5.崩れゆく日々
遥と過ごす時間は、もう日常の一部になっていた。
大学に行って、課題をこなして、学食で友人たちと笑い合う。
でもそのどれもが、どこか「仮」のように思えた。
わたしの「本当」は、寮に戻ってから始まる。
遥とふたりで夜のランニングに出かけ、コンビニに寄って、くだらない会話をしながら帰ってくる。
どちらかの部屋でギターを弾いたり、ベッドに倒れ込んだりする日々。
初めてタバコを吸った夜のことも、まだよく覚えている。
まずくて煙たくて、吐き出したくなった。
でも、遥が美味しそうに煙を吐く横顔が綺麗で、それだけで大人になれた気がした。
遥は素直で、可愛くて、情緒不安定で、ときどきわたしのことを傷つけながら、たくさん愛してくれた。
幸せだった。
間違いなく、あのときのわたしは。
そんなある日、母から電話がかかってきた。
話の内容は、断片しか覚えていない。
わたしは遥の部屋のベッドに座り、携帯を握りしめたまま、横で煙草に火をつける音を聞いていた。
「……父親、保証人になってたんだって。おじさんの会社。誰にも言ってなかったの。もう自己破産するしかないって」
自分の声が、やけに遠く感じられた。
胸の奥で、何かが音を立てずに崩れた。
遥は、わたしの方を見ていた。
言葉を選ぶように、黙ったまま、煙草を唇に運んだ。
「……大丈夫?」
その問いが、まるで別の世界から届いたみたいに聞こえた。
耳鳴りのような静けさの中で、わたしは微かに頷いた。
部屋の空気が変わった気がした。
壁際のギター、コンビニの袋、半開きのカーテン。
すべてが、ぼやけて見えた。
大学を辞めなければならないかもしれない。
遥と、離れなければならないかもしれない。
その言葉が頭の中で反響していた。
だけど、涙が出るわけでもなかった。
苦しいとも思えなかった。
感情だけが、遠くへ逃げていった。
遥の吐いた煙が、ゆっくりと天井に向かって昇っていくのを、わたしはただ眺めていた。
それだけが、やけに現実的だった。
数日後、母から再び電話があった。
「おばあちゃんが、学費のことなら出してくれるって。大学は辞めなくていいから」
わたしは「うん」とだけ答えて、通話を終えた。
安堵よりも、実感のない空白が広がった。
失いかけていたものが急に戻ってきたときの、居心地の悪さ。
遅れてやってくる痛みだけが、静かに胸に沁みた。
何もなかったように講義に出て、ノートを取り、友人の会話に笑いながら相槌を打った。
でも、ふとした瞬間に意識は遥に引き戻された。
いま、あの子は何をしているだろう。
ちゃんとご飯を食べているだろうか。
また自分を傷つけていないだろうか。
わたしがいない間に、遥が消えてしまったら——
そんなことばかりを考えていた。
食べ物の味がわからなくなった。
夜は身体が疲れているのに、眠れなかった。
遥と一緒にいても、ひとりでいても、呼吸が浅くなっていた。
身体が鉛のように重かった。
授業も頭に入らず、ただノートを埋める作業だけが続いた。
ある日、寮の食堂の掲示板の隅に貼られた紙が目に入った。
「学生相談室では、専門のスタッフが悩みの相談に応じます。」
ただの文字だった。
だけど、そのときのわたしには、「今ちょっと苦しい」と誰かに言うこと自体が必要だったのかもしれない。
案内されたのは女性のカウンセラーだった。
「夜眠れないとか、食欲がないとか、そういう症状が続いていて……」
遥のことは、話さなかった。
話したくなかった。
あの幸福と絶望が入り混じった関係を、他人に説明できる気がしなかった。
カウンセラーは、わたしの言葉に過剰に優しい反応を返してきた。
「そうだったんですね……」
「それはつらかったですね……」
「言いたいことは全部言っていいんですよ?」
優しいのに、どう返していいのかわからなかった。
たぶん、わたしが欲しかったのは共感じゃなかった。
「これでいいのか」「今の状態はどこまで壊れているのか」そういう“事実”を誰かに示してほしかった。
翌週、今度は大学附属病院から来ているという男性医師に話をすることになった。
白髪まじりの穏やかな声の人だった。
過剰な相槌も笑顔もなかった。
ただ黙って、話を聞いてくれた。
「食欲がない」
「夜が怖い」
「心臓の音がうるさい」
わたしがそう言うと、彼は頷き、小さくメモを取った。
「ちょっと辛そうだから、薬を飲んだ方がいい。附属病院の予約を取るね。眠れるようになるだけでも、少し楽になるはずだから」
そのまま通院することになった。
遥には言わなかった。
言えば、何かが変わってしまう気がした。
薬を飲み始めてから、少しずつ眠れるようになった。
でも夢の中には遥が出てきた。
何かを言おうとしているのに、口元だけが動いて、声が出ない夢。
目が覚めると、カーテン越しに白んだ朝。
わたしはそのまま、しばらく動けなかった。
薬の効果は確かにあった。
遥と一緒にいるときも、以前と同じように振る舞えた。
ギターを弾き、煙草を吸い、夜の風を一緒に吸い込んだ。
でも、何かがわたしの中で変わっていた。
遥の傷跡を見ても、前のように動揺しなくなっていた。
それは無関心ではなかった。
ただ、見慣れてしまった感覚に近かった。
遥が傷ついていることに、ちゃんと反応できない自分がいた。
それに気づいたとき、わたしは本当に怖くなった。
今でも、遥は世界でいちばん美しくて、壊れそうで、愛しい存在だと思っている。
でもこのまま一緒に沈んでいけば、わたしは自分を失くしてしまう。
遥といると安心する。
けれど、それはもう“生きている”という感覚ではなかった。
溶けていくような、眠っていくような、輪郭が薄れていくような心地よさ。
その心地よさと引き換えに、わたしは何かを諦めていた。
たぶんこのままいけば、わたしは遥と一緒に戻ってこられない場所まで行ってしまう。
地上に足がつかなくなって、笑うことも泣くこともできなくなって、ただ透明になってしまう。
それだけはどうしても嫌だった。
寮の掲示板に来年度の退寮希望者向けの案内が貼り出されたのは、まだ寒さの残る春先だった。
紙を見た瞬間、何かがすっと降りてきた。
考えたわけじゃなかった。
ただ、「出なきゃ」と感じた。
自分を守るためじゃない。
遥を裏切るためでもない。
ただ、「わたし」という輪郭が、このままでは本当に消えてしまうと思った。
誰かの痛みを背負ったふりをして、自分の痛みに甘えているだけの自分が、もうどうしようもなく気持ち悪かった。
わたしは、寮を出ることを決めた。
その夜、遥には何も言わなかった。
「ねえトーカちゃん、来年はどんな子たちが入ってくるかな」
遥はそう言って、笑った。
わたしはただ、頷いた。
声に出せば何かが壊れてしまう気がして、言葉にできなかった。
部屋に戻ってから、布団の中で息を殺して泣いた。
頭が痛くなるほどに。
遥のことが嫌いになったわけじゃなかった。
でも、一緒にいることだけが答えではないとも思っていた。
退寮の日の朝、目が覚めた瞬間から胸の奥がざわついていた。
出発までにはまだ少し時間があったのに、時計の針だけが異様に早く進んでいくように思えた。
遥には、まだ何も言っていなかった。
最後の最後まで言わずに出ていくつもりだったのか、それとも、どこかで気持ちが変わって声をかけるのか。
自分でもわからなかった。
カーテン越しに差し込む朝の光が、部屋を薄い白に染めていた。
荷物はほとんど段ボールに詰め終わっていた。
「寮を出るね」
そのたったひとことを、頭の中で何度も繰り返していた。
でも、口元は動かなかった。
遥の部屋のドアの方を向いて、立ち尽くす。
廊下には誰の気配もない。
なのに、遥の扉だけが不自然に重たく感じられた。
言おうか。
やめようか。
その問いが、心の中で何度も往復した。
「今言わなかったら、もう一生言えないかもしれないよ」
誰かが囁いた。
でもそれは、わたしの声じゃなかった。
わたし自身は、その「言えなさ」にもう溺れかけていた。
喉の奥が詰まり、空気がうまく飲み込めなかった。
口を開きかけては、また閉じた。
遥の部屋の下から、かすかな光が漏れていた。
たぶん、もう起きていた。
それでもノックできなかったし、名前も呼べなかった。
行かなきゃ。
そう思っても、足が動かなかった。
逃げてる。
そう思った。
でも言ってしまったら、壊れてしまいそうだった。
そっと歩き始めた。
遥の部屋の前を通り過ぎるその瞬間、胸の奥が締めつけられた。
手が震えていた。
声が出せなかった。
目を合わせることすら怖かった。
「ごめん」
心の中でそう呟いた声は、自分のものじゃないように思えた。
そしてそのまま、振り返らずに寮を出た。
アパートに引っ越した初日の夜、わたしは何度も携帯を手に取っては画面を見つめた。
「ごめんね」
「寮を出たんだ」
「また会おうね」
どれでもよかった。たったひとことでも。
でも、何も送れなかった。
沈黙を選んだのはわたしだった。
何も言わずに遥の前から消えたのは、わたしだった。
遥が、わたしの気配に気づいていなかったはずがない。
最後の数日、わたしはあの子の目をまともに見られなかった。
何かが終わることを、遥もきっと察していた。
それなのにわたしは黙っていた。
それが一番、残酷だった。
遥の前では、綺麗なふりをしていた。
「共依存」でも「心中未遂ごっこ」でもないって、そう思い込んでいた。
でも本当は、遥に依存していたのはわたしの方だった。
遥の闇に寄り添うことで、自分の空虚を見ないようにしていただけだった。
全部、遥のせいにしていた。
遥が壊れていたから、わたしも苦しかった。
そう思えば、被害者でいられる気がした。
でも違った。
逃げたのは、わたしだ。
遥の苦しみからじゃない。
遥と向き合う自分自身の弱さから逃げた。
その夜、胸の中で膨らんだものがとうとう形になって溢れ出した。
声を殺して泣いた。
アパートの薄い壁の向こうに、誰かがいるかもしれないのに。
それでも構わなかった。
「逃げたくせに、何が“愛してた”だよ」
何度も何度も、心の中で自分を罵った。
遥を裏切ったのはわたしだ。
最後の瞬間まで名前を呼べなかったわたしだ。
それだけは一生変わらない。
どれだけ時間が経っても、何を手に入れても、
遥の部屋の前で言えなかった「さよなら」の一言は、わたしの中でずっと重いままだ。
寮を出たことが間違いだったとは思わない。
あのままではほんとうに壊れていた。
遥の痛みに飲み込まれて、自分を失くしていた。
だからきっと、これでよかった。
——そう、これでよかった。
そう思おうとするたびに、喉の奥がぎゅっと苦しくなる。
あの時、遥の部屋の手前で立ち止まっていた。
ノックしようとして、手を伸ばしかけて、やめた。
名前を呼ぼうとして、声を飲み込んだ。
何度も何度も。
あのとき言えていれば。
たったひとことでも伝えていれば。
こんなふうに終わらなかったかもしれない。
わたしは逃げた。
遥の反応が怖くて、傷つけることが怖くて、何よりもわたしが悪者になるのが嫌で、言葉を選んでいるうちに全部のタイミングを逃した。
「またね」も「ありがとう」も「ごめん」も。
本当にこれでよかったのだろうか。
遥のためでも、自分のためでも、本当に正しかったのだろうか。
そんなはずはないと分かっているのに、「これでよかったことにしなければならない」と、今も思っている。
言い訳のように、呪文のように、何度も何度も。
もし、もう一度だけ時間が戻るなら、わたしはきっと同じ選択をするだろう。
だからこそ、よりいっそう苦しい。
何も変えられないことを知っていながら、今も心のどこかで静かに叫び続けている。
「ごめんね」と一度だけでいいから言いたかった。
あの子の目を、最後にちゃんと見ておきたかった。
遥が死んだと聞いたのは、偶然だった。
大学の講義が終わって、いつものように学食の前のベンチに座っていた。
春の日差しが背中をじんわりと温めていて、わたしは開いた本をただ眺めていた。
文字は目に入っていたはずなのに、何も読んでいなかった。
紙の上の文字が、なぜかやけに遠く感じた。
「溝田さん」
そう声をかけられても、すぐには反応できなかった。
振り返ると経済学部の子が立っていた。
寮にいた頃何度か一緒にご飯を食べたことがある。
わたしと遥がいつも一緒にいたのを、その子は知っていた。
「ねえ、聞いた? 田辺さんのこと……亡くなったって」
「……え?」
その一言がわたしの口から出たのか、頭の中だけだったのかは分からない。
時間が止まったような感覚だけがあった。
「なんか、自殺だったらしいよ。詳しくはわかんないけど……」
わたしは口の端を少しだけ引き上げた。
そして「ふーん、そうなんだ」と言った。
信じられないくらい冷たい声だった。
自分でもそう思った。
驚いてもいないし、悲しんでいるふうにも聞こえなかったと思う。
でもそれがわたしの精一杯だった。
反応してしまえば、すべてが現実になってしまう気がした。
遥が本当にいなくなったことを、わたしの中で確定させてしまうのが怖かった。
「……ごめん、ちょっと用事思い出した」
そう言って立ち上がったとき、手がほんの少しだけ震えていた。
本を鞄にしまって、そのまま歩き出した。
どこに向かったのか、何をしていたのか、そのあとの記憶はほとんどない。
ただ、胸の奥がじわじわと焦げるように痛かった。
あのとき、遥にさよならを言わなかった。
そして今、遥の死にすらちゃんと向き合うことができていない。
どちらもわたしが選んだことだった。
逃げた。また逃げた。
遥がいない世界からじゃなくて、遥に関わる感情から逃げた。
涙は出なかった。
悔しさとか悲しさとか、そんなはっきりした感情もなかった。
でも、身体の奥に、遥の匂いがこびりついているような感覚だけが残っていた。
夜になると、ふいに遥の声が浮かんできた。
「トーカちゃんがいないと、あーしダメになるかも」
「でも、いてくれるだけで生きていられるんだよね」
「ねえ、嫌いにならないって、約束して」
その声が、頭の中で何度も繰り返された。
名前を呼ばれる感触が、耳の奥に残っていた。
それなのにわたしは置いてきた。
何も言わずに、遥をひとり置いてきた。
遥がどう感じたのか、どんなふうに夜を過ごしていたのか、全部、今になって押し寄せてきた。
逃げたわたしを、遥はどう思っていたんだろう。
きっと「こんなあーしなんだから仕方ないよね」と、笑ったと思う。
そのまま静かに崩れていったんだと思う。
そう思った瞬間、わたしの胸の奥で何かが崩れる音がした。
わたしが殺したようなものだ。
どんなに違うと誰かに言われても、そう思ってしまう。
わたしが、遥を置いていかなければ。
遥の世界に、もう少し長く踏みとどまっていれば。
もしかしたら今も、生きていたかもしれない。
それはただの妄想かもしれない。
でも、わたしの中ではずっと、遥の死はわたしの選択の延長線上にある。
「生きていくために」
そう言い訳をして、寮を出た。
でもその「生きていく」の中には、遥がいないことも、遥を見捨てることも、最初から含まれていた。
わたしはそれを知っていた。
でも、知らないふりをしていた。
遥がどうなるかなんて、分からないふりをしていた。
言わなかった言葉。
交わさなかった視線。
全部が逃げだった。
いまさら後悔したって、何も戻らない。
それはわかっている。
それでもわたしの中で、遥の死は終わっていない。
死んだのは、遥で。
でも、それを背負って生きていくのは、わたしだ。
遥が死んだという現実は、頭では理解していた。
けれどわたしの中の時間は、まだ遥の最後を受け入れていなかった。
それが崩れたのは、何気なく携帯を触っていたときだった。
履歴の中に、遥とのやりとりが残っていた。
「今から行っていい?」
「ギター教えて」
「トーカちゃん、今日の声なんか優しくてよかったよ」
「トーカちゃん大好きだよ」
もう、二度と続きの来ない画面。
止まったままの言葉たち。
たった数行。
それを見た瞬間、胸の奥に張っていた何かが、ぷつんと切れた。
崩れてはいけないものが、音を立てずに崩れていった。
息がうまくできなかった。
背中を丸めたまま、部屋の床に座り込んだ。
涙が出るわけじゃなかった。
あまりにも静かすぎて、自分の心臓の音だけがやたらと大きく聞こえた。
遥はいない。
もう、いない。
触れられないし、話せないし、笑い合うこともできない。
その“絶対”を、わたしの身体が拒絶した。
頭の中がざわざわして、手のひらが冷たくなっていく。
目の奥が痛んで、肩が微かに震えていた。
気づいたときには、立ち上がっていた。
引き出しを開けて、カッターを手に取っていた。
目の前が赤く滲んだように見えた。
痛みなんて、感じたくなかった。
感じる前に、全部を消したかった。
消すって何を? 誰を? どうやって?
わからなかった。
でも、このまま遥をどこかへ行かせるなんて、耐えられなかった。
わたしのせいで、遥は死んだ。
そう思った。
わたしが殺したんだと。
あのとき「さよなら」も言えなかった。
何も言わずに、背を向けて、逃げた。
刃を当てる。
皮膚が裂ける。
赤が、にじむ。
もっと。
もっと、もっと。
指先に力が入っていた。
止まらなかった。止められなかった。
涙があふれ、喉が震えて、何かを叫んでいた。
でも、声にはならなかった。
ただ、空気の中にわたしの呼吸だけが擦れていた。
誰にも聞かれなくてよかった。
誰にも見られなくてよかった。
遥。
どうして置いていくの。
死ぬなら、せめて名前を呼んでよ。
せめて、わたしに気づかせて。
こんなふうにひとりだけ、残していくなんて。
そんな酷いこと、ある?
でも違う。
わたしが先だった。
遥の手を振り払ったのは、わたしだった。
何も言わずにドアを閉めたのは、わたしの方だった。
わたしは遥を、見捨てた。
だから遥はいなくなった。
その代償を、どこかに刻まなければいけなかった。
どこかを壊さないと。
そうでもしないと、自分がまだ生きていることすら、信じられなかった。
それでも、生きていた。
ただ、そのことが、何よりも痛かった。