第六章
「ミランダ様の勘は侮れませんよ。私でも時々はっとさせられるほどの生存本能をお見せになるのですから」
「ねぇ、それって褒めているのよね?」
ロジェがもちろんですと肯定するも、ミランダには嘘くさく思えてしまう。
(まぁ。今はそれより……)
結果的に、ミランダの良くない勘は当たっていた。
「ミラを安心させたくて調べたところ、男爵家の生き残りである母娘が監視の目を盗んで、逃げ出していた」
ミランダはロジェと共にディオンの報告を聞いていた。ディオンの側近であるヤニックとアルノーもいる。彼らはロジェが女装していることも知っており、今もミランダの侍女として振る舞うロジェ……ロゼの姿を見ても動じない。さすがディオンの側近と褒めるところだろうか。それとも指摘することを諦めたか。
「今さらになってわかった、ってことは、事実は違うのですね」
「ああ。病気で亡くなったと報告されていた。だが実際は……」
ディオンは少し言いにくそうな顔をする。
「その女性に手を出していた、とかでしょうか?」
ロジェが代わりに尋ねれば、ディオンは目を閉じてため息をつくようにそうだと言った。
「密かに身体の関係を持つことで監視の目を緩ませ、娘と共に崖から身を投げ出した」
「街へ行くまでは捕まる可能性が高いので、いちかばちかの賭けに出たのでしょう。恐らく同情を買う振りをして、監視の心を揺さぶって、娘だけでも助けようとしたのではないでしょうか。親はともかく、子どもが囚人として生きていくにはあまりにも辛い環境だったでしょうから。死ぬことになっても、かえってよかったかもしれないという苦渋の判断だったかもしれませんね」
ロジェはなぜこんなにも、まるでその時を見たかのようにスラスラ語れるのだとヤニックとアルノーの顔が言っていた。
ロジェは幼い頃、過酷な人生を送っていたので、そうした者たちの行動原理がわかるのかもしれない。
「……いずれにせよ、その一族が生きていたということですか?」
「ああ。まだ、調べている最中だが……」
彼らは自分たちをこんな目に遭わせた王家に復讐しようとしているのか。
(妬みや恨みって、そう簡単には消えないのね……)
一同が黙り込み、ミランダが暗い顔を晒していると、いつの間にかディオンが目の前におり、名前を呼んだ。
「大丈夫だ。何があっても、ミラは俺たちが守る。絶対だ」
「ディオン様……」
「そうですよ、姫様。私がそばについておりますので、もし手を出してきたならば何十倍にもして返り討ちにします」
真顔でそう告げたロジェにミランダは苦笑いする。
ロジェならば本当に相手にそうすると思ったからだ。
「私たちもおりますから。だからそんなに構える必要はありませんよ」
「はい。そこのお二人には及ばないかもしれませんが、いざという時には王妃殿下の身代わりになる覚悟です」
ヤニックとアルノーの言葉にミランダは何だか意外な気持ちになる。しかし二人の言葉に嘘偽りはない様子で、心から自分のことを心配しているのが伝わってきた。
「……ありがとう、二人とも。今の言葉だけで、十分です。とても勇気が湧いてきました」
ミランダが微笑と共にお礼を述べれば、ヤニックは目を瞠り、アルノーは顔を赤くした。
「……ミラ。俺には何もないのか」
「姫様。私には?」
二人にずいっと迫られ、ミランダは目をぱちぱちと瞬いたあと、思わず笑ってしまった。
「どうして笑うんだ?」
「ふふっ、ごめんなさい。何だか自分も褒めてってねだる子どもみたいで……二人ともそろって同じ顔をしていたから、おかしくなったの」
顔立ちは全く似ていないので余計におかしく思えたのだ。
ツボにはまるミランダを二人はどこか不満そうに見ていたが、やがてどちらともなく顔を見合わせ、降参するように肩の力を抜いた。
「まぁ。ミラが明るい気持ちになれたのならば、それ以上は望むまい」
「そうですね。私も同じ気持ちです」
そんなふうに言い合う二人を見ていたヤニックとアルノーもまた顔を見合わせ、二人にばれないようこっそり笑い合うのだった。
◇
「ミランダ様。最近、ディオン様と仲睦まじいとお聞きしますわ」
王城の敷地内にある礼拝堂に茶会を通じて親しくなった夫人たちと足を運んだ帰り、フィリッパが目を輝かせながらそう言った。
ミランダは何となく気恥ずかしい思いがしたが、国王夫妻の仲が良いことは別に悪いことではないので素直に頷いてみせた。
いつも自信満々のミランダにしてはどこか恥ずかしがっている感情が顔に出ていたのか、フィリッパたちは小さく色めき立った。
「やっぱり! お噂では陛下が片時もミランダ様を手放さないとか!」
「えっ、別にそこまでは……」
「この前の夜会でも、陛下はじっとミランダ様を見つめていましたものね。その視線に気づいたミランダ様も陛下の方を見て可憐に微笑んで……もう眼福でしたわ」
(あ、あれ見られていたのね)
他にも彼女たちはディオンとミランダがいちゃいちゃしていたという噂や実際に目撃した姿を挙げて、ミランダを居たたまれない気持ちにさせた。
(こ、こういうの、自分が言われる立場だと、非常に気まずいのね!)
女性たちの話し声は当然護衛や侍女――ロジェにも聞こえており、いつもの無感情な顔をしているが、内心どう思っているのか……後で絶対からかわれるのは確定している。
耐え切れなくなったミランダが話を変えようとした時。ふと前方からヴェールを被った女性が歩いてくるのが見えた。
グランディエ国の女性信徒は祈りを捧げる神の場所へ行く際、他の人間に顔を見せないようヴェールを被って移動するという。
今はもうその慣習はずいぶんと薄まったようだが、敬虔な信徒の中には今でも守っている者もいるそうだ。礼拝堂にもそうした女性はいたし、近づいてくる女性もその一人なのだろう。
(でも、何だか……)
「ね、ミランダ様。今日のこともぜひディオン様に――」
フィリッパの明るい声を耳にしながら、ミランダは女性がゆったりと巻いているショールの内側から何かを――きらりと光る刃物を取り出したのを見た。
その瞬間、ミランダはとっさに立ち止まり、フィリッパたちを後ろに押しやった。
「ロジェ!」
ミランダの声が引き金となったのか、それとも同時だったのか、女性が前屈みになり、突進してきた。無防備な女性の思わぬ俊敏な動きに、他の護衛たちはとっさに反応できなかった。
ロジェ以外。
ミランダのすぐ目の前まで迫った女性を、ロジェが素早く間に入り、刃物を握る手首を捕まえ上へ持ち上げた。
「ぐぅっ」
「えっ、なに、っ……きゃああっ」
状況の呑み込めなかった夫人たちも、天へと向けられた刃物の鋭さにようやく事態を呑み込む。
彼女たちの悲鳴が重なる中、ロジェはあっという間に女性の手から刃物を落とさせ、他の護衛たちの手を借りる暇なく後ろに手を組ませて拘束し終えた。
「王妃殿下!」
「ご無事ですか!」
慌てふためる護衛たちにミランダは微かに笑みを浮かべ、落ち着いた声で告げる。
「わたしは大丈夫です。みなさんも、犯人はご覧の通り捕まえられました。もう大丈夫ですよ」
ミランダがフィリッパたちを慰めると、彼女たちは混乱しながらも、ここで気遣うべきは王妃の方であり、狼狽えている場合ではないと気づいた様子で何とか声をかけようとする。
「えっと、私たちは大丈夫です」
「そうですよ。王妃殿下の方が……」
ミランダは再度安心させるように微笑み、護衛たちに連行される犯人の姿を見た。ヴェールが落ち、現れた素顔は、一度目のお茶会で他の夫人たちに紛れるようにして見たものだった。
◇
「犯人はディオン様と姫様の関係に嫉妬したそうで、姫様さえいなければ自分が王妃になることができたのに……と供述しているそうです」
ミランダは安全な自室でロジェから犯人の動機などを聞かされていた。
「そう……」
女性の嫁ぎ先は伯爵位で由緒正しい家系ではあったものの、貧乏で、あまり裕福な生活を送ることはできていなかったという。
そういった生活で蓄積されていた不満が、ぽっと出で嫁いできたミランダの幸せな状況を見て抑えきれなくなったのだろう。
(一応、動機としてはおかしくないけれど……)
いや、考えすぎだとミランダは首を振った。
「ミラ!」
これ以上難しく考えるのはよそう、とミランダは青ざめた表情で部屋へ入ってきたディオンの姿を見て決めた。
「ミラ! 無事でよかった! すまない! あなたを守ると誓ったのに! 怖かっただろう。可哀想に!」
「あ、あの、ディオン様。わたしは無事ですので落ち着いて……少し苦しいです」
飛びかかってくるように抱きしめられて、こちらが口を挟む暇もなく捲し立てられ、ミランダの心臓は驚いてしまう。それだけ、彼も心配して、安堵している証拠なのだろうが……。
「ご心配をおかけしました。わたしはご覧の通り無傷ですので、ディオン様が心を痛める必要はありませんよ」
「ミラ……」
ディオンは眉根を寄せ、何だか泣いてしまいそうな顔を見せたあと、もう一度ミランダをきつく抱きしめた。
「あ、あの、ディオン様、そろそろ離れてくださると……」
「酷いことを言う。あなたが無事であることを確かめさせてもくれないのか」
「い、いえ、ですが……ロジェも、いますから」
ほらとロジェの方を見れば、彼はミランダたちのことをガン見していたのだが、二人が揃って視線を向けていると、スッと自分の手で両目を隠し、「どうぞ、続きをなさってください」と促した。
それでディオンも気が削がれたのか、押し倒そうとしていた体勢を正し、改めてミランダと向き直った。
「捕まえられた彼女だが、伯爵家ともども、爵位を返上させる。それから、まだこれから詳しいことを調べていく予定だが、彼女はどうやらあの修道院から身投げした母娘の生き残り……遠縁にあたるらしい」
「本当ですか」
ああ、とディオンが複雑そうな顔で頷く。
「……そう、でしたの。魔女の生き残りは、まだいたのですね」
「だがこれですべて終わった。今度こそ、もう魔女はいない。だから、もう大丈夫だ」
ディオンが再び抱きしめ、魔女の呪いを解くように言葉を呟く。
ミランダはロジェの視線が気になったものの、彼もまたもう心配することは何もないと同意するように頷いたので、彼女はそのまま夫の抱擁を受け入れた。
その後。襲われかけた事件は大きな話題となったが、ミランダが落ち着いて対応したこと、またフィリッパたちを身を挺して守ろうとしたことで、ミランダ自身の評価も上がった。
「もう王妃殿下ったらご自分の命が危ないというのに、私たちのことを庇おうとして、とてもかっこよかったの!」
「私、いろんな意味でドキドキしていましたわ」
「王妃殿下の侍女もすごかったわよね!」
「本当! あの人何者なのかしら!?」
……というふうに、その場にいた夫人たちがあちこちで語っているらしい。
おかげでミランダが悪女だという噂は完全に消えつつある。
「よかったですね、姫様」
「ええ、そうね……。それより」
優雅にお茶を飲んでいたミランダは横目でロジェの方を見る。
「まだ女装の格好を続けるの?」
「はい。この格好、何だかんだ動きやすいんですよね。ほら、脚蹴りする際も男の時より強烈なのを食らわせることができるんです」
「……そんな格好、女の子がしちゃだめよ」
動きやすさ重視で女装を続けるな、とミランダが考え直すことをやんわりと勧めても、ロジェの意思は変わらないようだった。ミランダは諦めてため息をつく。
「どうしたのです、姫様。いつもならもっと鋭く指摘なさるではありませんか」
「そうね……なんだか少し疲れてしまって。あと――」
「ミラ!」
言いかけたミランダの言葉は、どこか嬉しそうに部屋に入って来たディオンの登場によって飲み込まれてしまう。
「どうしました、ディオン様」
「久しぶりにデートしないか」
「デートですか?」
久しぶりに、と言われて首を傾げる。ついこの間したばかりな気がしたからだ。
しかしディオンにとっては違うらしく、ずっとミランダと出かけたかったと言う。
「以前言っていただろう? 今度は王立歌劇場に出かけようと。魔女の件もあったから外出するのは控えていたんだが、それも無事に片付いた。羽を伸ばす意味でも、どうだろうか?」
ディオンの言葉にミランダは内心驚いた。護衛を増やす以外にも彼なりに安全に気を配っていたのだ。
(わたしとのデートもそのために我慢していたなんて……)
なんだか可愛い、と胸がきゅんとした。
「どうした、ミラ? やはり気が進まないか?」
「いえ、少し胸が締め付けられました」
「なに!? どこか具合でも悪いのか? 医者を呼ぼうか」
「あ、いえ。その必要はございませんので」
なんだかこんなやり取りを以前もしたような……とミランダは既視感を覚えたが、その前にディオンを引き留め、お誘いの返事をする。
「デート、ぜひ行きたいです。歌劇もディオン様と一緒に観たいです。いつにしますか?」
ディオンは顔を輝かせ、そうだな……と早速予定を立て始める。
「二人で初めて観るのだから、やはり人気の歌劇がいいだろうな。劇場内のレストランで夕食も食べて行こう。デザートのチョコレートケーキが美味しいと評判なんだ」
ディオンが楽しそうに今話題の歌劇やデザートの話をするので、それを聞いているミランダも次第に同じ気持ちになり、心の片隅に残っていた不安を忘れてしまったのだった。
◇
有名な建築家に建てられたというグランディエ国の王立歌劇場は、建築技術に疎いミランダの目には故郷の劇場とあまり変わらぬように見えたが、その道の人間からすればやはり違うのだろう。ディオンに建築家がこだわった点や見所などを教えてもらいながら中へと入った。
(天井までこだわっているのは、わたしの国と同じね)
豪華で圧倒されるという点もまた共通している。
神や天使、英雄などが描かれた絢爛豪華な天井につい視線がいってしまう。
(あれ……)
階段の踊り場に飾られている大きな絵の人物、弓を引いている男性にミランダは目を留める。
「気になるか?」
「はい。他と違って特に目立つように描かれているといいますか……」
「ああ。わざと目立つように描いたのだと思う。当時国王に即位した祖父を称えるために」
なるほど、とミランダは納得した。劇場を建てたのはクーデターが起こった後、ディオンの祖父が即位した後だと考えれば、彼を英雄に見立てた絵を描くのは当然な成行きに思えた。
(ディオン様のお爺さまの代から芸術活動に力を入れたということだしね)
「でも弓を引くなんて……少し変わっていますね」
戦闘とあれば剣を連想する。
「……あまり大きな声では言えないが、戦う時に使用したそうだ」
「えっ、弓をですか!?」
「長距離から敵を討つのに祖父自ら矢を放ったそうだ。……剣よりも弓を扱う方が得意だったらしい」
ミランダはもう一度ディオンの祖父をモデルにして描かれた絵を眺める。
「ディオン様のお爺様は、実際にこのような方でしたの?」
「少し、かっこよく描きすぎているかもな」
ミランダは彼の方を向いて、笑みを浮かべた。ディオンも穏やかな表情をして、そろそろ行こうかと促す。
まだもう少し鑑賞していたい気持ちもあったが、人の目もあるのでミランダはディオンと共にボックス席に入った。護衛の人間――ヤニックとアルノーも中までついてくるかと思ったが、今日は外で待機するようだ。正直ほっとした。
「やっとあなたと二人きりだな」
ディオンが腰に手を回しながら小声で言うと、ミランダはどきりとした。
「……そうですわね」
「ミラ。なぜ視線を逸らす」
「……外には監視がおりますわ」
あまり羽目は外さないように、と照れ臭さも相まって、ミランダは腰に回された彼の手を軽く抓った。
「照れているのか? 可愛いな」
「いいえ。照れておりません」
前を向いたまま少し強気に答えれば、ディオンが笑ったのがわかる。首筋に吐息がかかった。
「気にしなくていい。ヤニックが言っていたが、こういう場所はいつもより男女の距離が縮まるらしい」
ミランダは純情なディオンにそんなことを教えたヤニックを少々恨めしく思った。
「だから俺たちが少しくらいイチャついても不自然ではないはずだ」
さらに自分の方に引き寄せようとする力にミランダは胸元を押し返して抗おうとする。
「い、いえ、それでもわたしたちはやはり節度を保っていなければならないと思います。なにせ、国王と王妃です、もの」
「その国王と王妃が仲良くしていることはいいことだろう? みなに知らしめる絶好の機会なのだから」
ミランダの抵抗はディオンにとっては全く意味のないものなのか、どこか楽しそうに口元に弧を描いている。
「うっ、それは、もう、十分伝わっていると思います。これ以上度が過ぎれば、鬱陶しがられますわ!」
「いや、まだまだだ。なにせあなたの方が俺に惚れていると思っている人間がいる。真実は逆だというのに」
「いいではありませんか、それで。逆も何も、真実なのですから」
自分もディオンに惚れているのだから。
ミランダが必死に抗いながらそんなことを口走ると、ディオンが驚いたように力を緩めた。やった! とミランダは一瞬喜ぶものの、今までよりもずっと力で引き寄せられてしまい、結局ディオンの腕の中に閉じ込められてしまう。
「ミラ、好きだ。愛している」
「っ……」
ミランダは言葉を失い、そのままディオンの胸に顔を押しつけた。赤くなった自分の顔を見られたくないと思ったからだ。
(ええい。もう好きになさって!)
くすくすとディオンが笑みを零しながら、ミランダのおくれ毛を指で弄ってくる。
(うう……今日はデートなせいか、いつもより甘さ全開だわ)
どうか今の自分たちの姿を誰も見ていないませんように、と祈りながらミランダはそっと舞台の方に目をやって、ふと向かいに当たる……袖に近い客席から視線を感じた。暗かったこともあり、単に見間違いかもしれない。
(でももしかすると、わたしたちの姿、見ていたのかしら……)
だとしたら何て恥ずかしい! とミランダが羞恥に耐えていると、ディオンが指を絡めて握りしめてくる。
「ミラ」
「芝居に集中してください」
「まだ始まっていない。それにあなたの方が集中力を欠いているようだが?」
「誰のせいだと思っているのですか」
ディオンがくすりと笑ったので、絶対に自分のせいだとわかっている。
「謝りたいから、そろそろこちらを向いてくれないか」
「どうしようかしら」
そっぽを向けば、ディオンはならばと顎に手をかける。
想像よりもずっと間近にある琥珀色の瞳がミランダの目に映った。綺麗だと思ってじっと見つめていると、ディオンの親指が唇に触れた。柔らかさを堪能するように押して離すと、今度は彼の顔がゆっくりと近づいてきて――
「――陛下。大変申し訳ございませんが、少しよろしいでしょうか」
扉の向こうで待機しているアルノーの声が聞こえ、二人はぴたりと止まった。
「ああ、構わない。どうした」
ディオンが立ち上がり、扉の方へ向かう。ミランダは顔の熱を冷ますため、少し俯いた。
「実はこの劇場の支配人が、一階の席でご覧になられてはどうかと……」
「俺たちが一階で見れば、注目されるだろう」
アルノーもそれは十分わかっているようで、「ええ、そう言ったのですが……」と弱り切った声を出す。彼に代わり、ヤニックがやや疲れた調子で説明する。
「国王夫妻にご覧いただけるとのことで、演者も含めてかなり気合を入れたので、ぜひに、とのことです。かなり押しが強くて、ひとまず陛下に相談することにしたんです」
「厚意は有り難いが、今日は――」
「そこまでおっしゃるのならば、今日は一階で観ましょう」
熱が引いたところで、ミランダは立ち上がってディオンの隣に並ぶ。
「そんなに熱心に誘ってくださるのを断るのは、気が咎めるわ」
「だが……」
「それにわたし、一階から観たことはありませんの。ですからどんなふうに観えるのか、一度座ってみたいですわ」
この言葉でディオンは席を移動するしかないと思ったようだ。
「わかった。おまえたちは念のため、近くに居てくれるか」
「はい。ミランダ様のお隣には、ロジェ……ロゼを」
「ええ、お願いね」
こうして密室に近いボックス席から開放的な一階の席に移動することになったのだった。




