香り。
ハーブとガーリックかな?
お腹すいたなぁ、今日はお昼おにぎりだけだったし……。
「何名様ですか?」
「一人ですが、いいですか?」
現在夜の八時過ぎ。水曜日のこの時間は、ちらほら空席が見える。落ち着いた雰囲気の店内は、ダークブラウンの家具と観葉植物が大人の隠れ家を演出しているように感じた。
「はい、奥のテーブル席にご案内しますね」
にこやかに返事をくれる彼女の後ろをついて行く。
案内された席は二人掛けのテーブル席。
席に着くと、正面に真鍮のアンティークベルが付いた木製の扉が目に入った。扉が開くたびに、低くやわらかな音が鳴り響く。
メニュー表を手に取り、まずは飲み物のページを探る。
とりあえず、グラスビールは必須よね?
生ハムサラダとカルパッチョかぁ、どっちにしよう。ピザも食べたいけど、パスタもいいよね。
あっ、お肉も食べたい。
散々悩んだあげく、グラスビールとタコと水菜のカルパッチョ、牛すじの赤ワイン煮込み、ハーフサイズのマルゲリータを注文した。
そういえば、ずっとスマホをチェックしていなかった事に気がついて、慌てて画面を開く。
メールの通知が数件、着信が一件。
メールを開くと内容を確認した。しばらく眺めて、いざ返信しようと文字を打つが、内容がまとまらない。書いては消してを数回繰り返していると、誰かがぽんっと肩に手をおいた。
っん?
驚いて顔を上げると、目の前に白いシャツに黒のボトムスの男性。
一瞬誰⁉︎ってなったのは、仕方ない。だって、普段は白衣だから……。
「やぁ」
そこには白衣を着ていない、神崎先生がいた。
「っか、神崎先生?びっくりするじゃないですか。それに白衣着ていなかったから、一瞬わかりませんでした」
「白衣マジックって言いたいんでしょ?普段着だと、パッとしないって」
「いやいや、誰もそんな事言ってないでしょう?雰囲気が違ったからわからなかっただけです」
『そういう事にしとくよ』と軽く流した先生は、「ここ座っていい?」と正面の椅子を引いた。
「まだ了承してないんですけど……」
「僕のために開けてくれてたんじゃないの?」
「はいはい、そうです、そうです」
適当に返すと、先生は微笑んで店員さんにビールを注文した。
「先生、今日当直じゃなかった?夜勤の山田さんが、『今日は神崎先生が当直かぁ、忙しくなるな』ってぼやいてましたよ」
「元々はそうだったんだけどね、当直を変わってって頼まれて交代したんだ。だから、今週の土曜日だね」
「えぇ、土曜日って私夜勤だわ。先生が当直の日って急患が多いんだもん」
ため息を吐いて机に顔を伏せると、先生は笑い出した。
「僕は佐々木さんが夜勤だと思うと、安心して勤務できるけどなぁ」
そう言って、テーブルに運ばれたビールに口をつける。
「そんなお世辞言っても、このカルパッチョはあげません」
「本当の事なのに……」
カルパッチョに手を伸ばそうとする仕草が可笑しくて、思わず笑ってしまう。
「いや、本当に判断が的確だから、安心して任せられるんだよ。そういえば、今日遅くまで残ってなかった?ナースコース取ろうとして、山田さんに『もうナースコースは出なくていいです。さっさと記録して帰ってください』って怒られてたよね?」
「見てたんですか。山田さん、口調は厳しいんですけど、いい人なんですよ。いつも遅くまで居る私の事、心配してくれてるんです。今日は予定外の入院とか緊急のオペ出しとかで忙しかったんです」
そう言ってグラスビールを空にした。
ちょうどそこに、牛すじの赤ワイン煮込みが届く。
追加のビールとパスタを注文する。
「この牛すじ美味しいですね。ほら、先生も食べて」
「いつ食べても美味いよな。ここの赤身のステーキも焼き加減が絶品なんだ」
牛すじを頬張って、美味しそうに目を細める。
「先生、ここ常連なの?私、今日初めてきました」
「時々ね。病院からそんなに近くないから頻繁には来れないけど、美味しいものが食べたい時は来るかな」
そんな何気ない会話を楽しみつつ、『ビストロ月の庭』を堪能した。
「そういえば、僕が声かけた時スマホを真剣に見てたけど、急ぎの連絡とかあったんじゃないの?」
「あぁ、メールの返信してたんです。でも、何書いていいかわからなくて……」
意外そうな顔をして先生は尋ねる。
「文章書くの苦手なの?看護記録とか、的確で分かりやすく書いてるのに」
「あれは事実を正確に記載して、アセスメントすればいいでしょ?でもメールって、淡々と書くと相手にどう伝わるか不安じゃないですか?」
「そう?文字の後に絵文字使ってれば良くない?」
「絵文字でも、うまく感情が伝わらない事だってあるでしょう?文字だけで雰囲気や気持ちを伝えるのって難しい。近ごろの子たちって、メールで告白したりするじゃないですか?それも不思議で……。相手の言葉の間も、声の抑揚も、表情もわからないんですよ。私には、文字でのやり取りは難しいです」
話し終えると、届いたパスタに手を伸ばした。
取り分けたパスタを先生の前に置いた時、その手に彼の手が添えられた。
っえ?
温かい手の感触に目を見開く。
「それじゃ、僕はちゃんと佐々木さんの目を見て告白するよ。
──僕はあなたが、好きです」
低くやわらかな声。
温かな手の体温が直に伝わってくる。
頭の中は、波が引いたあとの浜辺のように静けさで満ちているのに、鼓動だけは石を打つように響いていた。
どこか遠くで鳴るアンティークベルの低音が、これは夢ではなく現実だと静かに告げていた。




