第5話 失踪
この騒ぎで、即位式は中止になった。一国の頂点が決まる重大な行事でさえ、ドクターワタライの失踪事件はかき消す威力があるとわかる。新しい日時は未定らしい。当然の話だった。国によって永久に幽閉されている人間が消えたのだ。深夜近くまで及んだ捜索も空しく、ドクターは発見されなかった。兵長はぎりぎりまで粘ったが、最早どうしようもないと、この件を上に連絡。ワタライ家に新たな客人が来たのは、翌日の昼過ぎだった。
「王宮専属護衛団・王牙」
渡された名刺に視線を落とし涼は言う。それから顔を上げると、見るからに人の良さそうな男が笑顔で会釈をした。年は三十代半ばだろうか。黒いおかっぱの髪型が印象的だった。
「まさか消えるなんて、思ってもいませんでしたので」
男は笑顔のままこう切り出した。
「私は気持ちよく眠っていました。最近不眠症でして、ぐっすり眠れないんです。なので薬を処方してもらったら、予想以上に深く眠りに入れたんですよ。でもね、そんな幸せな一時を、幾つも階級が下の役立たず共に叩き起こされて、こんな胸糞悪い所業ってありますかねえ」
男は内面の苛つきを一切表に出さない完璧な笑みを浮かべ、矢継ぎ早に伝えて奇流達を見渡した。
「カキザキ浩介」
名刺をテーブルに置き涼は腕を組む。
「王牙がわざわざ来るなんてご苦労だな」
雅恵が淹れたコーヒーに口をつけると、涼は苦々しく唇の端を歪める。カキザキは何度か頷くと、こちらもカップに手を伸ばした。
「そうなんですよ。困った話で」
熱かったのだろうか。カキザキはカップから唇を離し、大袈裟な程息を吹きかけた。湯気が消えるのを見計らって再度口に運ぶ。満足気に何度か頷くと、奇流に顔を向けた。
「君、医者の仕事をさせろとか、ワタライ家を自由にしろとか、城に乗り込んだんだって?」
突如話を振られ、奇流は一瞬言葉が出なかった。城に乗り込んだとはとんだ脚色であるが、しかしすぐに「うん」と肯定すると、カキザキはふうんと小さく漏らした。
「もしかして、ドクターワタライにお願いされていたのかなあ。こんな少年を使って卑怯なじいさんだよ、うん」
カキザキの冷めた言い方に、奇流はむっとして言い返す。
「違う! 俺が勝手に行っただけだ。ドクターは関係ない」
カキザキはさして興味がなさそうに「あっそ」と言うと、涼に向き直って両手を叩いた。
「とにかく、今はドクターワタライの行方を捜すのが先決ですので、あなた達は大人しくして下さいね。くれぐれも余計な行動はとらないように」
そして背伸びをすると、リビングの扉に手をかけた。しばし沈黙し、ゆっくりと振り返りこう告げる。
「ワタライが何故いなくなったかわからないが、見つけ次第処刑される事は頭に叩き込んでおいて下さい、ね」
歪んだ笑顔に奇流はぞっとした。全身が波打つような鳥肌が駆け巡る。
「処刑……」
そう漏らした奇流をしげしげと眺め、「当然でしょ」とさらに畳みかける。
「王妃の計らいで極刑は免れたくせに、抜け抜けといなくなるなんて。見つけ次第処理しろと、王牙に命が出ているんだよ」
そしてカキザキはワタライ家を後にした。残された三人はしばらく口も開かず、時計の秒針が進む音だけが部屋に響いていた。
ベッドに身を投げ、奇流は考える。
ドクターが町を抜け出したのは事実。町中の捜索でも見つからなかったし、方法はどうあれ、ここにはいないと言うのは紛れもない事実だ。
なぜ? 寝返りをうち思考を巡らす。なぜ突然いなくなったんだろう。奇流は必死に考えた。ドクターの言動を思い浮かべ、普段と違った様子はなかったか思案する。しかし何も思いつかず、奇流は勢いよく頭を振った。
空気の入れ替えをしようと窓に手を伸ばす。するとすぐ傍に兵士の姿を確認できた。まるでワタライ家を監視するかのような近さに、奇流は無意識に窓から離れた。
どうする。このままここにいていいのだろうか。
もやもやした何かが奇流の中で渦巻く。神妙な面持ちで唾を飲み込んだ。
ドクターを捜しに行きたい。でも町からは出られない。ドクターが見つかれば処刑。処刑。奇流は苛立って頭をかきむしる。行動したいのにできない自分が歯がゆくて仕方ない。そもそも行方の見当さえつかず、どこに捜しに行くと言うのか。それでも大人しくしていられなかった。
足早に階段を下り、リビングへ向かった。興奮で息が乱れている。
「父さん」
呼ばれた涼は、気だるそうに顔を上げた。
「ドクターを捜しに行きたい」
キッチンから雅恵が顔を覗かせる。食器を持つ手が微かに震えていた。
「町にいない」
そう一言呟くと、再び目を閉じて俯いた。話をすぐに終わらせようとする言動に、苛立った奇流は涼の元へ詰め寄った。
「町の外に捜しに行きたいんだ」
涼より先に反応したのは雅恵だった。「まあ……!」慌てた様子で食器を置き、奇流に駆け寄る。
「なりませんよ、坊ちゃま」
奇流の肩に手を乗せた。指先に力が入る。奇流は雅恵を真っ直ぐ見据えた。
「余計な動きをしてごらんなさい。私達に危害が及ぶかもしれません。ただでさえ町中の緊張した空気を感じるでしょう。お願いですから、余計な真似はしないで下さい」
懇願とも言える雅恵の口調に、奇流は反論しようと口を開いた。しかしすぐにそれを涼が制した。
「外に出られないお前がどうやって捜しに行ける。あいつは王牙の捜索で、すぐに見つかるだろう」
王牙によって発見されたら即刻処刑――わかっているくせに。なのに、何故。奇流は涼に掴み掛った。眉根を寄せて、声を張り上げる。
「いい加減にしてくれ! どうして自分の父親をそこまで突き放すんだ! 父さんは間違ってる!」
奇流は勢いよく飛び出した。雅恵も追おうと姿勢を変えたが、涼はそれを許さない。
「旦那様……!」
「……放っておけ」
重苦しい空気が流れる中、二人はただ奇流が消えた扉を見つめていた。
町の外れで奇流は寝転び空を見上げる。ドクターを思うが、自分では何もできない現実を周囲は残酷にも突きつける。毎日毎日外に出たいと願った。まだ見ぬ景色を見たいと願った。しかし誰もそれは許さなかった。何故か。
ワタライ家の人間だから。
抑圧された生活は知るべき事も容易に閉ざす。物心ついた時から奇流に母親はいなかった。詳しい話はおろか母親の名前さえ教えてもらえず、一度しつこく雅恵に聞いた時は、「私がいるので坊ちゃまに母親は必要ないのですよ」と冷たく返された。それ以来誰にも尋ねなかった。
知らない事がたくさんある。いや、知らない事だらけと言っていいだろう。奇流は生まれながらにして閉鎖された空間で生きるのを余儀なくされた。
そんな少年が世界を見たいと願うのは、いけないだろうか。むしろ自然ではないか。
「ドクター、どこに行ったんだよ」
奇流は流れゆく雲を眺めながら呟いた。当然返答はなかったが、それでも言葉を続ける。
「どうして突然いなくなったんだ」
そう、あまりにも突然だった。いつものように奇流に勉強を教え、笑顔で手を振り言った「また明日」それなのに何故。
奇流が大きく溜息をついた時、ふと視界が遮られた。慌てて上体を起こし顔を上げると、男が後ろ手を組んで笑顔で見下ろしていた。
「カキザキさん」
奇流の横に座ると、カキザキはにやついた表情で尋ねる。
「君さあ、本当にドクターワタライから何も聞いていないの?」
小首を傾げ問うと、奇流の頭を撫でて続けた。
「だっておかしくない? 君とドクターワタライは毎日一緒にいたんだろう? 可愛い孫に何も言わないでいなくなるかなあ。何か君に言ってたんじゃないの? ねえ、どうなのさ」
奇流はカキザキの手を振り払った。「何も」消え入りそうな声で続ける。「聞いていない、何も……」
ふうんと不満気な声を漏らし、カキザキは視線を逸らした。笑みは消え、再び振り向いた時、その目に光はなかった。奇流は思わず息をのむ。
「別にさ、私はね。国王が死のうとどうでもよかったのさ」
突然の告白に、奇流は何も返せない。
「国王が死んだ死んだって騒いでいた。あの日私はまだ幼かったけれど、昨日の事のようにはっきりと覚えている。それよりも誕生日だったその日、急きょ誕生日会が中止になったのが非常に腹立たしくてね。もらった熊のぬいぐるみを、包丁でずたずたに引き裂いた」
淡々と語るその表情に、奇流は恐怖を覚えた。何も言えず黙ってカキザキを凝視する。
「王牙は王族を守る立場だけど、正直私は王族がどうなろうが関係ない。ただそれが仕事だし、王牙は国内有数のエリート部隊だ。その名前さえあればそれでいいのさ」
カキザキは唇の端を歪め吐き捨てた。そして立ち上がると再び奇流に目線を落とし、こう告げた。
「何かわかったら、すぐに言うんだよ。町から出ようなんて思ってないよね?」
思わず唾を飲み込んだ音が聞こえただろうか。奇流はふと思ったが、努めて冷静に「うん」と答えた。その返答にカキザキは満足して頷くと、背中を向けて歩き出す。
「出たら駄目だよ……殺しちゃうから……」
くぐもった声で独り言を漏らしながら、カキザキは去って行った。
カキザキの背中を見送り、しばらく動けなかった。王牙の副団長たる所以なのか、カキザキの存在感に体がひりつく。妙な緊張感が胸をざわつかせ、何度か深呼吸をして心を落ち着かせる。
奇流は決意した。出なきゃ、駄目だ。
出るなと言われ続けてきた。しかし出ないと何も始まらない。何もわからないのだ。
方法はあるか。そんな事を考える時間はなかった。とにかく町を出る。最悪正面突破でもいい。
何が何でもドクターを捜すのが大事だ。どこへ向かおうか。ドクターの部屋に貼ってあった地図を思い浮かべた。北東へ抜けるとメーベの森。その先は沈黙の――。
奇流の思考が一瞬止まった。そしてすぐにあの言葉が返ってくる。
――マリベル村で、全てを終わりにする。
「マリベル村」誰にも聞こえない程小さな声が漏れた。
奇流は駆け出していた。物語の核心に触れた高揚感。重大なピースを手に入れた、そんな気持ちが溢れる。マリベル村に何かあるに違いない。家路へ急ぐ中、様々な出来事を反芻する。他には何か言っていなかっただろうか。何でもいい。今は些細なヒントでいいから欲しかった。
ドクターの家に向かおうと思い直した。もしかしたら、自分に対する書置きがあるかも知れない。僅かな望みだが、確かめずにはいられない。しかし眼前に広がる光景に奇流の足は止まった。自宅のすぐ後ろにあるドクターの家。そこに何人もの兵士が扉を行き来し、ざわついた様子が見てとれた。奇流と同じ事を考えている王族が、ドクターの家に何人もの兵士を派遣しているのだ。そしてその流れに乗り、奇流の家も厳重な監視対象にある。奇流はそこに立つカキザキと目があった。しかしすぐにあくまで平静を装って、自らの家に入った。