(2)
初めてのデートは二人で話して、街をぶらぶら歩くことに決まった。
髪は結婚前のように下ろして、服装もあまり派手にせず、平民の娘が着るような服を着た。護衛の数も絞って、お忍びデートという計画だ。
「本当に街を歩くだけでいいのか?」
大通りに行くまで目立たない馬車に乗って、ミランダは熱心に外を眺めていた。そんな彼女にディオンが気づかわしげに声をかけてくる。ミランダは隣に座る彼の方を振り返り、もちろんですと満面の笑みで肯定した。
「周りにばれないように変装して出かけるなんて、とてもわくわくしますわ」
「そうか?」
「はい。本当の姿を知っているのは、お互いだけですもの。秘密めいて、ロマンチックではありませんか?」
護衛はいるが……まぁ、陰からこっそり見守っているそうなので実質的に二人だけと言っていいだろう。
「それに街を歩くだけと行っても、いろんな店を見て回る予定ですもの。あ、途中でお茶とお菓子もいただきましょう。そういえば、ディオン様は甘いものはお好きですか?」
「苦手ではない、と思う。あまり好き嫌いについて考えたことはないから、もしかするとそんなに食べられないかもしれないが……」
ミランダは笑って十分ですと答えた。
「わたしも食べ過ぎると太ってしまうから、そんなに食べる予定はありません」
「太っている……あなたは華奢な方だと思うが。ああ、でも……」
ディオンの視線がミランダの腰から上へとつり上げられ、胸のあたりをじっと見つめたので、ミランダは咳払いした。
「す、すまない」
「いいですよ。ディオン様はわたしの旦那様ですから、特別に許してあげます」
他の男だったら、かかとの高い靴で思いきり踏んづけていたかもしれないが、ディオンは見逃してあげよう。
「あなたの寛大な心に感謝する」
「ふふ。その代わり、ケーキの半分交換を要求します」
ディオンが目を瞬く。
「そんなことでいいのか?」
「ええ。美味しいものは相手にも味わわせてあげたいし、自分も味わってみたいもの」
「ミラ……ああ、ぜひ交換しよう」
ディオンが手を軽く握ってきて、ミランダはにっこり笑った。
「ミラ。はぐれないよう、手を繋いでもいいだろうか」
馬車を下りて人混みの多い街中にミランダがわくわくしていると、ディオンが躊躇いがちに了承を求めてきた。
「はい。もちろんです」
ディオンはほっとした様子でミランダの手を握る。彼女はぎゅっと握り返し、少し背伸びして彼だけに聞こえるよう小声で告げた。
「デートっぽくて、いいですね」
「あ、ああ……デートっぽくて……」
少し照れ臭そうに言うディオンに笑みを零し、ミランダは彼の手を引いた。
本当はこういう時ディオンに任せるのが正しいのかもしれないが、彼ならば率先して先を歩く自分の行為も許してくれる気がしたのだ。素の自分を出しても、きっと受け入れてくれる。
「ディオン様。わたし、あのお店にまず入ってみたいです」
「ああ、わかった。だがそんな急がなくても、店は逃げない」
こうして二人は、ミランダが気になる店を中心に覗いて回った。
「ディオン様。この異国のジャラジャラしたネックレス、ちょっと身につけてくれませんか?」
「これか? ……どうだろうか」
「わぁ! とてもよくお似合いです! ラクダとかに乗って優雅に登場しそうです」
「そ、そうか? よくわからないが、ありがとう」
ミランダはディオンに似合いそうなものを何点か購入していく。すると彼もミランダに似合いそうなものを吟味し始めた。
「金色の髪飾りは、あなたの髪色にもよく似合うと思う。ぜひ俺に贈らせてくれ」
「林檎の帽子なんてものも売っているのか……ミラ、少し被ってみてくれないか」
と言いながら子ども用のものを勧めてきたり、
「あ、この東の国から輸入したという鬼の面はどうだろうか。恐ろしい面を外したとたん、あなたの可憐な顔立ちが露わになって、みなも息を呑んで驚くだろう……いや、やはり注目されるのは複雑だな……あなたの美しさに他の男たちが惹かれるのは避けたい……」
などと、途中変わったものを勧められたが、それはそれで楽しかった。
(ディオン様にも、好みはあるのね)
「どうした?」
パンに野菜や肉を挟んだものなど、簡単につまめるものを買い、広場のベンチに座って二人は食べていたのだが、ミランダの視線に気づいてディオンも手を止める。
「いえ。国王陛下がこんな場所で昼食をしているなんて知ったら、みんな驚くだろうなぁと思いまして」
「それを言うなら、王妃がいるのも驚きだろう」
「それもそうですね」
名前を呼ぶ時はなるべく小声か相手だけに聞こえるよう顔を近づけて話す。髪型や服装も周りから浮かないよう気をつけて出向いたが、それでも誰かに気づかれてしまうだろうと思っていた。
「嫁いできたばかりのわたしはともかく、ディオン様の方はばれてしまうかもとドキドキしていました」
「あまり、街を見て回ることはなかったからな」
隣を見上げると、ディオンは過去を振り返るように遠い目をしていた。
「魔女を処刑して、報復を恐れた祖父は父や孫の俺の警護を厳重にしていた。国王になるために毎日勉強漬けで、どこかへ出かけることも……視察で各領地を見て回るくらいだった。こんなふうにのんびり王都を観光したことはない。自分の生まれ育った場所だというのにな」
ディオンはミランダの方を見て、どこか寂しそうに言った。
「案外そういうものかもしれませんわ。近くでいつでも行けるという安心から、わざわざ足を向ける必然性を感じなくなる。もっとよく見ておけばよかったと思うのは、その土地を離れてから……」
ミランダはそこまで言うと、口を噤んだ。
意図せずしんみりした口調になってしまい、自分が故郷に未練を残しているように聞こえたかもしれないと思ったからだ。
「故郷が、懐かしいか?」
「……懐かしくない、と言ったら嘘になりますけれど、今はこのグランディエ国で生きていきたいと思っております」
「そうか……。もし、あなたの計画通りに事が進んでいたら、今頃あなたは母国で他の男と結婚していただろうな」
「ディオン様、それは――」
「だが、そうはならなかった。俺はあなたの姉君と彼女を想い続けた騎士に心から感謝しているよ」
ミランダが言葉をかける前にディオンが顔を上げ、微笑んだ。
「……わたしも、今はオラース……姉の想い人に感謝しております」
「あなたのことだから、計画が破綻した時は怒り狂っただろう」
その時のことを思い出し、ミランダは居心地悪そうに目を逸らす。
「ええ……。わたしはその時初めてオラースの存在を知って……ただの一介の騎士よりもあなたの方がずっといい男で、姉を幸せにできると思っていましたから」
「あなたはずいぶんと俺のことを買ってくれていたのだな」
「事前に調べもしましたけれど……直感のようなものがあったのです」
そしてその直感は見事当たっていたわけだ。
(姉ではなくわたしが幸せになってしまったけれど)
「……あなたは、自分よりも他者のことを思いやる優しい人なんだな」
「優しい、かどうかはわかりませんわ。だって、わたしがそうしたいと思って、やっただけですもの。それに誰にでも、っていうわけではありませんよ? わたしの好きな人だけにです」
口にして、王妃としてその発言はダメだったかもしれないと思った。
「あなたのことを知っていく度に、俺は本当に噂というのは当てにならないと思った」
ディオンが苦しそうに顔を歪ませて呟く。
(まだ気にしていらっしゃるのかしら)
ミランダ自身がもういいと言っているのに、ディオンはいつまでも悔いている。
(それだけ真面目で、優しい人ってことなのかも)
「わたしも、ディオン様のことを知って、抱いていたイメージが変わっています」
「なに?」
もしや良くない方向で? と考えたのかディオンは顔を強張らせる。
「ふふ。悪い意味ではありませんわ。話していて、和やかな気持ちになれて、癒されるんです」
「……俺も、あなたといると落ち着く」
そんなこと今まで言われたことがなかったのでミランダは驚く。
「本当ですか? それなら、嬉しいです。きっとディオン様のおかげですね」
「俺の?」
「はい。いつもわたしのことを気遣ってくださって、本音を見せてもいいんだって肩の力が抜けたといいますか……環境が変わったことも大きいですけれど、以前の自分と少し変わったと思います」
もう姉のために悪役を演じる必要もない。
ジュスティーヌが今度はミランダ自身の幸せを求めてほしいと手紙で書いてくれたこともあり、ミランダは今、自分の幸せを考えている。
「ディオン様も優しい旦那様ですから、つい甘えてしまうのです」
「そうか。それは、嬉しい変化だ。なら、これからもっとあなたを甘やかそうと思う」
「ふふ。あんまり甘やかすと、またクレソン卿に叱られますわよ?」
「いや、大丈夫だろう。今日のデートも、クレソンが率先して日程を調整してくれたんだ」
「まぁ、本当ですか?」
夫婦であるのに二人きりになることを危惧していたあのクレソンが……。ミランダは一体どういう心境の変化だろうかと不思議に思った。
「クレソンもあなたが王妃であることを認めている。あれでも反省しているんだ。だからその罪滅ぼしにと……あとはまぁ、俺に休息してほしい意図もあったのだろう」
ディオンの体調を心配してのことならば納得できる。
「クレソン卿はずっと近くでディオン様を見守ってきた方でしょうから、余計に心配なのでしょうね」
「少々過保護すぎる面もあるがな……」
亡くなった両親や祖父の代わりに、という思いもあったのだろう。
「それだけ大切になさっているのでしょう」
「……そうだな」
「今日ディオン様と出かけられるよう調整してくださったこと、あとでお礼を言わなきゃいけませんわね」
「本当はもっと頻繁に……気軽に出かけられるといいんだがな」
ディオンの気持ちもわかるが、自分たちの立場を考えるとやはり難しいだろう。何かあって責任を負うのは臣下である彼らの方なのだから。
(今もたぶん、どこからか見守っているのよね)
広場にはミランダたちの他にも子連れや恋人たちなどの姿がある。
「ミラ。まさかこの一回きりで終わりではないだろう? ……俺はまたあなたをデートに誘うつもりなんだが」
黙り込んだミランダに緊張した声でディオンが問いかけてくる。
すでに自分たちは夫婦だというのに、まるで付き合い立ての恋人同士のようなやり取りにくすぐったくなる。
「はい。もちろんです。わたしもまだまだ、あなたと行ってみたい場所やしてみたいことがたくさんありますから」
◇
二人は昼食を終えた頃、ちょうど広場でアマチュアの劇団の演奏や大道芸の出し物が始まった。
「そういえばグランディエ国は、芸術活動に力を入れているのですよね」
「ああ。クーデターが起こったあと、国民にもかなり不安を与えてしまった。だから美しいものや楽しいことで、世の中の暗い雰囲気を少しでも和らげようと、祖父の代から芸術活動の支援が始まり、父の代でさらに力を入れるようになったんだ」
「なるほど……」
街の広場という庶民の目に留まる場所で活動が行われているのも、その影響が大きいのだろう。
そんなことを思いながらピエロの格好をした大道芸人を見ていると、ふと彼がこちらを見た。
えっ、と思っていると、ピエロがこちらへやって来る。白粉を塗り、口紅で唇を大きく、左右非対称に裂けているように見せて、目元には涙のマークが描かれている。
間近で見ると、ちょっと……かなり怖い顔のピエロは、そんなミランダの気持ちを読んだようににっこり笑いかけた。
「お兄さん、お嬢さん。よかったら今度、王立歌劇場にも足を運んでください。僕の素晴らしい仲間たちが劇をやりますから」
声は思ったより若い男で、優しそうに聞こえる。でもミランダには、それが何だか相手を油断させるためのものに思えた。
「劇?」
「はい。我がグランディエ国の歴史になぞった喜劇でございます」
「へぇ……面白そう」
「ええ、ええ。とっても面白いですので、ぜひお越しくださいませ!」
ずいっと顔を近づけられ、ミランダは思わず「ひっ……」と情けない声を上げてしまった。
「俺の妻を怖がらせないでくれ」
すかさずディオンがピエロの顔を遠慮なく押しやったので、彼は後ろに仰け反り、たたらを踏んだ。けっこう強い力だったのかもしれない。しかしそんなことは気にせず、ディオンは妻の心配をする。
「ミラ、怖かっただろう」
「あっ、いえ、少し驚いてしまっただけで……」
「その方は奥方様だったのですね。大変失礼いたしました」
体勢を立て直したピエロがさらに口角を上げて自分たちを見てくる。ミランダは何だかその視線に落ち着かなくなり、ディオンの手を掴んで、もう行きましょうとやや強引に歩き出した。
「お待ちしておりますよ!」
失礼だったかもしれないと思いつつ、ミランダは振り返らず足早に歩き、ピエロの見えない場所まで行くと、ようやく安堵の息を漏らした。
「ミラ、大丈夫か?」
「はい。ごめんなさい。急に連れ出してしまって……」
「構わない。あなたになら、むしろ強引に引っ張り回してほしい」
「もう、ディオン様ったら……」
ディオンは目を細め、ミランダの手を自分の指と絡めて繋ぎ直した。
「ケーキの交換をするのだろう? どこの店がいいだろうか」
先ほどまでの不安にも似た気持ちは、ディオンの言葉と笑顔ですっかり消えてくれた。
「実はお茶会の時に夫人たちにいろいろ教えていただいて……事前に調べていたんです。確かティーカップの絵が描かれた看板が目印で……」
その後ミランダはディオンとお茶をして、日が暮れる前に帰ることにした。
「今日はとても楽しかったです」
ケーキを自分の分と半分交換して、なぜかディオンに食べさせてもらって、そのお返しにミランダもディオンに……というやり取りを思い返して、頬を緩ませた。
恥ずかしくもあったが、今日はデートなのだから別にいいじゃないかという気持ちにもなった。
「ディオン様は、どうでしたか?」
ミランダが隣を見て尋ねれば、彼は柔らかな微笑でまず答えをくれた。
「ああ、俺もだ。何だか童心に返ったような気持ちで、何度も心が弾んだ。今も、とても心が満たされている」
「わたしもです。とても心が満たされて――」
突然ぐいっとミランダは腰を引き寄せられ、ディオンの腕の中に閉じ込められた。
(え、え? 何? ディオン様ってば急に抱きしめて、もしかしてそういう雰囲気だった?)
でもいきなりすぎないか? いや、彼はわりと突拍子のないところがあるが……。
ミランダが逞しい胸元に頬を寄せて混乱していると、ふっと抱擁は緩んだ。
「ディオン様?」
「すまない。少し殺気……ではなく、視線を感じて……」
(殺気!?)
ばっと向かいの通りに目をやるが、大勢の人間が行き交っており、特に怪しい人間はいないように思えた。
「ミラ。俺の気にし過ぎかもしれない。いや、きっと気のせいだろう。もう帰ろう」
「あ、はい。わかりました……」
自分を心配させまいとするディオンの態度にミランダもそれ以上訊くことはせず、大人しく馬車に乗った。
だが帰りの馬車の中で、ディオンはミランダを守るように抱き寄せて、鋭い視線を外へ向けていたのだった。




