第4話 国王即位式
自宅に戻った時、いつもと同じく夕食の匂いが鼻腔をくすぐる。リビングに足を運ぶと、ソファーに腰かける人物に向かって声をかけた。
「父さんただいま」
涼は奇流を一瞥し、しばし黙った後「お帰り」と聞き逃しそうになる程小さな声で返した。
奇流はダイニングの定位置に陣取ると、キッチンに顔を向けて口を開ける。
「雅恵さん、ただいまー」
料理を器に盛り付ける女性。ゆっくり振り返り、「お帰りなさいませ、奇流坊ちゃま」とこれまた小さく返答する。奇流は頬杖をついて料理を待った。
すぐに、目の前に湯気がたつ品々が運ばれる。
「旦那様、用意ができました」
雅恵の言葉に涼は奇流の向かいに座った。
「いただきまーす」
奇流の声に二人も手を合わせ食事が始まった。かちゃかちゃとナイフとフォークを扱いながら、奇流は今朝からの出来事を詳細に語る。
「ドクターに魔法の勉強をしてもらってるんだけど、やっぱり俺には無理みたいだ」
肉を頬張りながら話し続けると、かちゃんと皿が音をたてた。
「奇流」遮ったのは涼だ。
「何度同じ事を言わせる」
涼の冷たい声色に、奇流の眉間に皺が寄る。雅恵も手を止め涼を見据えた。
「あの男をドクターなどと呼ぶのはやめろ。お前がそう呼ぶ度に、俺の心はざわつく」
奇流は咀嚼を続け涼を見つめた。
「あの男はワタライ家の名前に大きな傷をつけた。どこでも蔑まれ、監視され、そしてそれは一生続く。わかるだろう、お前にもこの辛さが」
くぐもった声だった。奇流のナイフを握る手が微かに震える。
「自分の父さんを、あの男なんて呼ぶなよ」
しばらく黙っていた奇流が、涼に返した。
「……あの事件の後から、俺はあいつを父親だと思った事は、ない」
重い響き。雅恵は目頭を押さえ、首を振った。「奇流坊ちゃま」振り絞るように声を出す。
「少しは旦那様のお気持ちも考えて下さいませ。国王亡き後、ワタライ家がどれ程の非難に晒されたか。それでも旦那様は必死に復興を願ってきた。それなのにあなたは毎日あの人の元へ通い続け、それがどんな仕打ちであるかわかりましょう」
あの事件。奇流が生まれる前にドクターが国王の病の手術に失敗し、国民の怒りが爆発した事。本来は死刑もやむを得ない中、王妃の計らいによりそれは回避された事。町の外へ出るのは許されず、ワタライ家――ことさらドクターは、特に王族の監視下に置かれている事。
奇流は何も返さず、ひたすら肉を切り口へ運んだ。涼と雅恵もそんな奇流をしばらく眺め、食事へ戻る。重い沈黙の中食事は続いた。それがワタライ家の日常の風景だった。
2
何と言われてもいい。
奇流は一つ大きく息を吐いた。
今の状況を黙って受け入れるのは耐えられない。
大きく背伸びをする。
かつて名家と呼ばれたワタライ家。代々医師の仕事を受け継ぎ、ガルディバ大陸全土にワタライの医術は必要とされていた。
復興を願うなら、なぜ黙って受け入れるんだ。なぜ今の状況を打破しようと動かないんだ。
踏み出す足に力が入る。商店街がある通りを真っ直ぐ進み、中央広場に出る。見上げると壮大な階段が待ち構え、その先に目的地である城は存在していた。
「……貴様はワタライの人間だな」
屈強な体格の男が冷たい視線を浴びせた。奇流は王族に直談判しに行ったのだ。兵士は顔を見た瞬間、奇流がワタライ家の人間だとわかる。ワタライの人間はそれ程周知されているのだ。
「父さんに仕事を与えて欲しい」
奇流の言葉に門番は面喰った様子を見せた。
「ドクターも医者の仕事をさせて欲しい。普通の暮らしをさせて欲しい。王族に伝えてくれないか」
奇流は額を石畳にこすりつけた。「おい、やめろ」「お願いします!」両手が石畳にめり込まんばかりだった。「お願いします! どうか、王族に……!」充血した目を力の限り開き、歯を食いしばって震えていた。「どうか、どうか……!」懇願する奇流に、兵士は口を開いた。
「やめろと言ってるだろう!」
兵士の一喝で、奇流は押し黙る。そして両目をぎゅっとつぶった時、頭上に影ができた。
「……気持ちは、わかる」
兵士はゆっくりと腰をかがめた。
「だがな、これは王族の決定だ。俺達は王族に仕えている立場だ。王族の決定に反する事はできないんだよ」
それでも奇流は動かない。地面に刺さった爪が、割れんばかりに震え悲鳴を上げる。唇が微かに動く。「俺は」声にならない声だった。奇流は咳払いをすると、腹の底から絞り上げる。
「今の状況がいいなんて絶対に思わない。ワタライ家を、一生王族の監視下に置く意味もわからない」
兵士は大きな息を吐いた。
「国が、許さないんだよ」
思わぬ言葉に、奇流は目を見開いた。
「何もお咎めなしじゃ、国が納得しないんだ。死刑は王妃の計らいで回避された。それだけでもすごい事だ。なあ、生きているだけで万歳じゃないか」
そこまで言った兵士の動きが止まった。奇流が振り返ると立ち尽くす涼の姿があった。
「生きているだけで万歳、か」
口の端を歪め呟く。兵士はバツが悪そうにもごもご何か言いかけたが、首元をかいてごまかした。
「死んだように生きるのも、非常に酷な事ではあるがな」
兵士は目を逸らす。涼の表情があまりにも恐ろしかったからだ。まるで全てに絶望したかの如くそれは冷たく、負の感情のみが渦巻いている。
「ワタライさん、この子にきちんと言い聞かせて下さい。またここに来たら問題にしますよ。ましてや今日は国王即位式だ。余計な揉め事はごめんですよ」
咳払いを一つして告げると、涼は顔色を変えず踵を返した。二人は黙ってそれを見つめていたが、奇流は立ち上がり服の汚れを払う。そして涼の後に続いた。
国が、許さない。
奇流の脳裏にドクターの悲し気な笑みが浮かぶ。思わず目を固くつぶる。
マリベル村で、全てを終わりにする――。
顔を上げた。そこにはいつもの風景が広がるばかり。一生ここから出られず、このまま死んでいく。ワタライは国民の監視下で途絶える。十五の少年ながら、自分の行く末をすらすらと辿れた。それはあまりにも簡単な末路だったからだ。
奇流の足取りは重かった。いつものように底抜けの明るさが、全てあの言葉に奪われた。
「国って、なんだよ」
呟きは風に流され、誰の耳にも届かず消えた。手の甲を額に当て、しばし考える。
生きている。そう、確かに生きているだけで万歳。そうかもしれない。
先程の兵士の言葉を繰り返した。しかし涼が言った、死んだように生きるのも酷。それも奇流には痛いくらいにわかるのだ。
ドクターは王宮専属医師団の団長を務めており、息子の涼もいつか父みたいになりたいと願って生きてきた。しかしあの事件以降ワタライ家の信用は失墜し、後ろ指を差された。
それから、ワタライ家の歩む道のりは困難を極める。涼は生粋の勉強家であった。父を誇りに思い、厳しい勉学に励み、いつか自分もと息巻いていたのだ。全てはワタライ家の為だった。こんな事なら、沈黙の鳥籠と称されるマリベル村にでも飛ばされたかった。雅恵がいつだか言った。世間の目が届かない辺鄙な村。そこなら人目を気にせず生きていける。そう思ったからだ。王族はそんな心理的な意味も含めて、あえてこの町に留まる事を強要したのだろうか。
奇流はまだ生まれていなかったので、全て家政婦の雅恵から聞かされた話だ。彼女もまた、涼と共に苦難の道を歩んだ人間となる。眉を潜めとつとつと語る彼女を、奇流はいつも傍に腰かけ見てきた。
「点呼の時間ですよ」
帰宅した奇流に雅恵が言った。ワタライ家には定期的に、兵士が点呼にやって来る。ここ数年は毎日ではないにしろ、一生続く物だとわかっているから気分が沈んだ。町の出入口に兵士が常駐している以上、抜け出す者などあり得ないのだが。
「ワタライ涼、ワタライ奇流、ハナダ雅恵」
兵士の呼びかけに奇流のみ返事をし、定例の点呼は終わった。いない訳がない。そう兵士も思っているのだろう。淡々と、まるで記号のように字列をなぞるだけだ。奇流はこの時間がたまらなく嫌だった。
「兵長、兵長!」
乱暴に開かれた扉。その場の全員が音の方向に目を見張る。
「大変です、ワタライが……」
駆けつけた兵士の息は荒く、言葉が続かない。兵長と呼ばれた男はじれったそうに舌打ちをし、「ワタライがどうしたんだ」と苛立ちを露わにした。
「ドクターワタライが、いません!」
奇流は思わず立ち上がった。「ドクター」そう漏らすと、兵士の顔を食い入るように見つめた。
「町のどこかに」「いないですっ。捜しましたが、どこにもいないんです!」
返答した兵士は今にも泣きそうな表情を浮かべた。無理もない。城下街に一生幽閉が決まっているワタライ家――ことさら事件の張本人であるドクターワタライが行方不明ともなれば、下級の兵士は首を刎ねられかねないからだ。
「どこに逃がした」
兵長は先程までのやる気のなさから一転、目の玉を見開いて奇流達に問う。
「……逃がす?」
涼は鼻で笑う。「どうやって?」
兵長は再び舌打ちをし、手を大袈裟に振り上げ指示を出した。
「至急全住民の家を隅々まで捜索! 無論この家もだ!」
雅恵は無言で首を横に振り放心した。涼は足を組んでソファーに沈んだまま、微動だにしない。
奇流は状況を把握するのに精一杯だった。ドクターが消えた。どこにだとか、何故だとか、それ以前にドクターが身近にいないという事実に混乱していた。