4.兆し
遥と親しく話すようになってからは、毎日が少しだけ楽しくなった。
彼女は夜遅くに突然、
「トーカちゃん、起きてる?」
とノックしてくることもあれば、ふたりとも一コマ目が無い日は、朝から菓子パン片手に部屋に転がり込んでくることもあった。
最初は少し面倒にも思ったけれど、だんだんとそれが日常になっていった。
遥が初めてわたしの部屋に来たのは、確か入学式の前日だった。
部屋の隅に立てかけてあったギターを見つけると、
「なにこれ、弾けるの?ちょっとだけ教えてよ」
と興味津々で手を伸ばした。
「昔ちょっとやってただけだよ、簡単なコードくらいしか……」
「いいじゃんいいじゃん!あーしもやってみたかったんだよね〜。てか、ギターってさ、孤独な人が弾くイメージあるよね?かっこいい」
その言い方にはどこか自虐のニュアンスがあって、笑っていいのか分からず曖昧な相槌を返した。
だけど、遥は本当に楽しそうだった。
教えたコードを何度も繰り返しながら、「指痛ぇ〜!」と叫び、それでも目を輝かせていた。
数日後、「あーしも買っちゃった〜」とギターケースを抱えて306号室に駆け込んできたとき、なんだか胸がじんわりとした。
この子は可愛くて素直だな、と思った。
遥が好む音楽は、なんだかよく分からない洋楽とか、うるさいだけのメタルバンドとか、わたしが今まで聞いたこともないようなジャンルばかりで、正直あまり好きじゃなかった。
だけど楽しそうにギターを触る遥が可愛くて、そのうるさい曲を一緒に練習してみたりもした。
その頃はまだ、遥から感じる微かな匂わせが何を意味するのか、わたしは分かっていなかった。
ある夜のことだった。
ギターの練習を終えて、わたしの部屋の床に寝そべっていた遥が、唐突にこんなことを言った。
「昨日軟骨にピアス開けるのに安全ピン使ったらさ、思ったよりも血がめっちゃ出てびっくりしたんだよね〜。でも、なんかさ……痛いのが気持ちよくてさ」
わたしはその時、どう返していいか分からず、曖昧な笑みを浮かべることしかできなかった。
ふざけているようにも、本気で言っているようにも思えた。
でも、わたしが知る中ではそれが最初だった。遥が「痛み」に触れたのは。
それから、遥の身体のあちこちに絆創膏が増えていった。
暑い日でも不自然に長袖を着たりしていた。
理由を聞くと「猫に引っかかれた」とか「自転車で転んだ」とか、リストバンドを指摘した時は、「ギターの練習しすぎて腱鞘炎になっちゃって湿布貼ってるんだよね〜」「かっこいいからつけてるだけ」などと、毎回違う話をしてきた。
別にどれもありえない理由ではない。
わたしはそれを鵜呑みにするふりをして、心のどこかで警鐘が鳴るのを自覚していた。
この子の中に、何か重たいものがあるんじゃないか。
そんな予感が、わたしの中でゆっくりと形を成していった。
ある晩、共用トイレに向かったとき、遠くから水の流れる音と一緒に、何かを吐いているような音が聞こえてきた。
共用トイレの入り口には、見覚えのあるスリッパが置かれていた。
背筋に冷たいものが走ったけれど、すぐに思い直した。
きっとお腹でも壊したんだろう。
食あたりか何か、そんなところだろうと。
けど、それが一度や二度じゃなかった。
時々、夜になると同じ音が聞こえた。
そしてある日、遥の部屋に遊びに行ったとき、何気なく視界に入ったゴミ箱の中には、お弁当の空き容器が何段にも重なっていた。
コンビニのやつや、スーパーのパックのやつがごちゃごちゃに詰め込まれていて、その数がどう考えても一人分ではなかった。
それでも、その場では何も言えなかった。
何かを壊してしまいたくなくて、ただ笑って話を逸らした。
さらに数日後、夕方の学校帰りに寮の近くのスーパーの外で遥の後ろ姿を見かけた。
声をかけようとしたが、遥の様子を見て思いとどまった。
両手に大きなレジ袋を持っていて、中にはぎゅうぎゅうに詰まった弁当が5つ、6つと見えた。
その時、疑念は確信に変わった。
「あー、やっぱりやってるな」と。
不意に遥が振り返り、目が合ってしまった。
遥は大量の弁当を特段隠すこともなく、気にしている様子もなかった。
むしろ、なにか試すように、探るように、わたしの目をじっと見て笑った。
笑っているのに、心がざわついた。
遥は時々、急に黙り込むことがあった。
それまで普通に話していたのに、わたしの何気ない返答や沈黙に反応して、まるで拒絶されたかのように背を向ける。
「もう嫌いになった?」
そう訊かれて戸惑いながら、
「そんなわけないじゃん」
と返すと、
「ジョーダンだよ、びっくりした?」
と笑う。
でもその笑顔のあと、ふと沈黙が続くことがあった。
今思えば遥は、時折わたしの顔色を探っていたような気がする。
それがピークに達したのは、ある夜だった。
「手首切っちゃったー」と、いきなりLINEで傷の写真が送られてきた。
白い手首にいくつもの赤い線。
流れる血は鮮やかだった。
ショックよりも先に冷たさが背中を這った。
走って308号室に向かうと、遥は支離滅裂なことを言いながら、またカッターを握ろうとしていた。
「もう誰にも必要とされてない」
「でもトーカちゃんが止めたらやめるよ」
「でも止めなかったら、どうしよっかな」
「どうせトーカちゃんもあーしのこと嫌いなんでしょ」
「同情してるだけならもう来ないで大嫌い」
「トーカちゃんしか居ないの、見捨てちゃやだ」
どれが真実なのかわからない言葉の海に溺れながら、それでもわたしは遥の手を掴んだ。
「やめて」じゃ足りなかった。
「死なないで」も届いていなかった。
ただ、震える声で「ここにいるよ」と言うのが精一杯だった。
遥は、わたしにしがみついて泣いた。
その背中はまるで子どものように小さく見えた。
それなのにどこか、遥の魅力に取り憑かれてしまっていた。
遥と過ごす夜は、いつも夢の中のようだった。
現実と少しずつ距離ができていく感じがして、でもそれがなぜか心地よかった。
わたしも、少しずつ壊れ始めていたのかもしれない。