第7話 行かないで
「柚、落ち着いたかい」
温かいココアがなみなみと注がれたカップを和代から受け取り、柚は頷いた。友明は何も言わなかったが、その目は柚を思いやる優しさに満ちていた。
「奇流、ごめんね」
柚は顔を赤らめて、申し訳なさそうに上目遣いに言った。奇流は「別に。全然平気だよ」と返す。大泣きしてしまった恥ずかしさが出てきて、柚は正面から奇流の顔を見られないでいた。
「……いつも柚は俺にごめんって言うけど、謝る必要なんてないんだ」
奇流は頭をかいた。
「柚は大事な友達だから、きちんと学校へ行けるように見送りたいのは俺の考えだよ。前にも言ったけど、確かに最初はおじさんとおばさんに頼まれた。けど嫌々引き受けた訳じゃないし、町の皆に言われるのはもうなれっこだ。確かにたまにむかつく親父とかいるけどさ、ほら、空乃がぶっ飛ばしてくれたし」
そう言って笑うと、柚も思い出した。奇流に絡む男に空乃が激突したのを。あれを偶然と捉えるか、もしかしたら空乃なりの助け船だったのかは二人のわかる事ではないが、恐らく後者だろうと奇流は思った。
「空乃ちゃんも風丸君も優しいよね」
柚は微笑んだ。二人はいつも一緒だ。トラブルある所に空乃あり、と異名を持つ彼女は、学校一の問題児だ。金にがめつく口より先に手が出る典型的な暴れん坊だった。そしていつもその火消しに追われるのは風丸。成績優秀であり人当たりもいい人気者で、二人は学校七不思議の一つになる程有名なコンビだった。広い校舎なので、柚はほとんど二人と顔を合わせない。ましてや柚とは五つも学年が違えば尚更だ。それでも二人の話は柚の耳に届いていたし、教師から逃げる空乃を時々窓から眺めたりもした。
以前の柚は不登校気味だった。クラスメートからのいじめが原因だ。大人しい彼女はいじめグループの格好の標的となる。顔立ちは幼いながらも整い、一般的に美少女と呼ばれる柚は、自分が知らない所で男子生徒の人気の的だった。それも含め面白くない女子生徒数人に、嫌がらせを受けたのだった。それは日に日にエスカレートした。クラスを統率する女子が周りを巻き込み徹底的な無視に始まり、机の落書き、物を隠す、根も葉もない噂を流す。
次第に朝起きると吐き気がした。目の前が暗くなる。今日は何をされるのか、想像したくないのにしてしまう。そして胃液が逆流する感覚を覚えた。重い足取りでリビングに行くと、いつも両親は笑顔で挨拶をする。柚は心配かけまいと精一杯の笑顔で返すが、やはり親には敵わない。二人は柚の異変に気が付いていた。
何度確認しても話をはぐらかす娘と、皆仲良しですと言う学校にしびれを切らし、両親が最初に思い浮かんだのは奇流だった。しかし学校に通っていない奇流に学校内の様子を確認するのは不可能だ。どうすれば娘の様子を知れるか。次に思い浮かんだのが、空乃と風丸の二人だった。
両親はどちらも二人の家を知らなかった。たまに店の前で話す姿を見かける程度で、奇流と仲がいい小さな男女と言う認識だけだ。そこで奇流にお願いして、柚に親戚の家へお使いを頼み、その隙に二人を自宅に招待したのだ。空乃は面と向かって初めて話す二人に対して、遠慮せずにあれこれ話した。
「柚ちゃん? 柚ちゃんはあたち達より五歳も上だから、クラスの階も違うしよくわかんない」
出されたカステラを頬張りながら答えた。風丸はいただきますと両手を合わせ、小さな口で上品に食べる。「おいしいねえ」と満面の笑みを浮かべる姿に、和代は目を細めた。
「柚の様子が最近おかしいから何かあったのかなって思って。でもそうだね。大きい学校だし、そうそう顔を見る事もないよね」
和代は息をはっと吐いた。するとすぐに風丸が言った。
「僕、休み時間に様子を見に行きますよ」
その言葉に空乃も頷く。
「うん、いいよ。授業時間の様子はあたちに任せて」
「……空乃ちゃん。きちんと授業受けなきゃ駄目だよお」
風丸の困り顔を無視し、空乃はお代わりを要求した。その天真爛漫さに柚の両親は互いに肩を揺らし笑った。それから数日の内に柚のいじめ現場に空乃と風丸は突撃し、あんな事やこんな事で見事に撃退した、らしい。柚の心の傷はすぐには癒えなかったが、時の流れと共に少しずつ元気を取り戻した。毎日の送り迎えを申し出た二人に断りを入れたのも柚だ。
それは奇流と一緒にいたいと思っていたからである。そんな自分を嫌に思いながら、それでも彼女は奇流との時間を大切にしていた。
「ところで奇流、あんた柚に用事があったんじゃないのかい」
奇流はしばらく柚の様子を見守っていたが、母親に言われて「うん」と返した。柚は「なあに?」と小首を傾げる。
「当分ここに、来られそうにないんだ」
奇流の言葉に三人は目を丸くする。
「そりゃあそうだよ。町は大騒ぎだし、こっちは気にしないでおくれ。わざわざそれを言いに来てくれたのかい」
和代は豪快に笑った。つられて友明も笑ったが、柚だけは違った。
「うん、もちろん私はきちんと一人で学校に通う。頑張る。でも奇流……今の騒ぎの影響だけじゃ、ないよね?」
奇流は乾いた唇を舌で舐める。柚の疑問にしばらく黙ったが、すぐに彼女の肩を軽く叩いて立ち上がった。
「いや、そのせいなんだ。うろうろすると目をつけられるし、父さん達にも迷惑かけるからさ」
そして「おじゃましました」と両親に会釈すると、そのまま玄関へ向かう。足早に立ち去る奇流に、追いかけた柚が背中に声をかけた。
「奇流、違う。違うよ。何か隠してない?」
奇流の様子がおかしいのは、家に来た時から感じていたのだった。何か嫌な予感がする。柚は何も語らない奇流にもどかしさを感じた。
「大丈夫だよ」
いつもの言葉が柚の耳に届く。しかしそれは今だけは、柚を安心させるだけの力はない。
「また必ず来るから」
奇流は振り返らず行ってしまった。「奇流!」柚は思わず駆け出す。このまま奇流と永遠に離れる気がしたからだ。ここで引き留めないと、もう奇流の笑顔は見られないかもしれない。
柚は奇流の背中にしがみついた。
「奇流……行かないで」
か細く漏れた言葉は、奇流に届いただろうか。奇流はそっと柚を自身から離し、「またな」と小さく言って進み出す。
柚の足はその場に凍り付いた。一歩も動けない。寂しい笑みを浮かべた彼を見て、柚は再び追いかける事も、声をかける事もできなかった。