(2)
一階の席も値段的に決して高くはないし、二階席とはまた違った景色などが楽しめるのだが、貴族はボックス席で観劇することが多かった。
こちらの方が値段も高くなり、やはり人目を忍んで観ることができるのでいろいろ都合がいいのだ。
「まぁ、国王陛下と王妃殿下だわ」
「この席で観るなんて、珍しいわね」
(うう。やっぱりわかるわよね……)
今日は街に出かけた時のように変装もしていない。おまけに護衛とわかる人間もいるので、高貴な人間であることは隠しようがない。
(あの場ではつい一階で観ましょう、って言ってしまったけれど、やっぱりディオン様はボックス席でご覧になりたかったわよね)
隣に座るディオンの顔はどことなく不機嫌そうで、ミランダは悪いことをしてしまったと申し訳なく思う。
「あの、ディオン様、強引にこちらに座ることになってしまってごめんなさい」
ミランダがしゅんとした様子で謝罪すれば、ディオンは驚く。
「なぜあなたが謝る。あそこまで言われたなら断るのは難しいだろうし、支配人にはいろいろ世話になっている」
きちんと納得していると言われ、ミランダはほっとする。でも、それならなぜそんな残念そうな顔をしているのだろうか。
「……ただ、あなたと二人きりで観たかっただけだ」
「え」
それって要は――
「つまり個室で二人きりになりたかったということですね」
「陛下ってば、案外むっつり、いてっ」
前と後ろに座っていたアルノーとヤニックにそれぞれ代弁してもらい、ミランダはまじまじとディオンを見つめる。前に座るヤニックの頭を叩いていたディオンはどこか気まずそうに視線を逸らし、咳払いした。
「まぁ、そういうことだから、あなたに対して怒っているのではない」
「それなら、よかったですわ」
ミランダはディオンの気持ちを知れて嬉しかった。
(可愛い人)
「……今度は、二人だけで観ましょうね」
指を絡めて、小声でそう約束すれば、ディオンも耳を赤くしながら頷いてくれたのだった。
こうした些細なやり取りでも胸が甘くなり、満たされた心地でミランダが前を向くと、ふと右隣にいるロジェのことが気になった。
こういう時、彼もヤニックたちに交ざってディオンやミランダをからかうというのに。
「どうかしたの、ロゼ?」
ミランダの侍女として今日も仕えている彼は、視線を彷徨わせて何かを探しているようにも見えた。だが、ミランダの言葉でそれもやめる。
「いえ、ただ、歌劇場というのは、こういう場所なのかと思いまして」
「あら。まるで初めて来たような言い方ね。メナール国にいた時も、わたしの護衛として何度か連れて行ってあげたでしょう?」
「その時は寝ておりましたから」
正直な告白にミランダは呆れてしまう。
ロジェが肩を竦めて弁解する。
「私も別に寝ようと思って寝たわけではございません。ただその頃はちょうどジュスティーヌ様のことや他にもたくさん片付ける問題があって、寝る間も惜しんであちこち走り回っていたので、襲いかかる睡魔に逆らうことが難しかったのです」
ジュスティーヌの問題含めてすべてミランダが命じたことである。つまりミランダに責任があるという遠回しなロジェの指摘にミランダも分が悪い。
「悪かったわよ。でも、無理なら無理って言ってもよかったのに」
「いえいえ。姫様に何かございましたら大変ですから。それに仮眠するのにちょうどいいと思っていたので」
「……ロゼならば、今回は楽しみなさいね」
「はい。変装の参考にします」
普通に楽しめ、と言うのは、ロジェにはもはや難しいことなのだろうか。
ミランダは遠い目をして、もう前を向くことにした。
「何を話していたんだ?」
隣のディオンが気になった様子で訊いてくる。
「ええっと、たわいない話ですわ」
「ふぅん……」
ディオンは気のない返事をしながらも、握った手に力を込めてくる。
(妬いていらっしゃるのかしら)
「……何を笑っているんだ」
「ふふ。笑ってなんていませんわ」
「笑っているじゃないか」
「笑っておりませんよ」
「お二人とも。そろそろ始まりますよ」
アルノーに注意され、二人は口を閉ざす。
(ええっと、確か有名な劇作家が書いた話、よね)
歌劇はだいたい悲劇が多いのだが、この作家が書く話は喜劇の方が人気で、子どもから大人まで楽しめる話もあるという。ミランダも血生臭い話はデート向きではないと思うので、ちょうどよい。
今回上演される話は、敵国に嫁いだ王女が最初は誤解されて国王や臣下に辛く当たられるものの、次第に彼女の優しくも凛とした人となりにみなが惹かれて、国王にも愛されて終わるという話だ。
(何だかわたしがお姉様に抱いていた話みたい)
ジュスティーヌの美しさと優しさにディオンが惚れて、溺愛することをかつてミランダは望んでいた。
今は自分がディオンの妻となったので、想像するだけでモヤモヤしてしまう。何とも勝手な話ではあるが。
(冷静に考えてみると、あの時のわたしっていろいろ無茶していたわね)
ディオンによく愛想を尽かされなかったものだ。
とかなんとか横道に思考が逸れていたミランダも次第に演者の演技や歌声に意識を奪われ、物語の世界に惹きこまれていく。
物語はあっという間に佳境に入り、国王に恨みを持つ者たちに誘拐された王女の見せ場となる。
「こんなことをしても、わたくしがあなた方に屈することは決してありません!」
(王女さま、かっこいい!)
さすがヒロイン。美しく聡明な彼女の凛とした声と姿にミランダは胸が熱くなる。
「おお、白百合のような可憐な姫君よ。嫋やかなようで、折れぬ芯の強さを持ち合わせている。だがこれで終わりさ。あなたはここで、私に手折られて命を終えるのだ。そうすれば、あなたにすっかり心を許してしまった国王も、信頼し始めた臣下や民たちの心もすべて、絶望に突き落とすことができるのだから」
敵役の一人であり主要人物にあたる、黒いマントに不気味な仮面をした男が姫を襲おうとする。振りかざされる剣戟から蝶のように姫が逃げ惑い、仮面男が後に続く。
「ああ、おやめください」
ヒロインの恐怖と絶望を掻きたてるような音楽も流れ、観客はみなはらはらする。
(もう! 国王は何をしているのよ!)
早く助けに来て! とお芝居でありながらミランダは焦燥感に駆られ、切に願う。
「姫! もうここまでです」
「いやぁぁ」
姫の悲鳴が合図となったように、突然空気を切り裂くような破裂音が響いた。
観客は一瞬演出で鳴った音かと思ったが、一階席の真上にあるシャンデリアが揺れたことで、違うと発覚する。
(え、なに)
音はもう一度鳴り響き、今度は客席からも悲鳴が上がった。
(この音って……)
振り返ると一階席の後ろ、舞台とは反対方向の出口前に顔を隠すようにフードを被った人の姿が見えた。体格からして恐らく男だろう。
彼の手には黒い小型の――グランディエ国やメナール国では所有が禁止されている銃という武器が握られていた。
もともと海を渡った異国で作られたもので、引き金を引くだけで簡単に人を殺せるゆえ、平和主義を掲げる国々からは嫌悪されていた。
しかし遠距離で敵を容易に制圧できる利点もあるので、警吏など民を保護する立場にある者は使用許可を与えてもいいのではないかと議論されている。
今使っている者たちは警吏とは絶対に違う存在であろうが。
(それともこれも演出なの?)
「ご観覧している皆様! どうか落ち着いてください! これは我々の復讐劇なのですから!」
こんな状況であるのに舞台の仮面男は朗々と台詞を吐き続ける。
(いえ、あの人だけ?)
相手役のヒロインである女性は訳が分からないといった表情で仮面の男と客席の方を見比べている。
「どうなっているんだ」
「演技なのか?」
客席も騒めき出す。
「あなた方は我々をただの卑しい盗賊の一味としか認識していないでしょう! ですが我々には悲願がある。かつてもっとも王位に近しい立場にいながら、獰猛な野良犬によって喰い殺され、地の果てまで追いつめられた者たちの汚名を雪ぐという使命が!」
(それって……)
突拍子のない単語の羅列に聞こえるが、ミランダにはある出来事を連想させた。
隣を見ると、ディオンが厳しい顔で前を見据えている。
「一度死にかけた私たちはまた蘇ることができた。これこそ奇跡! もう一度、栄光をこの手に取り戻すため私は戦う! 私はこの国の王を殺すのだ!」
剣を握っていた男はマントの内側から銃を取り出し、銃口をミランダたちの方に向けた。そしてこちらがまさか、と思う暇もなく――
「危ない!」
ミランダはとっさにディオンを押し倒すように覆い被さっていた。
発砲音と観客の悲鳴が重なる。
「陛下! 王妃殿下!」
「ミラ!」
「だ、大丈夫です。当たってなど、いませんから」
ディオンも動揺しているのか、ミランダを支える手が震えていた。
「なんて無茶なことをするんだ!」
「お説教は、後で聞きますわ。それより今は、避難を……」
「王妃殿下のおっしゃる通りです。陛下、すぐに避難を」
ヤニックたちに促されて、座席を盾に出口まで向かおうとする。
「逃げても無駄だ! ここはあの時の再現! 国王と寵姫もまた殺されたのです!」
「きゃあああ」
銃声が今度は二階席から上がった。
(どういうこと。敵は複数いるってこと!?)
一階席まで案内されたことも、罠だったというわけか。
彼らにとって、もっとも獲物が狙いやすい位置に誘い込んで、まずは存分に甚振るつもりなのか……。
「危ない、ミランダ!」
下手に動くとかえって危ない。身を低くして蹲るべきかと考えていたミランダは、突然ディオンに力強く引っ張り上げられた。
(えっ――)
顔を上げて視界に飛び込んできたのは、天井に吊り下げられていたシャンデリアが落下してくる光景だ。このままでは下敷きになると思ったミランダを、ディオンが抱えて、通路の方へ飛び退く。
身体が地面に叩きつけられる痛みと、ぎゅうっと抱きしめられる温もりをミランダは感じた。発砲音がまた遠く、もしかすると、ずっと近くであったかもしれないが、ミランダは自分か彼の心臓の音で、よくわからなかった。
「ディオン、さま……」
「無事か、ミラ」
声が出なくて、首を微かに縦に振った。それでディオンが安堵したように目を細める。
「陛下! ミランダ様! ご無事ですか!」
ヤニックとアルノー、他の護衛たちが駆けつけ、周りを囲む。
ミランダも恐る恐る身を起こし、彼らの隙間から見えたシャンデリアの残骸に呼吸が止まりそうになった。
遠くから見るとそれほど大きいように思えなかったシャンデリアは、落下して同じ目線になり、とても大きなものが吊り下げられていたのだと知った。ちょうど真下は、自分とディオンの席である。
(もし逃げ遅れていたら……)
シャンデリアの下敷きになっていたかもしれない。
ミランダはゾッとし、改めて今の自分たちの置かれた状況を突きつけられる。
「ミラ。とりあえずあなただけでも避難を――」
「お待ちください。今の混乱状況では、人混みに紛れて襲われるかもしれません」
人々は突然の襲撃に悲鳴を上げながら出口へと向かっている。確かに敵を紛れさせるならば、絶好の機会だろう。
「くそっ――」
「ああ、陛下。民を見捨ててご自分だけお逃げになるのですか!」
舞台を見れば、男がまだいた。王女役の女性はとっくに逃げ出している。
「何が目的だ」
「どうぞ。舞台に上がってください。対等にお話しましょう」
「ディオン様、ダメです! 絶対に罠です!」
「王妃殿下もどうぞご一緒ください。――いいえ、ぜひそうしてほしい。魔女の再来と言われたあなたには、ぜひ私の話を聞いてほしい。そうするべきだ」
「そんな要求受け入れられるはずが――」
ディオンが却下しようとすると、上から発砲音が鳴る。
「的はあなた方ですが、逃げている人々に当たってしまうかもしれませんね」
仲間が二階席にいるのだろう。
その数はどれくらいか。多ければ多いほど、袋叩きに遭う被害は大きい。
状況が正確に把握できない以上、下手に動くのは危険だ。
そのことをよく理解しているディオンも、悔しそうに拳を握ったのがわかった。ミランダは舞台上でほくそ笑む男を見ながら、ディオンの手に触れた。
「ディオン様。わたしも行きます」
ミランダの言葉にディオンだけでなくヤニックたちもぎょっとする。
「何を馬鹿なっ」
「危険すぎます!」
「ここにいる人たちを誰も傷つけたくありません」
どれくらい仲間がいるかわからないが、観客を人質に取るかもしれない。
血を流させるようなことは絶対にしてはならないと思った。
「大丈夫です。行きましょう」
「ミラ……」
「わたしを、守ってくださるでしょう?」
いざとなれば、自分がディオンの盾となろう。
ミランダがそう心に決めて微笑めば、ディオンは顔を歪めたものの、ミランダと共に歩き出した。
「陛下! 行けません!」
「ミランダ様っ」
「おっと。端役の人間は舞台に上がらないでくれ。汚れてしまう」
「おまえたちはついてくるな」
ディオンの命令にヤニックたちは悔しそうにその場に留まる。
ディオンとミランダが舞台に上がる姿を、逃げずにその場に留まっていた観客たちが見つめる。必死に逃げていた人々の何人かも、何が起こるのかと注意を向けた。
「やぁやぁ。これは感激だ! 今まで国王と王妃の出てくる劇は山のように書いて演じてきたつもりだが、本物の国王夫妻とこうして演じることができるなんて夢のようだ!」
まるで欲しい玩具が手に入ったように男は興奮した様子で話す。
近くで見ると、若く、ディオンたちとそう年齢は変わらないように見えた。
(この男、何者なの?)
「おまえの要求には応えた。今度はこちらの質問に答えていただきたい」
「ええ、ええ。何でもお答えいたしましょう」
「おまえは一体誰だ。ただの脚本家ではないのか」
男はにんまりと笑みを浮かべる。背筋がぞわぞわするような笑みに、ミランダは既視感を覚える。
(まさかこの男、あの時のピエロ?)
ミランダの思考を読んだように、男が口角を吊り上げた。
「私がわざわざ言わずとも、もう理解しているのではないですか。それとも微塵もその可能性に思い当たらないほど愚鈍なのですか」
ディオンを馬鹿にする言葉を、息を吐くように口にした男にミランダは苛立つ。
その感情が顔に出ていたのか、男はまたしてもこちらを見て笑みを深めた。
「王妃様は本当に陛下のことを慕っているのですね。いいえ、敬愛している? 信仰している? かつての王妃様とそっくり! でもあの方の想いは報われませんでした。馬鹿な国王は魔女に心を奪われてしまったから!」
「……あなたは魔女の――男爵夫人の親族……修道院で逃げた女性の一族なの?」
「ええ、そうですよ。いろんな国を渡り、私の代まで受け継がれてきた命です」
「わたしを襲おうとした夫人がいたけれど、その方ともお知り合い?」
親族か何かなのか。だから手を貸したのか。
「ああ。あの女は私のファンでございます。少ない金銭を食い潰して通い詰めるほどに慕ってくれて……。あなたのために何でもしたいとおっしゃったので、魔女の生き残りと偽って王妃殿下を襲うよう頼んでみたのです。まさか本当に試すとは思いませんでしたが!」
ミランダは微塵も罪悪感を抱いていない男の言動に吐き気がした。
「劇作家として身分を隠し、この国に潜り込んだのだな」
「あなたのお父様は、暗くなった世の中を憂い、美しく楽しいものでこの国を満たそうとしました。演劇も好んで、この劇場をお作りになった」
男はマスクを外し、床へ落とした。魔女――男爵夫人がどんな顔をしていたかミランダは知らないが、女性的な美しい顔立ちを男はしていた。
「では改めて自己紹介を。私の名前はドニ・ルフェーブル。どうです、陛下? 私の顔は男爵夫人やその一族によく似ていますか? ああ、でもあなたにとってはもう過去の出来事なので、覚えていらっしゃいませんよね。あなたのお父様やお爺様がご存命であれば、確かめることができたのに」
「ドニ・ルフェーブル。おまえは我が王家に復讐するため、この国へ再び足を運んだというのか。劇場で働いていたのもこの時のためか」
「はい。私の祖母……修道院から身投げし、母親に守られて生き延びた女性の悲願です」
母娘は隣国の領海で漁師に助けられた。そして身分を隠しながら、娘の方が家庭を築き、今のドニまで血を受け継がせているとのことだった。
(せっかく生き延びた命なのに……)
「わざわざこちらに戻って来ず、そのまま隣国で生きていこうとは思わなかったのか」
ディオンも同じことを思ったのか、真意を探るようにドニの顔をじっと見つめる。
「陛下。平民の暮らしを想像したことはおありですか? または毎日人に世話されていた生活から転落し、いきなり全て自分の力で生活していかなければならない、その苦痛を……。父によると、祖母はとても王家の人間を恨んでいたようです。確かに私たちは酷いことをしたかもしれないが、あんな北の果ての牢獄とも言える修道院で一生を送るほど、酷いことはしていない、と……。そんな呪詛めいた言葉を吐きながら、父は育てられました。祖母が亡くなるまで、私も聞いておりました」
そこまで長々と話すと、ドニは微笑した。
そんな話を聞かされて、まっとうに育つ人間はいると思うか? と問うように。
「私が今ここにいるのは、祖母の願いを叶えるためであり、もう半分は私の人生を愉しむためです」
「愉しむためだと?」
「はい。復讐するにしても、いろいろ方法があると思ったのですが、やはり過去の再現をした方が盛り上がると考えました。私はその時まだ駆け出しの脚本家もどきでしたが、将来はきっと売れるだろうという予感がありました。だからこの文才を使おうと……この才能を神がお与えになったのも、きっとこのためだったのだろうと、私は何やら運命を感じましたね」
今までじっとしていたドニが剣を持ったまま、ゆっくりと歩いてくる。
ミランダを後方に庇い、じりじりと後退するディオンにドニが剣を投げた。
「さぁ、陛下。その剣をお取りなさい。私と一対一で戦いましょう」
投げられた剣がディオンの前に音を立てて落ちた。
「大丈夫ですよ。この戦いを邪魔することは誰もいたしません。みな、見守ってくださる」
「何が目的だ」
「私の祖母や一族の汚名を雪ぐことだとお伝えしたはずですが? ……でも、そうですね。こういう時はやはり何かを賭けた方が盛り上がるかもしれませんね。私が勝ったら――あなたが命を落としたら、私が王家を継ぐ」
「何を馬鹿なことを!」
ミランダが我慢しきれず口を挟めば、ドニはこちらを見て続けた。
「そして、王妃をいただく」
ミランダは不快な気持ちになった。
なぜこんな男にディオンが王家を譲らねばならず、また自分が身を差し出さねばならないのか。
(こんな決闘、馬鹿げている)
ディオンが引き受けるはずがない。そう思ったミランダの予想を裏切り、ディオンが足元の剣を拾った。
「わかった。応じよう」
「ディオン様!?」
快諾したディオンにミランダはどうして!? と思う。客席側にいたヤニックやアルノーたちも同じだ。
「陛下。挑発に乗ってはなりません!」
「そうです! 罠です!」
主君が危険に陥ろうとして黙ってみているわけにはいかないと、彼らがこちらへ来ようとする。ドニが手を上げて止める。
「観客が舞台に上がることは許されない。無理矢理退場したいのならばこちらも手荒な真似をするしかない。その場合、他の無関係な客人も巻き込むことになるが」
ドニの脅しにヤニックたちは怯む。
「おまえたちは来るな」
「ディオン様……」
「ミラも、大丈夫だ」
「嘘!」
間髪を容れず否定したことでディオンは驚いたように振り返る。
「あ、いえ、決してディオン様の腕前を信用していないわけでは、ただ」
「わかっている。だがあなたを守ると約束したからな。かっこいいところを見させてくれ」
ふっと微笑んでそう言ったディオンは、剣を構え、ドニと対峙する。ディオンに剣を渡したドニも、腰に佩いていた剣を抜く。
二人が床を蹴ったのは、ほぼ同時であった。
普段から本物を使用して演じているのか、それとも今日この日のために本物を用意したのかはわからないが、ドニは難なくディオンの剣を受け止め、横にさらりと受け流しては鋭く斬り込んでくる。
(ああ、どうしよう!)
ミランダははらはらしながら二人のやり取りを見守ることしかできない。ディオンが負けるとは思っていない。でも――
「どうした、押し負けているぞ!」
ディオンの方が押されているように見えた。
このままでは本当に……と思ったミランダの不安を見透かしたようにディオンが笑みを浮かべた。それは最近見ていなかった、不敵な笑みだ。
「ではそろそろ、本気でいかせてもらう」
ディオンの勢いが変わり、先ほどよりも速く己の剣を振りかざし、ドニの剣を振り払う。
「くっ……」
今度は形勢逆転だ。ドニの方が苦しそうな表情をして、次第に舞台の端へと追いつめられている。
(すごい! ディオン様!)
カキン、と気持ちのいい音を響かせ、ディオンはドニの剣を吹き飛ばした。
「ここまでだ、ドニ・ルフェーブル」
剣先を目の前に突きつけられ、降参するようにドニが両手を上げる。
「ははっ……さすが陛下だ。血生臭い出来事には慣れていらっしゃるのですね。あなたのお爺様も、私のように惨劇を引き起こして玉座を手に入れたのだから」
時間稼ぎのつもりなのか、ドニがまた話し始める。
これ以上彼の話を聞いていても、こちらが不愉快になるだけだ。ディオンも剣先をさらに喉元に突きつけ、それ以上話すなと冷淡に命じる。
「ああ、もうお終いだ……」
ドニが絶望した声色でその場に座り込み、ディオンに捕まえてくれと両手を差し出す。ディオンがその手を拘束しようとする。少しずれた位置にいたミランダは、俯いたドニの口元が上がるのを見た。
とっさに上を見上げたのは視線を感じたからか、あるいは偶然か。いずれにせよ、ミランダの目は二階席の人影を捉えた。その人間はこの場には不似合いな、弓を手にしていた。ちょうど階段の踊り場にあった絵のような、ディオンの祖父をモデルにした人物が持つ弓を。
(まさか――)
「さぁ、今が判決の時だ!」
ミランダはドニが顔を上げて声高らかに宣言するより早く、気づいたら走り出していた。弓をすでに引いていたかわからない。考えるより先にディオンの背中に身体をぶつけていた。
「う、ぐっ……」
ミランダはディオンと一緒に床に派手に倒れ込み、呻き声を漏らした。
「ミラ!」
ディオンが素早く起き上がり、ミランダを抱き起こす。
「矢が刺さったのか!? なぜ、いや、すまない。俺のせいで……」
混乱した様子のディオンにミランダは違うと首を振った。
「ディオン様、どこも怪我はしておりません」
「だがっ」
「床に倒れた際に膝をぶつけただけです。矢も……」
ミランダの身体をすれすれに通り過ぎ、床板に突き刺さっていた。
「ああ、なんてことだ!」
ドニが今度こそ絶望の声を上げた。
「あと少しで国王の息の根を止めることができたのに。これでは山場が台無しだ。ミランダ王妃! なぜあなたは私の邪魔をしたのです。私はあなたのことを同士と思っておりましたのに」
「同士、ですって?」
「ええ、そうですとも。だってあなたもまた、悪女なのでしょう? あなたのことを魔女の再来だと貴族たちが噂しておりました。ですから私、とても興味があり、親近感を抱いていたのです。魔女の子孫である私と、魔女の再来であるあなた。私たち、実は運命ではないかと思いまして」
(何を言って)
「貴様。何を言っている」
今まで聞いたことのないほど冷たく、怒りに満ちた声でディオンが言った。彼は立ち上がり、ドニの胸倉を掴み上げた。
「ミランダと貴様を同じにするな。彼女が悪女を演じていたのは、彼女の大事な姉君のためだ。誰かを傷つけることを目的する貴様と断じて同じではない!」
(ディオン様……)
ディオンの否定にも、ドニは微笑んで堪えた様子はなかった。
「ええ、わかっていますよ。ですから同じだと、申し上げたのです。崇高な目的のために私と彼女は悪役を演じているのですから」
「貴様――」
「勝手に、同じにしないでくれる?」
ミランダは痛みを我慢しながらも立ち上がり、ドニを睨みつけた。
「崇高な目的? 違うでしょう。あなたがこの劇を開いたのは、男爵家の悲願を成し遂げるためでも、王家に復讐するためでもない。あなたはただ劇を滅茶苦茶にして、愉しんでいるだけ。本当は自分が一番可愛くて可哀想で、不幸な自分に酔っている。悪役を演じているようで演じ切れていない、痛々しい三流の役者もどきよ!」
ミランダの言葉に初めてドニの表情から感情が消える。
「私が悪役になりきれていない? 三流? 役者もどき? そんなはずない。忌まわしい小娘め、証明してみせる。私が本物の悪役であることを――」
「さすが姫様。その煽り、最高です」
その声は二階席から聞こえた。ちょうど刺客が弓を放とうとしていた位置に、彼がいた。
「ロ、ジェ――」
ミランダが名前を呼ぼうとした時、ロジェは飛び降りた。昔、太い木の枝に縄を括りつけ、その縄に掴まって空中を飛んで遊んだように、ロジェもまた縄を掴んでこちらに向かって来る。
その縄は一体どこで用意したのかわからないが、あまり頑丈ではなかったようで、ぷつっと途中で切れてしまう。でも、それは最初からわかっていた様子で、ロジェは長い脚を標的に向ける。
気づいたディオンが寸前まで固定してやり、ちょうどいいところでサッと脇にどき、ミランダに怪我が及ばないよう、素早く端にどいた。そして。
「ぐえっ」
見事、ロジェのアクロバティックな飛び蹴りがドニの背中にきまったのだった。
「……ふぅ。これにて悪は滅ぼされました。さぁ、お二人とも。客席に向けて、笑顔を向けてください」
さぁ、とロジェは言うが、ミランダもディオンも当然そうした気持ちにはなれず、ミランダの方は未だ目の前で起きた出来事が受け止めきれず、呆然とロジェの顔を見つめた。
「ロジェ……。あなた、いきなりあんな二階から飛び降りるなんて……というか、今までどこに……」
すっかり伸びてしまったドニが護衛の者たちに連行されていく姿も目に入らず、ミランダは疑問を口にする。
「二階から発砲音が聞こえたでしょう? ですからこっそり二階へ行き、この男の仲間たちを一人一人片付けていたのです」
「あ、あなた一人で?」
「いえ。私の部下と一緒に」
「部下?」
「はい。向こうから何人か連れてきていて……ああ、こちらで新たに作ったのもいますが。とにかくその者たちを客席に紛れ込ませて、逃げ惑う客の振りをして、こう一気に……。途中で弓を引く男がいたので、私が単独で締め上げて、ドニ・ルフェーブルに止めを刺す機会をうかがっていたのです」
なんてことのないようにロジェは淡々と報告する。
そう言えばいつの間にか銃声は聞こえなくなっていた。まさかロジェ(とその部下)が陰で動いていたからだったとは……。
口の利けないミランダに代わり、ディオンが疑問に思ったことを訊く。
「きみはミランダの護衛だろう。彼女のそばを離れたのはなぜだ」
「ディオン様ならば、必ず姫様を守ってくださると思ったからです」
「それは……違う。守ってもらったのは結局俺の方だ。ミランダは身を挺して……もしあと少しでずれていたら、俺の代わりに彼女が怪我を……命を落としていたかもしれない」
守るべき存在に守られてしまったとディオンは悔しそうな顔をする。きつく握りしめられた彼の拳にミランダはそっと触れた。
「ディオン様。わたしはディオン様に守っていただきましたよ」
恐れることなくドニと一対一で剣で戦い、見事彼を追いつめた。
(それに……)
『ミランダと貴様を同じにするな。彼女が悪女を演じていたのは、彼女の大事な姉君のためだ。誰かを傷つけることを目的する貴様と断じて同じではない!』
激昂するほど、ディオンはドニの言葉を否定した。ミランダがどうして悪女を演じていたのか、その理由をきちんとわかってくれていた。
そのことが、ミランダはとても嬉しかった。
「あなたがわたしのことを守りたいとおっしゃってくれたように、わたしもあなたのことを守りたいと思ったのです。だから、怖かったけれど、共に舞台に上がることができた。ですからどうか、そんな顔をなさらないで」
「姫様のおっしゃる通りです。結果的にあなたたち二人は無事です。今はその喜びを噛みしめるべきでしょう」
ディオンはミランダをじっと見つめ、一歩を踏み出したかと思うと、彼女をひしと抱きしめた。
「ミラ、俺を救ってくれてありがとう。あなたの優しさと強さで、俺は魔女の生き残りに打ち勝つことができた」
「ディオン様……」
ミランダは胸がいっぱいになり、ただ彼の背中に腕を回し、涙を流すことしかできなかった。
しかしそれで十分だったのか、客席から拍手が起こった。
「国王夫妻、万歳!」
「お二人の愛の力が、悪を打ち倒したんだ!」
残っていた観客の何人かがそんなふうに言って、賛同するように拍手が大きくなった。




