第6話 親子
「坊ちゃま」
家に着くなり雅恵が声をかけてきた。奇流は立ち止まると、神妙な面持ちの雅恵に「どうした?」と問いかける。
「……私は、ずっと旦那様に仕えてきました」
雅恵は一段と低い声色になった。両手を胸の前で組み、俯き加減に続けた。
「二十五年前のあの日、我が家に民衆が詰めかけました。ワタライは消えろ、ワタライは死ぬべきだと、辛辣な罵声を私達に浴びせました。旦那様はその時、今の奇流坊ちゃま程の年齢でした」
雅恵の言葉が詰まった。当時を思い出しているのか。目頭に指を当て、息を深く吐き出して再び続ける。
「私は旦那様の手を取り逃げようとしました。しかしそんな私を押しのけ、旦那様は民衆に向かって土下座を――」
途切れ途切れになる告白を、奇流は固唾をのんで見守った。
「土下座をして言ったのです。どうか今日のところはお引き取り願います。後日我々ワタライ家は、然るべき処罰を受けます。どんな処罰も受け入れます、と」
想像して奇流は「それで皆は……」と続きを促すと、雅恵は目を開けて真っ直ぐ奇流を見つめた。
「あまりの旦那様の剣幕に民衆は静まり、少ししてから帰って行きました。それからも嫌がらせは続きましたが、その度に旦那様は誠意を持って対応されたのです。憧れだった父親の失態に、一番ショックを受けたのは間違いなく旦那様でしょう。それなのに、彼は私にいつも気丈に振る舞っていました。雅恵さんは心配しなくていい。自分が必ずワタライ家を復興させるんだと」
まだまだ幼い涼のワタライ家の跡取りとしての覚悟は、奇流の想像をはるかに超えていた。
奇流はしばらく沈黙を続けていたが、雅恵に向き直ると声を出した。
「父さんは何で諦めたの?」
情熱を持ち、復興を願い、突き進んでいた父親。そんな彼が常に冷たい表情を浮かべて過ごしている。彼の心はいつ挫けてしまったのか。
「……奥様が、亡くなられてからでしょうか」
雅恵の口から出たのは、奇流が聞く事を許されなかった母親の話題だった。奇流は思わず「母さん」と声を漏らす。
「奥様は旦那様の生きる希望、とでも言う存在でした。太陽の如く明るく、旦那様はそんな奥様に全幅の信頼を寄せていました。二人は元々幼馴染だったのです。あの事件以降、旦那様から当たり前のように人が離れていった中、奥様だけは違いました」
雅恵はどこか懐かしみ、優しい笑みを浮かべた。しかしすぐに顔つきを変えると、奇流の肩に手を置いて言った。
「しかしそんな奥様は……。旦那様を裏切ったのです。詳しい話は私の口から申し上げられません。が、彼女は旦那様の心を傷つけた。それ以来旦那様は無気力になり、全てを諦めてしまったのです」
ふうっと吐いた息が重かった。雅恵の告白を一言も聞き逃さまいと、奇流は黙って耳をそばだてた。
「……坊ちゃまには非常に酷ですが、旦那様はあなたが誕生するのを望んでいませんでした」
奇流は耳を疑った。
「父さんが、どうして」
雅恵に迫り答えを求める。しばらく苦悶の表情のままの雅恵だったが、意を決して口を開いた。
「それは――」「雅恵さん」
雅恵は気まずそうにすぐに顔を背けたが、代わりに奇流が涼に詰め寄った。
「どうして俺が生まれたか、教えて欲しい」
涼は何も言わず伏し目がちだったが、やがて溜息をついて前髪をかき上げた。雅恵は眉間に皺を寄せている。
「愚問だな」
出てきたのは予想通りの物だった。
「子供が欲しいと望んだからだ。それ以外に何がある」
やれやれと言った様子で奇流を見下した。奇流は口を引き結ぶ。しかし、しばらくしてなおも食い下がった。
「俺が生まれてはいけなかったのかよ。だから父さんは俺を敵視するのか? 俺が何をしたって言うんだよ!」
目を見開いてまくし立てる。そんな奇流を、涼も雅恵も黙って見ていた。息が荒くなる。握りしめた拳を震わせ、返事を待つ。それでも涼は無言を貫いた。
「俺は……父さんの子供じゃないのか?」
今にも叫びたくなる衝動を必死に抑え奇流は尋ねた。
違うと言って欲しい。否定して欲しい。もし肯定されたら、一体自分は何者なのか、その答え探しをしなくてはいけない。
「お前は、ワタライ家の人間だ」
重く呟く涼は、少しの間沈黙し付け加える。
「……俺の血は、流れていないがな」
雅恵は顔を手で覆い、むせび泣いた。奇流はその場に踏ん張らないと、今にも倒れてしまいそうな衝撃を受ける。今まで自分は当たり前に、ワタライ奇流として生きてきた。涼を父に持ち、英雄であったドクターを祖父に持ち。十五年間当たり前に過ごしてきた日々が、根底から崩れ去る気がした。
「俺、俺は」
何とか会話を続けようとするが、後に続く言葉が見つからない。奇流の動揺は目に見えて、そんな息子を涼は冷たい視線で突き刺した。
「なあ、奇流。他人の心配をする必要はないじゃないか。お前があいつを捜す必要もないし、ましてや危険を冒して町を出る必要なんてもっとないんだ。あいつは王牙が見つける。それでいい。……それがいいんだ」
奇流はぐらつく視界に内心舌打ちをした。「父さん」噴き出す思いをぶつけんばかりの響きだった。
「それでも、俺は……父さんは父さんだし、ドクターはドクターだ。家族だ。他人と切り捨てられる訳がないんだ。家族が危険な目にあえば、それを救いたいと思うのは自然じゃないか?」
消え入りそうな声は、脆かった。今にも崩れそうな自身だったが、それでも奇流は耐えた。
「……ドクターを、捜しに行くよ」
涼も雅恵も何も言わなかった。奇流は固く目をつぶる。ドクターの顔がそこにある。いつも笑顔で迎えてくれたあの穏やかな姿。学校に行けない奇流に、様々な事を教えてくれた。いつだってドクターは、奇流の拠り所だったのだ。それが家族だ。
奇流はかっと目を見開いた。そして足早に進むと、リビングの扉に手をかける。
「坊ちゃま!」
雅恵が慌ててその手を取った。
「坊ちゃま、どこに」
雅恵は困惑の表情を浮かべていた。いつも物静かな彼女から想像できない様子に、どうか思い直して欲しいと言う強い願いが見えた。しかし雅恵の懇願を、奇流は受け入れなかった。無言のまま扉を開けると、諦めた雅恵の嘆息が聞こえる。涼は奇流の動きを見つめながら、「勝手にしろ」と呟いた。
奇流は商店街を歩いていた。夕暮れ時、いつもなら自分に向けられる視線や囁きを感じるが、今の奇流は違う。何かを考えているようで、いないようで。どこかふわふわした気持ちで歩んでいた。まず行く場所がある。奇流はそこで足を止めた。
「おや、奇流じゃないか!」
大声を上げたのは和代だった。すぐに奥から「馬鹿、声がでけえ」と友明の叱責を受けて、和代はしまったという表情で奇流に手招きした。
「とりあえず中で話そうか」
奇流は黙って従った。即位式が延期になった事は、ドクターの失踪が原因であるのは既に国民の周知の事実だ。
奇流が外に出ると、途端に話の対象になってしまう。それは今までとは比べ物にならない程に。
「大変だねえ……。じいさんどこに行ったんだか」
お茶を淹れながら和代は言った。するとすぐに「奇流!」とバタバタ足音をたて柚が現れた。
「柚、学校はどうした」
奇流は驚いた様子で柚に尋ねる。柚は「それどころじゃないっ……!」と奇流の目の前に座り込んだ。
「……そっか、ごめんな。心配かけて」
柚の頭に手を乗せ、軽く何度か撫でた。柚は今にも泣きだしそうな顔をしている。それでも唇をへの字に曲げ、何とか涙は流さまいと堪えていた。
「ここにも兵士が来たんでしょ」
奇流はお茶を出してくれた和代と、奥で煙草を吸っている友明の顔を見比べて聞いた。
「……まあな。いきなりどかどか上がり込んでよ。こっちは即位式があるから店は開けちゃいなかったが、そんなのおかまいなしに商品の入れもん全部ひっくり返して荒らしやがってよ」
ドクターを必死に捜したのだろう。想像ができる。ドクターの家がもぬけの空だった時、点呼の兵士は青ざめたはずだ。なぜならドクターだけは食料から日用品に至るまで、全て城の使いが直接家に運ぶのだ。奇流の家は、王族から支給される生活する上でぎりぎりの金額で、自由に買い物は許された。ここが王族の考え方だと奇流は常々思う。当事者であるドクターは永久に家に閉じ込め、その家族である奇流達はあえて外に出ないと生きていけないようにする。そしてその度に国民から後ろ指差され、嫌悪の視線を受ける。それが事件の風化を防ぎ、奇流達を生涯晒し者にするのだ。
ドクターが家にいないとなれば、大慌てで町中の捜索をしたに違いない。この失態を、できるなら上に報告したくない。そんな事を人は考えるであろう。兵士は兵長に、兵長は王牙に、王牙は王族に。
「結局どこにもいないって話だろ。でもあの人が町から出るなんて不可能だし、一体どうなっちまったんだろうなあ」
友明は煙草の火を消して奇流の近くに腰を下ろす。和代も右手を頬に当て、「さあ……」と不思議そうな表情を浮かべた。
「奇流もあまり外出するんじゃないよ。言いにくいけど、商店街の連中もこの話題で持ち切りだ。あんたがどこかへ逃がしたと考える輩もいるのさ」
「どうやって!」「わかってるよ、柚」
珍しく怒りを露にした柚に和代は言った。柚の腿に、滴がぽたりと一つ落ちる。
「どうして奇流がこんなに苦しまきゃいけないの? 奇流は関係ない。奇流は悪くない。それなのにどうして皆、奇流に酷い仕打ちをするの……!」
今にも消え入りそうな、か細い声だった。そしてくっと喉を鳴らして静かに涙する。三人はそんな柚を黙って見つめたが、奇流は穏やかに言った。
「大丈夫だよ、柚。俺は大丈夫だ」
――大丈夫だよ。
柚が幾度となく救われた言葉。そう言われると、今まで柚は何でも大丈夫な気がした。
「……どうして、私が」
柚は怒りを自らに向ける。
「どうして私が、そう言ってあげられないんだろう……」
両親は視線を交わした。
「私はいつも奇流に助けてもらってばかりで……。奇流はいつだって大変なのに、どうして私は奇流に支えてもらってばかりなんだろう。学校の送り迎えなんて、奇流の負担でしょう? 商店街に来るのは、嫌な人達に自ら会いに行くようなものでしょう? それなのに……。私は奇流に甘えて、自分ばかり……」
柚は遂に堰を切ったように、声を上げて泣いた。奇流は柚の頭を軽く撫でる。それでも柚は泣き止まず、涙でぐちゃぐちゃな顔を覆い泣いた。和代はそっと柚を抱き寄せる。柚は心のどこかで奇流に対し、ずっと申し訳ない気持ちがあった。自分の弱さを受け止めてくれる奇流に、ただ甘えてきた。奇流がいればよかった。奇流の苦労を知りながらそれに蓋をして、自分の傍にいる彼に寄りかかっていた。
いつからだろう。自分は奇流の荷物だと感じたのは。もう随分前か。両親が奇流に言った。「柚をよろしく頼むよ」
その言葉にどんな真意が含まれているのか。それは柚にわからなかったが、奇流は小さく頷いた。それから奇流は学校がある日は毎日顔を出し、柚に声をかける。
商店街を歩く奇流の気持ちを考えた事はあった。ごめんねと言った時、彼は決まってこう返す。
――大丈夫。
大丈夫な訳がない。柚の心は素直にそう思った。仮に自分が奇流の立場なら外出は控えたい。いや、例え誰でもそれは同じだろう。それでも奇流は会いに来る。柚の隣にいてくれるのだった。