第三章
ディオンと結婚してから、数週間が過ぎた。
(悪いことをしてしまったわね……)
自室でグランディエ産のお茶を味わっていたミランダは小さくため息をついた。
せっかくディオンから歩み寄ろうとしてくれたのに事情を説明できず、良くない印象を与えてしまった。あれからディオンの態度はどこか余所余所しくなり、警戒されているのがひしひしと伝わってくる。
夜も一応、一緒に寝てくれるのだが、背を向ける形で、夫婦の営みもなかった。
『あなたはまだこちらに来て日が浅い。環境に慣れるまで、まだ時間を置こう』
と、もっともらしいことを告げられたが、恐らくディオン本人が乗り気ではない。ミランダとしては気持ちが通わぬまま身体を繋げるのは正直嫌だったので(あと初めては痛いと聞いていたので)、正直そこまで傷ついていない。
王妃として、妻としてそれもどうなんだと思わなくもないが……結局自分も、まだディオンのことを信用できていないのだろう。
(でも、またミランダ呼びに戻ってしまったのは少し寂しい)
ミラ、とあの低く、心地よい声で呼ばれるのはけっこう好きだったのに。
(まぁ、仕方ないのだけれど……)
そうなるよう振る舞った部分もある。試すようなことをしたのも、ミランダの選択だ。それでも……。
「はぁ……」
気づけばため息ばかりついてしまう。
「姫様。そう思い悩むならば、なぜさっさと事情を打ち明けなかったのですか」
「お姉様がお母様に虐められていたから、わたしが悪役を買って出ていましたって? 何だか逆に怪しくない? 嘘臭くない? いえ、わたしのお姉様に対する気持ちは嘘偽りないけれど、初対面のディオン様が信じるかどうかと言うと微妙で……それに、お姉様をわたしの身代わりにディオン様に嫁がせようとしていたことは本当だもの。お姉様のためだったんです! 悪気はなかったんです! って説明しても、ディオン様からすれば、なんだそれ、って思うのが普通でしょう。だから――って」
一体自分は誰にペラペラ言い訳しているのだ。
いや、この部屋には侍女がいる。グランディエ国側が紹介してくれた人間で、でもまだ会って一日目だというのにやけに馴れ馴れしい、だが自分はなぜかとても自然に受け答えしていて……。
(まさか……)
ミランダはちらりと侍女の方を見上げた。後ろで高く結んでいる髪は銀髪で、首を傾げるその秀麗な顔立ちは一見女性に見えるものの、物凄く既視感のあるもので――
「……あの、もしかして、あなたロジェ?」
「はい。ロジェです」
「何しているの!?」
思わず大声で言いながら身を仰け反らせてしまう。
「姫様。もうグランディエ国の王妃になられたのですから、少々落ち着いてください」
「その失礼な物言いは間違いなくロジェね。あなた、なんでこんな所にいるの!?」
ロジェにはミランダの母国であるメナール国に残るよう命じておいた。母や姉の様子が気がかりで、もし何かあった時、代わりに対処してほしかったからだ。
それなのにしれっとミランダのもとにおり、職務怠慢かと彼女は眉をつり上げる。
主の怒りを察していながらも、ロジェは実に涼しい顔で「そう怒らないでください」と淡々と説明する。
「王妃殿下とジュスティーヌ様のことはきちんと監視しておりました。お二人とも特に問題はなく、大丈夫だと判断した上でこちらへ来たのです。もし何かあった時のために、私の信頼できる部下にも、様子を見守らせています」
「……わたしはあなたが一番信頼できるから任せたのだけれど」
拗ねたように言えば、ロジェはほんの少し口の端を上げた。
「私が育てた部下です。信頼できませんか?」
「そういうわけじゃないけれど……はぁ、わかったわよ。あなたが大丈夫だと言うのだから、信じるわ」
「はい。カミーユ様も任せてほしいとおっしゃっていましたから、安心してください」
「あの子の名前を聞くと、また心配になってきたわ」
ここにカミーユがいたら、「ひどい姉上。僕だってやる時はやるよ?」と文句を述べるだろうが、どうもあの弟は手心を加えることを知らない時がある。
「まぁ、いいわ。ひとまずそのことは置いておくとして……どうして女装しての登場なの?」
「似合っておりませんか?」
「むしろ似合いすぎて怖いくらいよ」
呆れながらそう言ったつもりが、ロジェの表情はどこか誇らしげだ。
「その髪の長さ、短期間でそんな伸びるわけないわよね。カツラ?」
「そうですね。この結っている部分だけ、上手くくっつけたんです。少し頭が重たく感じますが、やはり女性と言えば髪が命ですからね」
サラッと後ろに払う仕草が憎らしいほど様になっている。
「この格好のおかげで、すでに何人か落とすことができたので、いろいろ情報を収集できると思います」
(落とすって何?)
物理的にだろうか。いや、女装しているということはつまり……ミランダはそれ以上考えることをやめた。
(育て方、間違えたかしら……)
ロジェの類まれなる才能を褒めながら基本的に自由にさせてきたつもりだが……いや、もう深く考えるのはよそう。
「ええっと、それで……」
「私が得た情報によりますと、グランディエ国の国王陛下含めて側近たちはみな、姫様のことを信じていない様子です」
「そうみたいね」
「ご存知でしたか」
まぁね、とミランダは苦笑する。ディオン本人からそう言われたのだ。間違いない。
「それで、どうしますか」
「どうするって?」
ロジェは全く表情を変えずさらりと述べる。
「このまま離婚に持ち込み、故国へ帰りますか」
離婚という言葉にミランダはぎょっとしたが、やがて呆れたように肩の力を抜いた。
「どうしてそうなるのよ」
「ここにいても、あなたが幸せを得られるとは思えないからです」
だからといって結婚してそうそう離婚など許されるはずがない。これは国同士の決まり事なのだから。
ミランダがそう伝えれば、ロジェは押し黙ったのち、口を開いた。
「あなたらしくありませんね」
「あなたの目から、普段のわたしはどう映っているのよ」
「物事に執着せず、無理だと思ったら潔く手放す。そのことに微塵も後悔は抱かない方です」
「薄情な人間ね」
まぁ当たっているので特に訂正はしない。別にロジェも悪い意味だけで言ったわけではないだろうから。
「私の主は、不遇な立場に置かれて耐え忍ぶよりも、ご自身でさっさと未来を切り開く神経の図太い……いえ、逞しい方ですから」
神経の図太いという言葉は聞かなったことにしてあげよう。
「そうよ。よくわかっているじゃない。……だから、何とかしようって考えているところよ」
「……あの男にお心を許したのですか」
「国王陛下、でしょ。言葉遣いには気を付けなさい。……ディオン様のことは、正直まだよくわからないわ。でも、せっかく結婚して縁ができたもの。それに話してみた感じ、悪い方ではなさそう。振る舞いも余所余所しさはあるけれど、丁寧な方よ。だから……そうね、夫婦として仲を深めたいと思っているわ」
ミランダがそう言うと、ロジェはまた沈黙した。
納得するのは難しいだろうか……と思っていると、やがてゆっくりと口を開いた。
「承知いたしました。では、姫様がここで故国にいた時のように暮らせるよう、下僕である私も尽力いたします」
「ありがとう、ロジェ」
ミランダはつい安堵した表情で礼を言った。何だかんだ言いつつ、気心の知れた人間がそばにいることは心強かった。
「礼には及びません。それで最初の話に戻るのですが、陛下に本当のことを話すつもりはないのですね」
姉のジュスティーヌを幸せにするために意地悪していた……ように見せかけて助けていたことを話せば、ディオンの誤解も多少は解ける可能性がある。
「ええ。信じてもらえるか不安だっていうのもあるけれど……ディオン様と結婚した今では、彼に対して失礼なことをしてしまったと思って……」
ミランダが一番に考えていたのは、ジュスティーヌの幸せである。もちろん姉とディオンならば上手く付き合っていけると確信したからこその後押しであったが、ディオンの気持ちを無視していたことは確かだ。
そのことに、結婚した今では罪悪感を覚えていた。
「姫様はそういうところ、意外と真面目ですよね」
「失礼ね……。まぁ、とにかく、そういうわけだから済んだことは済んだこととして、これから名誉挽回していく方向で頑張ろうと思うの」
「なかなか遠回しなことをしていると思いますが……承知いたしました」
賛同を得て今後の方針を決めたミランダは、気持ちが明るくなった。
「そうと決まったら、明日からいろいろと頑張るわ」
ロジェは主人の宣言に微かに頷き、ちらりと扉の方を見やった。
「まずは、あなたに仕える者からですね」
◇
「おはよう」
ミランダを起こしに来た侍女たちに挨拶すると、彼女たちは一瞬身を硬くし、数秒後に「おはようございます、ミランダ様」と畏まった様子で挨拶を返した。
「ふふ。今日もよろしくね」
優秀な彼女たちはいつも女主人であるミランダよりも先に挨拶していたのだが、今日はミランダの方から声をかけてみた。自分を意識してもらいたくて。
(子どもっぽいかしら)
でもコミュニケーションをとるには、茶目っ気も必要だと思う。
「昨日選んでくれたイヤリング、結ってくれた髪によく似合っていたわ。今日もそれでお願いできる?」
「今日のお洋服、どれがいいかしら。あなたはどう思う?」
「あら、素敵ね。じゃあ今日はそれにするわ」
さりげなく褒めながら、ミランダは侍女たちに問いかけ、彼女たちの言葉に耳を傾けた。彼女たちは最初いつもと違うミランダの様子に少し訝しみ、戸惑いを見せながらも、ミランダの要望に応えていく。
「ありがとう」
無事に身支度を整え終えたミランダが、よく故郷で両親に見せていた笑顔でお礼を述べれば、彼女たちは顔を見合わせたあと、どこか照れたように笑みを浮かべていた。
「――どうしたんだ?」
朝食の席で、ディオンが堪りかねた様子で訊いてきた。ミランダの口角がいつもより上がっていたことも、ちらちらと視線を注いでいたので気づいたのかもしれない。
「どうした、とは?」
「いや……いつもより、侍女に積極的に話しかけていたから」
一緒の寝室で同衾していたのだから、ディオンも今朝の様子は当然目にしていた。
(何か企んでいる、って思われたかしら)
だったら念のため誤解は解いておかねばならない。
「わたくし、今まで彼女たちに遠慮していましたの」
「遠慮?」
「はい。やはり異国から嫁いできた人間ですから、初めからぐいぐい距離を詰めてしまっては、いろいろ困惑すると考えて、しおらしくしていましたの」
実際は好かれていない雰囲気を感じていたので、必要最低限の接触で済ました方がお互いにいいだろうと思ってあえて何もしなかった。
でも、やはりそれではだめなのだ。
「わたくしもこの国の一員になりましたもの。上下関係を完全に崩すことはできませんが、それでも仲良くなりたいとは思っております」
「……なるほど」
ディオンの相槌にミランダはにっこり笑う。彼はその笑顔をしばし見つめたあと、ふいと視線を逸らす。
「だが、彼女たちよりもまずは俺と……」
「え?」
コホンと彼は咳払いする。何か気分を害してしまっただろうか。
(いつもはきはきとおっしゃるのに今はぼそぼそ呟いて聞こえなかったもの)
そう思ってミランダはもう一度言ってくれることを期待したが、ディオンは目を逸らして「そろそろ俺も執務室へ行く。あなたはまだゆっくりしていくといい」と言って、足早に出て行ってしまった。
(朝の散歩、ご一緒したかったわ)
そこでふと気づく。
今までずっとディオンに誘われることを待っていたが、別に自分から誘ってもいいではないか。もし断られてしまったら……と考える前に、まだ行動に移せてもいない。
(うん。明日は思い切って誘ってみよう!)
何だかジュスティーヌの離宮に通っていた頃を思い出し、ミランダはくすりと笑った。
振り向いてほしくて追いかけることには慣れているのだ。