終章
王立歌劇場で起こった、国王夫妻襲撃事件は世間を大いに震撼させた。
死者こそ出なかったが、怪我人は出ており、国王夫妻も危うく殺されるところだったのだから。
しかし、決して後味の悪い話とはならなかった。
なぜなら国王は王妃を守るために自ら剣を取り首謀者と勇猛果敢に戦った。
そして王妃も国王を狙う刺客から身を挺して庇った。
二人の勇姿は、新聞が大袈裟に書き立てずとも、その場にいた観客の口から直々に伝えられたので、あっという間に噂となった。
「もうすごかったんだから! 国王様も王妃様もかっこよくて!」
「最後、飛び蹴りしたメイド? もよかったな。あの人何者なんだろうか」
「何でも王妃様付きの侍女らしいわよ」
「へぇ! それはすごい!」
という具合に。
おかげで、国王夫妻と王妃付きの侍女の評判は上がった。事件は――劇はハッピーエンドで締めくくられたのだった。
「――ドニ・ルフェーブルの筋書きとは真逆になりましたわね」
「ああ。やつは俺を殺し、物語を文句なしのバッドエンドに仕立て上げようとしていたからな」
ドニ・ルフェーブルには裁判がかけられ、処罰が下される。
彼の仲間――怪しい金儲けで引き入れた者たちも同様だ。一歩間違えば大虐殺を引き起こした事件なので、死刑か一生を牢屋で過ごす人生となるだろう。
「ドニ・ルフェーブル。麻薬の密売や劇場で稼いだお金も横領していたそうだ」
「銃も秘密裏に持ち込んだものなのね……」
見せてくれた報告書を読みながら、ミランダはドニの悪事に改めて呆れと恐怖を覚える。
どこか道化じみた言葉遣いも、最先端の武器を使わせながら最後は弓でディオンに止めを刺そうとしたことも、ただ復讐を果たすにしては非効率だ。彼なりの殺し方があった。それこそ、本当に過去のクーデターを再現し、悲劇として幕を閉じるつもりだったのだろう。
(こちらとしては悪趣味極まりないけれど)
「ミラ。危険な目に遭わせて本当にすまない」
「もう、ディオン様。それ何度目の謝罪ですか」
ディオンは自分が観劇に誘ってしまったばかりに襲撃事件が起こってしまったと考えている。だからそれはもう深く落ち込み、ミランダの顔を見ては謝罪の言葉を口にするのだ。
「一階で観ないかという誘いに応じようと言ったのはわたしです。わたしにも責任がありますわ」
「いいや、あなたは何も悪くない。……あの男は広場で会ったピエロ……あなたが怖がっていた者だった。その時点で警戒して劇場へ行くべきではなかったのに俺は――」
「悪いのはドニ・ルフェーブルです。それに彼の性格上、あの手この手を使って、わたしたちを劇場へ行かせようとしたでしょう。いえ、もしかすると、彼自ら、王宮へ来て、事件を起こしたかもしれませんわ」
そうなれば、王宮が襲撃事件の惨状となったであろう。劇場よりもはるかに大事になりそうで、その意味では劇場でよかったのかもしれない。
ちなみに劇場は今閉鎖中である。シャンデリアや客席が壊されて、かなり滅茶苦茶な状態であるので修復している最中だ。また、劇場を運営していたスタッフや役者のケアも。
ドニはミランダたちが訪れた当日に悪役であった役者に薬を飲ませて部屋に閉じ込め、自分が代役を務めることで舞台に上がったそうだ。彼の出自や犯した罪に劇団員たちは強いショックを受けている。当分の間、上演するのは難しそうだ。
「ドニ・ルフェーブルの犯した罪は大きいです。わたしは絶対に彼を許すことはできません。関係ない人を大勢巻き込み、あなたを傷つけようとしたのですから」
「ミラ……俺もだ。だからこそ俺は自分が許せない。俺はあなたを――」
ミランダはディオンの唇にそっと指を押し当て、謝罪を封じ込めた。
「もし罪悪感を抱いているのならば、そろそろ寝台から降りることを許してください」
そう。ミランダは寝室にて監禁……ではなく、療養を命じられていた。
自分でも思った以上にショックを受けていたのか、眩暈がして倒れてしまったのだ。その後熱が出て……ディオンたちをとても心配させてしまった。
熱で魘されている間、ディオンの「ミラにもしものことがあったら、俺も後を追う」という思いつめた声が聞こえ、「陛下! お気を確かに!」というクレソン公爵やヤニックたちのやり取りを耳にした気がする。
「ご心配をおかけしましたが、もう十分よくなりました。クレソン卿からもお見舞いの品をたくさんいただいて……直接顔を合わせて、お礼を言いたいのです」
高級品だとわかるとても美味な果物を毎日籠に詰めて贈ってくれるのだ。
他にも花や菓子など、クレソン公爵以外からも贈られて、ミランダは何だかとても申し訳なかった。
「ね? だから……」
「わかった。だが、あと一日だけ、安静にしてくれ」
そう言ってディオンはミランダを抱きしめた。
「あなたを失っていたかもしれないと思うと、俺は今でも震えが止まらない」
「ディオン様……」
「もうあなたなしでは生きていけない……」
そんな大げさな、と思う台詞であるが、ディオンの表情は切実で、見ていると胸が締め付けられた。今回の事件で、自分よりもディオンの方が精神的に深手を負い、休息を必要としているようにミランダには思えた。
(なら……えいっ)
ミランダはディオンに抱き着いたまま、ごろりと寝台に横になった。
「ミラ?」
驚く彼の目を優しく見つめながら、ミランダはそっとやつれた頬を撫でた。
「ディオン様は、わたしのことが本当に好きなのですね」
「ああ、そうだ。気づいたら、あなたのことをとても好きになっていた」
「わたしの勘違いでなければ、わりとすぐに好意を寄せてくれましたよね? 一体どこにそんな惹かれたのですか?」
ミランダの問いかけにディオンはふっと相好を崩した。
「それを自分で訊くのが、あなたらしいな」
「だって不思議でしたもの。わたし、あなたに嫌われるような噂を嫁ぐ前に作っていましたし、疎まれるのも仕方がないと思っておりました」
いつかは受け入れてもらえるといいな……と願っていたが、長い時間を要すると覚悟していた。
「何か、きっかけがありましたの?」
「そうだな……決定的にこれ、と言い切るのは難しいが……ただ、初めて一緒に寝る時、あなたはすでに寝ていただろう? その無防備な寝顔を見ているうちに、何だか警戒心が解けた気がする」
「まぁ。寝顔で?」
「そうだ。姉さま、と寝言で幸せそうに呟いていて……そう、その時に嫌がらせしている相手の名前を、そんなふうに口にするだろうかと疑問を抱いたんだ」
ではわりと初めの頃からディオンはミランダの噂に懐疑的だったのだ。
「あとはやはり話しているうちに、噂とは違う女性だと思った。一緒にいて非常に心地よかった。あなたはいつも俺のことを気遣って、朗らかに話してくれる。周りの者たちにもだ。場合によっては、自分が泥を被っても気にしない。清々しいほどあっさり割り切れる。きっとジュスティーヌ殿にもそうだったのだろう。あなたから事情を教えられ、俺は……」
「俺は?」
「ジュスティーヌ殿に嫉妬した」
「お姉様に?」
ディオン様が? とミランダは目を丸くする。異性ならともかく、同性、しかもミランダの姉である。そんな相手に嫉妬するものだろうか。
「当然だろう。自分を犠牲にして、いついかなる時も真っ直ぐに彼女のことを考えて、幸せを願って涙を流す。そんなふうにあなたから思われて……とても羨ましい」
「ディオン様……」
彼は少し気まずくなったのか、そう言えば、と付け加えた。
「あなたの祖国に襲撃事件のことを報告して、見舞いの品が届いている。ジュスティーヌ殿からの手紙も」
「えっ、本当ですか!?」
それはすぐに見たい! とミランダががばりと起き上がって、お見舞いの品が山のように積まれているテーブルのもとへ行こうとすると、お腹に腕を回されて、阻止された。ディオンにである。
「ミラ」
その縋るような甘えた声に、ミランダはぴたりと止まる。彼は起き上がり、改めてミランダを後ろから抱きしめて耳元で尋ねた。
「俺を、甘えさせてくれるんだろう?」
ディオンはミランダが急に寝台に倒れ込んだ目的を、すべて見抜いていた。さすが我が旦那様である。
「ええ……もちろんです」
彼と一緒に過ごすようになってわかったことだが、自分はどうやらこういった触れ合いの時かなり羞恥心を覚えるようだ。急に借りてきた猫のように大人しくなって、ディオンに可愛いと言われたことを思い出す。今も、彼は笑いを滲ませて、ミランダの名前を呼ぶ。
「あなたが愛おしい。この時だけは、俺だけのあなただ」
「……わたしは、あなたのものですよ?」
ふっとディオンがどこか寂しそうに笑う。
「あなたは魅力的で、優しいから。先ほども、姉君のもとへ行こうとしていたではないか」
「う、それは、つい……」
「あなたの弟君やご両親もあなたのことを心配して、療養としてこちらへしばらく里帰りしてはどうかと手紙を寄越してきた」
まさかそんなことを。そしてミランダの家族にも嫉妬しているかのように聞こえるディオンの口調にミランダは何やら焦り始める。
「あとはやはり、ロジェだな」
「ロジェも?」
「そうだ。彼は、悔しいことにできる男だ。今回の襲撃も、彼のおかげで無事に済んだと言っていい。俺よりも、ずっと頼りになる。だから……」
そこでディオンは口を閉ざしたが、ミランダは彼がロジェを選んだ方がいいのではないか、あるいは自分よりも相応しい、といったことをディオンは言おうとする気がした。
「確かにわたしとロジェは年が近いので、誤解なさるかもしれませんが、ロジェはわたしに忠実です。主人の想い人との仲を引き裂くような真似は決していたしません」
「そう、だな。だが……」
「それに以前も言いましたが、あなたとクレソン卿のような関係ですわ」
ミランダは振り返り、からかうような表情で答えた。
「つまり、息子を心配する母親のような関係です」
「母親……ではあなたはクレソンを姑のように思っているのか?」
「クレソン卿は男性ですので、舅と言った方が正しいかもしれませんね」
「うん、まぁ、そうだな。姑よりかは舅の方がいいだろう……」
クレソンの話で嫉妬する気持ちが削がれたのか、ディオンが眉根を下げる。
そんな彼に、ミランダはさらに以前から思っていたことを打ち明ける。
「わたしも、あなたとクレソン卿の関係に嫉妬していたのですよ?」
「そうなのか? なぜ?」
「どちらもお互いを信頼していて、クレソン卿に対してディオン様は時々砕けた態度をお見せになるから」
ぱちぱちとディオンが目を瞬く。
「見せている、か? たまに口うるさくてぞんざいに扱ってしまうことはあるが……」
「ふふ。そういうところが、わたしの目には羨ましく映るのです」
「それを言うなら、あなたこそ、ロジェ相手には遠慮なく物申して――」
そこでディオンはミランダが言ったことに気づく。
「ね? 同じでしょう?」
「……うん。まぁ、同じだな」
どこか腑に落ちなさそうな顔をしつつ、一応ディオンは納得してくれた。
ミランダは機嫌を取るように彼の頬にそっと口づけする。あまりこういったことは自分からしたことがなかったので、ディオンが驚く。
「ディオン様はわたしの特別な人。……好きということです」
はにかみながら自分の想いを伝えれば、食い入るように見ていたディオンに突然抱きしめられて押し倒された。
「ミラ、なんて可愛いんだ。好きだ。愛している。死ぬまで、いや、死んでからもあなたを離さない!」
「し、死んでからも? それはけっこう重い愛ですわね」
「嫌か?」
「嫌では、ない、ですけれど……。ただ、ディオン様がそんなことをおっしゃるなんて、なんだか意外で」
初めて会った頃のイメージとだいぶ違う。愛の言葉などめったに口にしない、硬派な人間だと思っていた。
「あなたが俺を変えたんだ」
それも、あるのだろうか。ミランダがディオンに恋をして変わったように。
(でも……)
「ディオン様は、もともと情熱を秘めた方だったのかもしれませんわ」
祖父や両親が亡くなり、早くに王位に即いたので、本来の性格を封じる必要があった。
ミランダがジュスティーヌを守るために悪女を演じていたように、ディオンも本来の自分とは別の――グランディエ国にとって理想の、強い王を作り上げ、演じていた。
「なるほど……。だが、あなたの前ではもう必要ないな」
「はい。わたしの前では、本当のあなたを見せてください」
ミランダはそう言うと彼の首に腕を回し、今度は唇に口づけした。
ディオンがすぐに想いに応えてくれる。
二人はそのまま、二人だけしか知らない甘い時間を過ごすのだった。
◇
ドニ・ルフェーブルの件が片付き、ようやく平穏を取り戻した頃。
ミランダはもう一度ディオンに歌劇を観たいとねだった。ディオンは意外だったのか、不安そうな顔をした。
「怖くないか?」
「まったく、と言ったら嘘になりますけれど、大丈夫ですわ。警備もしっかりしているでしょうし……今度こそ彼らの演じるハッピーエンドを観たいんです」
国王夫妻が命を落としかけたこともあり、歌劇場の評判も下がってしまった。劇場で働いていた人間も深い傷を負っており、しばらく閉鎖されていたのだ。
しかし彼らはいつまでも悲嘆に暮れていてはいけないと少しずつ立ち直り、足繁く通っていた観客も再開を待ち望んでいる。
ミランダは自分たちが再び足を運ぶことで、劇場のイメージを払拭できるのではないか、力になりたいという思いがあった。
ミランダがそう伝えれば、ディオンは困ったような表情で微笑んだ。
「まったく。あなたは思いやりに溢れているな」
「あら。わたしのためでもあるんですよ?」
ミランダは微笑む。
「あなたとデートができるんですもの。今度こそ、ボックス席でね」
「ミラ……」
やっぱりあなたには敵わない、とディオンが言い、すぐに特等席を予約するよう側近に命じるのだった。
やり直しのデート当日。
今度は誰にも邪魔されず……と言っても、護衛は以前より増やし、個室の外に待機しているのだが、一階席よりもより親密な距離間があった。
気づけば二時間少しの公演はあっという間で、終わった後は深い余韻に包まれた。
「よかったな」
ディオンも酔いしれたような口調でそう感想を述べた。
「ええ。王女が自分の想いを告げて、国王もそれに応えるシーンは特によかったですわ」
「そうだな。俺は最初……まるであなたと俺の話のようだと思った」
「え、わたしですか?」
ジュスティーヌではなく? と思ったが、考えてみると、実際に嫁いだのは自分であった。
「でも、わたしはあんなふうにいじめられていませんし、王女のように健気で可憐でもありませんわ」
わりと図太い性格をしているし、いじめられたら何倍にしてもやり返す。
「そんなことない。俺のそっけない態度であなたを傷つけて寂しい思いをさせてしまった」
(そこまで傷ついてはいないけれど……)
「ええっと、その、物語の王様とディオン様も違うと思いますけれど……」
物語の王は最後までどこか高圧的で偉そうな感じであるが、ディオンは違う。
確かに雰囲気など少し怖い印象はある。でも実際話してみるとすごく話の分かる優しい人だ。
(それに最近、雰囲気も柔らかくなったとクレソン卿やヤニックも言っていたもの)
王妃殿下のおかげです、と彼らは言っていたが、やはりディオン本来の性格なのだとミランダは思う。
「とにかく、いろいろ違いはありますから。あ、でも、最後は両想いになって幸せになるという点は同じですね」
「そうだな。今度こそ、ハッピーエンドで幕が閉じた」
「はい!」
ディオンはにこにこ微笑んでいたミランダをそっと抱き寄せる。
「ディオン様、誰かに見られたら……」
彼は赤いカーテンを引き、客席の目を隠す。
「人が引くまで、少し待っていよう」
カーテンを引いたことで逆に注目を浴びるのではないかと思ったが、今開けてしまえばやはりそれも人目を引いてしまう気がして、結局ミランダはディオンの体温を大人しく間近に感じた。
「ミラ」
「な、なんでしょうか」
「いや……何でもないよ」
からかうようにディオンが微かに笑って、ミランダの髪に口づけを落とす。
こめかみや頬にも触れて、唇にもしようとしたので、ミランダは反対の方を向いて阻止しようとする。だがやや強引に頤に手をかけて、振り向かされた。
琥珀色の瞳は焦がれるように自分を見つめており、抑えきれない欲望が渦巻いている。
いつものミランダならば、ダメだと――せめて王宮へ帰り、部屋で二人きりになるまで待ってほしいとお願いしただろう。
でも、幸せに満ちた劇を観た余韻のせいか、何も言わず、むしろ自分から顔を寄せて、ディオンの口づけを受け入れた。
「ん……」
唇が離れ、目をゆっくり開けて、互いの瞳を見つめ合う。
「愛している、ミラ。あなたが俺のもとへ嫁いできてくれて、俺は一生分の運を使い果たしたと思っている」
「ふふ。大げさですわ。それにわたしこそ、あなたと結婚できて幸せを手に入れた身ですわ。あなたの隣にいる幸せは誰にも渡すつもりはありません」
ジュスティーヌにもだ。もっとも、姉も最愛の人と幸せになれたのだから、譲られても困るだけだろうが。
(今ならお姉様の気持ちがわかる)
互いに好きな人のことで話してみたい。まだ当分の間はディオンのそばを離れる気はないので、だいぶ先になってしまうだろうが、いつか、必ず……。
「わたしも、愛しています。ディオン様」
ミランダが微笑んで同じ想いを返せば、ディオンはもう一度ミランダに深く口づけする。
身代わりに姉を差し出そうとした悪い妹は、異国で王様に愛されて、末永く幸せに暮らした。
そんな物語がグランディエ国で大人気になるのは、もうしばらく後のことである。




