(2)
「はぁ……」
「陛下。いかがなさいましたか」
側近の一人、茶髪にそばかすのあるヤニックが、物憂げな表情でため息をつく主君に問いかける。
「いや、何でもない」
(今朝もそっけない態度をとってしまった……)
考えるのはもちろんミランダのことである。逃げるように会話を切り上げてしまったことを悔いていた。彼女がまず仲良くすべきは自分ではないかという、子ども染みた嫉妬を隠すために。
(俺はガキか……)
肘をついて額に手を当てて再度ため息を吐く。
ヤニックはもう一人の同僚、さらさらとした金髪に細目のアルノーと顔を見合わせ、やはり王妃のことで悩んでいるのだろうかと推察する。
「そう言えば、王妃殿下の――」
「ミランダがどうした?」
ディオンがさっと顔を上げ、琥珀色の瞳を射貫くように光らせた。窓から差し込む光のせいか、光って金色に見える。
主君の眼光の鋭さに真面目な性格のアルノーはびくりとし、躊躇いがちに先を続ける。
「いえ、王妃殿下のおそばでぜひお仕えしたいと申し出た者がひどく美しく……その、もしかするとその美貌で近づいたのではないかと噂されておりまして……」
「なんだと? 面接官は何をしているんだ」
「素性は一応調べられて、侯爵夫人の推薦状もきちんと持参しておりましたので、怪しい者ではないようです。何でも母方の親戚が王女殿下の母国と同じ出身で、縁を感じたとかで……」
もちろんそれらはロジェが裏でいろいろと手を回した結果である。しかし事情を知らないディオンはその者が何か悪意を持ってミランダに近づいたのではないかと訝しんだ。
「その者はもうミランダに仕えているのか?」
「恐らく……。王妃殿下も、気に入られたとお聞きしましたが」
(今朝の寝室にもいたか……?)
ミランダのしどけない姿を見ないことに意識を割いていたので、他のことはあまり覚えていない。だが噂になるほど美しい侍女はいなかったように思う。いても、ミランダより美しいとは思わなかっただろうが……。
「気になるならば、王妃殿下に会いに行かれてはいかがですか。確か今日、茶会をするとかなんとかおっしゃっていましたから」
「なぜおまえがミランダの一日を把握している」
ディオンの鋭い睨みに、ヤニックは肩を竦めて誤解を解いた。
「俺の恋人はミランダ様の世話係です。恋人の一日を知っているのは、別におかしくないでしょう?」
「……もしかしてその例の侍女と付き合っているのか?」
ヤニックは今度こそはっきりと呆れた表情をする。
「そんなわけないでしょう」
「そうか、悪かった。……そうだな。恋人の一日を知っているのは、別におかしくないな」
恋人ではなく妻ならば、むしろ当然かもしれない。
そんなことをディオンは思い、椅子から立ち上がっていた。
◇
王宮の一室。日当たりの良い部屋には、丸テーブルや大きなソファがいくつも置かれ、グランディエ王家の紋章が施されたティーセットが用意されていた。
「今日はお集まりいただいてありがとう」
ミランダは年の近い既婚者たちを招いて、親睦を深めようとしていた。
「こちらこそ、王妃殿下にお招きいただき、光栄ですわ」
「私もです。楽しみにしておりましたわ」
ふふ……とみな笑みを浮かべて歓迎しているように見えるが、ミランダがどんな人間か、観察・警戒しているのが感じられた。ここから信頼を得て、関係を築いていかなければならないと思うと、正直面倒だなと思う。
でも、この面倒さを疎かにしてはいけない。
(まどろっこしいけれど、結局こうした地道な触れ合いが一番仲を深めるのよね)
そう思い、ミランダはちらりと椅子に座らず、気配を消すように控えている侍女の一人に視線を向ける。まるでミランダの声が聞こえたように侍女は――女装したロジェはこちらを見て、微かに頷いた。
自分は確かに今孤立した立場かもしれない。だが、決して一人ではない。今までいろいろと面倒事を共にしてきたロジェがいる。
彼が言ってくれたように今の状況を大人しく受け入れているのは非常に自分らしくない。
「わたくしはまだグランディエ国に来たばかりですので、こちらの国についていろいろと教えてくださると嬉しいですわ。――美味しいお茶とお菓子と一緒に」
微笑と共に告げられたミランダの言葉を合図に、ロジェがカップに茶を注いでいく。他の侍女たちも彼に倣い、招待された客人たちをもてなし始める。
「グランディエ産の紅茶は、香りがいいのですね。甘みがあって……でも、後味がすっきりしている」
「この茶葉はグランディエ国の北部にある、高い山の麓で育てられたものなんです」
他にも地域によって微妙に味が違うと教えられ、ミランダは興味を持った。
「他のもぜひ飲んでみたいわ。みなさんのお勧めは何かしら? よかったら教えてくださる?」
みなそれぞれ自分の好みがあるようで、どれもミランダは真剣に耳を傾け、ぜひ飲んでみたいと述べた。
「東の国には緑色のお茶もあるの? 苦そうね……でも甘いものと合わせて飲んだら、案外合うかもしれないわね……実に興味深いわ。教えてくださってありがとう」
今度機会あれば、手に入れてみよう。
「王女殿下がそこまでお茶に興味があるなんて、知りませんでしたわ」
「実を言いますと、今まで興味はありませんでしたの。でもこちらへ嫁いできて、自分の国で飲んでいたものと違うことに気づきましたわ。国が違うのですから当然ですが、何だかとても新鮮に感じられて……もっといろいろと味わいたくなってみましたの」
最後は少し恥ずかしそうに、でも幼い少女のように微笑んでミランダは本音を打ち明けた。
その姿に招かれた女性たちはしばし目を奪われる。
「……なんだか、噂に聞いていた方と違いますのね」
ぽつりと呟かれた言葉は思いのほか大きく響き、他の者たちの視線も一斉に集めてしまう。
発言者である女性は――くりっとした黒目にヴェーブのかかった栗色の髪をした、子リスのような印象を抱かせる彼女は、慌てた様子で弁解する。
「あっ、いえ! 決して悪い意味ではなく、その、もっと怖い……いえ、冷たい、じゃなくて、高貴な人だと思っていたので……ええっと、良い意味で親しみ溢れた方なのかなと思いまして……」
嘘がつけない性格なのか、ミランダが今までどう思われていたのか実によく伝えてくれる。
「あの、ごめんなさい。失礼なことを言ってしまって」
「ふふ、構いませんわ。ええ。わたくし、こう見えても一応王女でしたから、やはりいろいろとそれらしく振る舞う必要がありましたの。それがもしかすると、皆さんに誤解を与えてしまったかもしれませんね」
はっきりと肯定はしないが、悪女だと思われていても仕方がない。
ミランダが遠回しにやんわりとそう告げれば、みな驚き、困惑した様子で顔を見合わせた。
「ですから、わたくしが本当はどんな人間なのか、みなさんに少しずつ知っていただければと思っております。もちろん、みなさんのこともわたくしに教えてくださいな」
ミランダはにっこりと笑ってそう締めくくった。
「では、ミランダ様。ぜひとも教えていただきたいことがありますわ」
いち早く動揺から立ち直った夫人の一人が、どこか挑むような眼差しでこちらを見てくる。王妃殿下と呼ばれていたなかで、いきなり名前呼びされたことも偶然ではない気がした。
(うーん。何だか嫌な予感)
しかし発言するなとは当然言えず、「あら、何かしら?」と澄ました顔で促す。
「ミランダ様とディオン様の仲が不仲だという噂は本当なのでしょうか」
「フォンテーヌ夫人!」
あからさまな質問に他の夫人たちが慌てる。しかしフォンテーヌ夫人は落ち着いた態度、余裕ぶった表情で首を傾げた。
「あら、みなさんだって気になるでしょう? それに、私はあくまでも噂だと思っておりますわ。だってディオン様はとてもお優しくて、女性に対しても気遣いを見せる方ですもの。私が結婚する前も、よくダンスを踊ってくださったわ。一時は結婚の話も出ていましたの。あら、いけない。私ったらつい口が滑ってしまいましたわ」
そう言ってちらりとミランダを見る。
(うわぁ……)
もう自慢したくて仕方がない。あなたの旦那とは以前から仲が良くて、あなたよりずっと私の方が好意を持たれていましたのよ、アピールにミランダは内心ぞわぞわする。
気づかれぬようロジェに肩を小突かれたのは、顔まで引き攣っていたからかもしれない。
慌てて表情を引き締め、ミランダは他の夫人たちの顔色を密かに窺う。
この状況を面白がるように傍観する女性もいたが、何人かは王妃相手にその質問はまずいのではなくて? という顔をしたり、ミランダのようにドン引きした表情を晒す女性もいたので、何だか安心する。いや、安心している場合ではない。
「ええっと……陛下は確かにすごくお優しいですものね。未婚のご令嬢とあれば、ことさら気を遣って対応なさるでしょう」
ただ紳士として当然の振る舞いをしただけで、夫人個人に思い入れがあったわけではない。
(ただのあなたの思い込み、勘違いではなくて?)
と、やんわりと返してみたが、フォンテーヌ夫人には全く通じていないようで、依然としてこちらが上だと余裕の表情である。
「わ、私も初めて舞踏会に参加した際は、一緒に踊ってもらいましたわ」
「私もです。というか、そういう決まりで……」
険悪な雰囲気を作るまいと、ミランダに同調するように言葉を発した夫人たちは、フォンテーヌ夫人に鋭く睨まれ、さっと目を逸らしたのち、俯いて口を閉ざしてしまう。
これではどちらが悪女かわからないわねとミランダは内心呆れる。
「とにかく。あんなにお優しい陛下がミランダ様のことをお嫌いになって、夫婦生活も上手くいっていないというのは、私、とても心配していますの。もしよかったら私がミランダ様の代わりに――」
「どうするんだ?」
そう訊いたのは、ミランダではない。女装したロジェでもない。
「へ、陛下!」
ここにいるはずのないディオンであった。
「ど、どうしてここに?」
ディオンはミランダのことをよく思っておらず、今朝も避けるように朝食の席を立ったというのに。
「何かありましたの?」
もしや緊急の用事かと、真面目な顔をするミランダをディオンは何か言いたげな目で見つめていたが、不意に口元に笑みを浮かべたので、ミランダだけでなく他の夫人たちも驚く。
こちらに来て日が浅いミランダは知らなかったが、ディオンが笑うことはあまりなかったのだ。特に今のようにまるで愛おしい者を見つめるような甘い表情で微笑むことは決してなかった。
「へ、陛下?」
「用事がなくては我が妻に会いに来てはいけないのか?」
ディオンは悲しそうに言うと、膝の上に置かれたミランダの手をおもむろに取り、腰を屈めながら手の甲にそっと口づけを落とした。そして、上目遣いで自分を見つめた。
「俺は何時間もあなたに会えなくて、寂しかったぞ」
「え……」
後ろで夫人たちが息を呑むのがわかった。きゃあ、という黄色い悲鳴も聞こえた気がする。
(ど、どういうこと!?)
なぜ甘さ全開の雰囲気で恋人にかけるような言葉を告げられているのか、ミランダは混乱した。
何時間も、と言うが、朝に別れてからの数時間程である。そんな悲嘆する時間には値しないはずであるが……。
「ミラ。なぜ何も言ってくれない」
「ミラ……」
フォンテーヌ夫人が手にしていた扇を壊してしまうのではないかと思うほど強く握りしめて呟く。
「あ、あの陛下。これは一体……」
「二人きりの時だけではなく、みながいる前でもぜひ名前で呼んでほしい」
甘く優しい口調でありながらどこか圧を感じ、ミランダはひょっとして……と思う。
(わたしたちの夫婦仲が悪いと思われるのはまずいから、わざとイチャイチャした態度を見せつけようとしている?)
ただの夫婦ならともかく、自分たちは国王夫妻である。国のトップに立つ者たちの不仲は、国民たちにも良くない印象を抱かせ、グランディエ国の将来に不安を抱かせると……。
(そう。そうよね……。当然だわ)
そういうことならば、とミランダはディオンの琥珀色の目を真っ直ぐに見つめ返した。
そうして、花が綻ぶように微笑んだ。
「はい、ディオン様」
瞬間、ディオンの目が見開かれ、目元や耳が見事に赤く染まった。
(陛下、すごい。肌まで赤くさせるなんて!)
さすが、ジュスティーヌの婿候補に選んだ男なだけある。
ミランダも負けじと彼の手をそっと両手で包み込むと、顔中の筋肉と目力を駆使し、全力で夫に恋する妻を演じる。
「ディオン様。先ほどは嘘をついてしまってごめんなさい。本当はわたくしも、あなたと離れていて、とても心細くて、寂しくてたまりませんでした」
(わたし、こんな甘えるような声出せるのね)
我ながらすごいわ、と自画自賛しながら、慎ましく目を伏せて、悲しみに耐えうるような可憐な王妃を装うと、ディオンがいっそう力強く手を握りしめてきた。ちょっと、痛いと思うくらいに。
「ミラ。俺はあなたのことが――」
「陛下!!」
何やら思いつめた表情で告白しようとしたのを遮ったのは、信じられない様子で成り行きを見守っていたフォンテーヌ夫人である。彼女は我慢ならないと言った様子で立ち上がり、肩をわなわなと震わせている。
(これは相当キレているわね)
と、女の修羅場に慣れているミランダは冷静に対峙する。
ディオンの方も、先ほどまで自分を熱っぽく見つめていたが、今はどこか冷ややかとも言える眼差しをフォンテーヌ夫人に向けている。
その切り替えの早さに驚くも、やはりフォンテーヌ夫人を特別視していたのではないとわかり、どこかほっとした気持ちにもなる。
「夫人。あなたが俺とミラの仲をあれこれ詮索するのはけっこうだが、彼女を不安にさせ、傷つけるような言葉をかけるのはやめてほしい」
「なっ、だ、だって陛下は王妃殿下のことなんて何とも思っていないのでしょう? その証拠に夜も――」
「夫人」
鋭く咎める声に、フォンテーヌ夫人だけでなく、その他の夫人やミランダ自身も思わずびくりとしてしまう。
「あなたは今、俺たち夫婦のプライバシーを侵害することを口走ろうとしたな。それは到底許されるべきことではない」
「わ、私はただ……」
「あなたのような者は、ミラのそばにいてほしくない。しばらく登城しないでくれ」
止めの言葉を刺され、フォンテーヌ夫人は目をカッと見開いた。喘ぐように口を開き、もうやめておけばいいのに、知らなければならないというように問いかける。
「陛下は……ミランダ様を愛していらっしゃいますの?」
ディオンはミランダを見ると、淀みない口調で答えた。
「ああ。愛している」
フォンテーヌ夫人はそこで意識を失い、ぱたりと倒れてしまった。