6.残されたもの
遥が死んでも世界は変わらなかった。
朝は来て、通学路には同じ風が吹いて、大学のチャイムは今日も少しだけ音程を外して鳴っていた。
スーパーには新しいお弁当が並んでいて、学生たちは当たり前のように笑っていた。
お昼のコンビニのレジは変わらず混んでいて、学内の掲示板には次の講義の案内が貼り出されていた。
遥がいないという事実は、わたしの内側だけにしか存在しなかった。
世界は何も知らないまま、何もなかったようにただ前に進んでいく。
そのことがいちばんつらかった。
本当に遥はここにいたのだろうか。
わたしの隣にいて、笑って、泣いて、傷ついて、ギターを弾いて、煙草をふかして、わたしの名前を呼んでくれていたあの子は。
その記憶のすべてが、夢の続きだったように思えた。
でも、手首の痕は残っている。
今も薄く、静かに。
刃を当てたときの感触、皮膚を裂くときの痛み、それらは現実だった。
それは遥がいなくなったあとの世界に、わたしが残した「感覚」だった。
何かを壊したかったわけじゃない。
ただ、遥の不在をこの世界に焼きつけておきたかった。
わたしの中だけでもいい。
ここに確かに生きていたということを、誰かの死がこんなにも痛いんだということを、ちゃんと残しておきたかった。
でもわたしは生きている。
今日も、食べて、歩いて、講義に出て、眠る。
誰もわたしの過去を知らずに、当たり前のように挨拶をしてくる。
そのことが、救いのようでもあり、時々残酷でもあった。
遥はわたしの中にいる。
でも、もうわたしのそばにはいない。
わたしは遥のいないこの世界で、何もなかったふりをして生きている。
それがとても苦しくて、でも、それでも生きていくしかない。
時間はちゃんと進んでいる。
季節は変わって、大学の構内には新しい一年生たちの姿が増えた。
ふとした瞬間に、遥のことを思い出さなくなっている自分に気づく。
それが怖かった。
数ヶ月前までは、遥の声も、笑い方も、まつげの長さも、服の匂いも、少し猫背な姿勢も、ぜんぶ、目を閉じればすぐに思い出せた。
でも最近は、思い出そうとしてもあの子の声がうまく再生されない。
表情が、輪郭が、少しずつ曖昧になっていく。
まるで遥という存在が、わたしの中から少しずつ抜け落ちていってるみたいだった。
思い出せなくなるのが怖かった。
でも、同時に少しだけほっとしている自分もいた。
思い出さない日は少しだけ呼吸が楽になる。
忘れている間は笑えることもある。
友達とくだらない会話をして、お腹を抱えて笑ってしまうこともある。
そのあとで急に胸が冷たくなる。
わたしは遥のことを忘れて笑った。
忘れて、今日を過ごした。
「遥がいなくても、わたしは生きられる」
そう気づいてしまうことが、いちばん怖かった。
本当は、忘れたくない。
でも、忘れたほうが楽なことも知っている。
どちらかに決めることもできないまま、ただ毎日が過ぎていく。
遥がいなくなったあとも、わたしの時間は止まらないままだ。
それからしばらくして、彼と出会った。
同じ講義を取っていて、帰り道にたまたま声をかけられたのがきっかけだった。
最初は、よくある大学の出会いのひとつに過ぎないと思っていた。
でも彼は少し違った。
距離の詰め方が急すぎず、焦らず、こちらの歩調に合わせてくる人だった。
わたしが沈黙しても、慌てて話題を探そうとはしなかった。
笑いすぎず、覗き込みすぎず、でも確かにこちらを見ていた。
まっすぐで、丁寧で、わたしの輪郭をやさしく撫でるような存在だった。
最初はただ、それがありがたかった。
日常の音が聞こえる場所に身を置いて、誰かと話し、笑い、コーヒーを買う。
それだけのことが自分に許されているのだと、少しずつ実感できるようになっていた。
でも、ある夜。
帰り道にふと手を繋がれたとき、体の奥が一瞬だけ冷たくなった。
遥の手の感触が、ふいに甦った。
噛み癖で少しかさついていた指先。
ギターを弾きすぎて、時々絆創膏が貼られていた手。
「トーカちゃん、手冷たすぎ~」
と笑っていた声。
全部がぶわっと戻ってきて、なのに隣にいるのは違う人だった。
わたしは遥を裏切っている。
そう思った。
でも、手を離すことはできなかった。
彼の手の中に、わたしの指先は確かにあたたかさを宿していた。
遥のことが好きだった。
今でも、あの子が世界でいちばん大切だったと思う。
だけど今、わたしの手はこの人の中でちゃんと存在している。
遥が見ていたら、どう思うだろう。
わたしが別の人の隣で笑っているのを見たら。
その夜、鏡の中の自分を見て思った。
これはもう、遥の前で笑っていたわたしではない。
遥が好きだった顔じゃない。
もう、遥を抱きしめる手じゃない。
それでも、わたしは今日もこうして生きている。 この世界で、誰かと新しい会話をして、誰かに微笑んで、また別の明日へ進んでいる。
わたしは、遥のいない世界で生きている。
そのことが、残酷で、そして救いでもあった。
時々、遥の夢を見ることがある。
寮の廊下を歩いていて、向こうから遥が歩いてくる。
いつも通りのピアスに、洗濯物を抱えて、笑ってる。
「トーカちゃん、元気してた?」
と、あの口調で。
でもわたしは何も言えない。
何も言えないまま遥とすれ違って、振り返らずに歩いていく。
目が覚めたとき、夢だったことにほっとする自分と、夢だったことに絶望する自分がいる。
遥はもういない。
でもわたしの中にはまだいて、わたしが忘れない限り、たぶんどこかにちゃんといる。
忘れたくない。
でもずっと忘れずにいたら、わたしは前に進めないかもしれない。
そんなふうに思う瞬間もある。
だからもう答えを出すのはやめることにした。
わたしは遥のいないこの世界で、遥が生きていた証を抱えて、これからも多分生きていく。
たとえもう遥の声が思い出せなくなっても。
笑い方を忘れてしまっても。
それでもあの時間は確かにわたしの中にあって、わたしを変えた。
遥が生きていたことを、あの時間がほんとうに存在していたことを、わたしの中の何かが、ずっと抱えたままでいる。
それはきっと、一生解けない呪いみたいなものだ。
でも、それでいいのかもしれない。
呪いを抱いて、わたしは生きていく。