第2話 ドクターワタライ
「ドクター」
奇流はその足で一軒の小さな家に向かった。奇流の自宅のすぐ後ろにあるそこは、古い木造の平屋だった。商店街に行き柚を見送った後、道を戻りここへ来る。日課と言える奇流の行動パターンだ。
ドアノブに手をかける。長い年月のせいなのか建てつけが悪く、ちょっとやそっとの力では開かない事を彼は知っている。一度軽く手前に引いてからノブを右に回す。奇流が知っている、すんなりと開けるコツだった。
「奇流」
みしみしと鳴る廊下の向こう、開きっぱなしの扉の奥から聞こえた。飾り気が一切無い室内。一際目を引くのが壁一面を覆う書棚だ。無数の書物が一寸の隙間もなく埋められ、何度訪ねてもそこは圧巻の景色だった。部屋の中央に位置するテーブルとソファー。奇流は書棚から目線を移した。柔和な笑みを浮かべソファーに腰かける男に、奇流は笑顔で駆け寄った。
「ドクター、おはよう」
ドクターと呼ばれた男は挨拶を返す。所々白髪が交じり、笑うと目尻に皺が寄った。
「今日も柚ちゃんは元気かい」
ドクターはテーブルに置いてあるポットからお茶を淹れ、奇流に差し出した。
「うん」
息を吹きかけ、冷まし冷まし口に運ぶ。「商店街に行く度に、嫌な目にあっていないかい?」と心配そうに問うドクターに、奇流はお茶を飲む手を止めた。嫌な事――とは恐らく、魚屋であった出来事の類だろうと思い当たる。奇流に好奇の視線を浴びせ、心ない言葉を放つ者がこの町にはたくさんいる。
「……本当にすまないね」
俯き黙り込んだドクターを、奇流は明るい声で否定した。
「ドクターが謝る必要なんかない」
奇流は湯呑を持つ手に力を込める。しかしすぐに「熱っ」とテーブルに置くと、一拍の間の後、自身の頭をくしゃくしゃとかいて続けた。
「だからさ、ドクターがそうやって落ち込むと、俺も悲しくなるんだよ! 過去の話は何となくしかわからないけどさあ。そうやって後ろ向きになるんじゃなくて、もっと前向きに行こうよ」
鼻息荒く迫る奇流に、思わず仰け反るドクターは、しばし目を丸くしていつもの柔和な笑みを浮かべる。
「ありがとう、奇流」
奇流は白い歯を剥き出しにした。
「礼なんかいらないよ。いつか必ず、自由になれるから」
そう、自由に――。
奇流は自らに言い聞かせるように反芻した。
ガルディバ大陸にあるここ、ヘブンズヒル。大陸の四分の一を領土として保有する、西側の大国だ。奇流が住む城下町は領土の中央に位置し、人に溢れ、多くの人間が行き来をする。町の周辺に多く生息するレムと言う僅か五センチ程の生物によって、国は多くの資金を得ていた。レムの体内には親指の爪程の蒼い石が存在し、それが兵士に必要な剣の素材となる。その硬さは加工を困難な物にしたが、古くからの職人の努力によって、この国だけが誇る技術に発展した。これを輸出の柱として様々な国と取引を行い、ヘブンズヒルは着々と発展を遂げた。
多くの人が住む城下町と、南に位置する村のリンシア。そこからも子供達が学校に通いにやって来る。しかし奇流は学校に通っていない。通えないのだ。そのため祖父であるドクターの家に毎日通い、様々な知識を得ていた。ドクターは呼び名の通り元医者で、その博学さたるやかつては国内外にその名を轟かせていた。若干十歳で医師免許を取得し、国を代表する医者である彼によって救われた命は数知れない。まさに英雄の名が相応しい人物だった。
そう、あの時までは。
「そもそもどうして戦争をしかけたの?」
奇流が背筋を伸ばしドクターに問いかけた。今読んでいる本の一節を指差して。
ヘブンズヒルの東。山を挟んだ向こうに、ガーベルジュと言う小さな国があった。ドクターは本をなぞりながら口に出す。「ヘブンズヒルはガーベルジュに戦争をしかけ、ガーベルジュの民はそのほとんどが戦火に沈んだ。大戦後はヘブンズヒルが統治する領土となってるが、東側との兼ね合いもあって、こちらが一方的に支配している訳ではない。残された民は国の復興を誓い、今も地道に努力を重ねているんだ。ただ……」
そこまで言って一つ息を吐いた。
「ただ、神霊樹だけはこちらに移したんだよ」
ドクターは神妙な面持ちで告げる。
「しんれいじゅ?」
手元の紙にさらさらと書かれた文字を見て、「あ、木なのか」と納得する。
「その木がどうしたの?」
さらに続く問いに、ドクターは何度か頷き口を開いた。奇流は話を聞き逃すまいと、ドクターの唇に注目する。
「それを人々は神の宝と言っただろうか……ガーベルジュにしか自生しないその木は、世界を見守り人々の心を癒す力があるとされた。しかし当時のこの国の王族達は、心だけではなく体さえ癒せるのではと考えた。簡単に言えば、不老不死が実現できるのでは、と」
不老不死。その言葉に奇流は目を丸くした。
「そんな事が」「できると思ったのさ、彼らはね」
ドクターの口調が、次第に重く強い物に変わっていく。奇流は再び口をつぐんだ。
「その神霊樹を得たいが為に戦争をしかけた。そう、自らの欲望の為だけに、この国の王族達は光や風などの魔法を駆使して一国に攻め入った。……愚かだろう。私は当時お前と変わらない年だったけれど、今でもはっきり覚えている。相手は闇魔法を使い対抗したため、終わった後の惨状は目も当てられなかったよ。ヘブンズヒルの国民は、王族に魔法の禁止を強く希望した。同時に東側も闇魔法の禁止を言い出したから、さすがの王族もそれを一切無視できなかったんだ。それからだよ、この大陸で魔法の使用が一切禁じられたのは。二度と悲劇が起きないようにね」
忌々し気に呟くと、ドクターは横を向いた。奇流もそれにならうと、そこには古い地図が貼り付けられている。一枚は世界地図。もう一枚はガルディバ大陸の地図だった。
「ここがヘブンズヒル城下町。北東のメーベの森に囲まれたこの小さい村がマリベル村。ここに神霊樹が眠っているんだよ」
マリベル村の名は奇流も聞き覚えがあった。城下町の半分にも満たない小さなその村は、周囲一帯をメーベの森に囲まれた沈黙の鳥籠と称される場所である。行商人の往来は国によって禁止されており、村人は城下町から週に一度派遣される商人によって生活に必要な物資を手に入れ、村の外に出る事はないという。
「あの戦火でたった一本残った神霊樹を、何とかマリベル村へ移した。当然ガーベルジュも反発したそうだが、戦争の結果ヘブンズヒルの影響力が上回っていたからね。仕方なくそれを手放したんだ」
――マリベル村で、全てを終わらせる。
奇流の脳裏に浮かんだ言葉。いつだったか、ドクターは冷たくくぐもった声色で、奇流にそう漏らしたのを鮮明に覚えている。その時の祖父が、いつもの穏やかな様子とはかけ離れていた。奇流はそれを恐ろしく感じたので、父である涼にそれを告げた。
しかし涼は奇流に何も言わず、背を向けたのだった。涼は普段から無口で、瞳はまるで闇のように輝きを失っていた。それでも奇流は明るく向かって行くが、次第に涼は奇流と距離を置いた。それは奇流が一番強く感じていた事だ。奇流がドクターの家に通う度に、涼の心は離れていく。それも含めてだろうか。ドクターはわかっているのだろう。奇流と会う度に「すまないね」と心苦しい笑みを浮かべるのだ。
「結局、不老不死の研究はどうなったの?」
奇流はドクターに向き直った。ドクターもまた地図から視線を外し、かぶりを振る。
「前国王の意向で、それは取り止めになったのさ。戦争の時、彼はまだ王子の身分だったから、不毛な争いを止められない自分がはがゆかったのだろう。戦争から三年後に父である国王が急逝し、幼いながら跡を継いですぐに、神霊樹は何人たりとも触れられぬ手配をしたと聞いたよ。戦争で数々の血を浴びたその木は、本来の輝きを失ってね。もう皆が欲しがる力は消滅したと言う学者もいるのさ」
「ふうん……」と漏らして奇流は本に向き直る。するとそのページに綴られた解説に、奇流は思わず声を上げた。
その声にドクターは振り返り、奇流の手元を覗き込む。眼鏡を上げて目を凝らすと、表情を変えて音読を始めた。
「その力を目の当たりにした人々は恐怖した。全ての破壊を可能にする闇魔法。人々を癒す光魔法。他にも様々な魔法があるが、それぞれを宿し、誕生する者を魔法使いと呼ぶ。魔法使いは自身が魔法使いとして覚醒して初めて魔法と主従契約を結べる。それから自身で魔法を発動できる」
奇流は立ち上がった。
「へえ。じゃあ本を読んで魔法を唱えたって、魔法が発動する訳じゃないって事ね」
ドクターは目尻を下げ、小さく頷いた。
「誰でもできたらこの世は魔法が乱発する世界になってしまう。魔法使いは自身の能力を悪用せず、しっかりこの世のために使える者でなくてはいけない。どうやって選ばれるのかはわからないが、少なくとも闇の力が暴発すれば、この世界は消え去ってしまうだろう」
「そっか。まあ、魔法の勉強は少しずつ頑張らなきゃだな。今までドクターが色々教えてくれたけど、詠唱って覚えるの大変だからさぼってたし。でもさ、俺ももしかしたら魔法使いかもしれないよな?」
目を爛々と輝かせ問う奇流に、ドクターはふっと笑った。
「そうかもしれないね」
奇流は破顔し、両手の拳を強く握った。そして胸を張って声を上げる。
「いつか契約した時のために練習だ。えーっと……。最果ての地で眠る光の精霊よ。今、沈黙を破りて我の元へ集え。我は誓う。我が肉体が朽ち果てるまで、汝と共に在らん事を」
たどたどしくなぞる奇流を、ドクターは黙って眺める。
「覚醒の眠り人!」
奇流が声高に叫んだ。そして部屋が静まり返る。
「……………………ふっ」
奇流の頬が薄っすらと染まる。ドクターはくつくつと喉を鳴らし、遂に耐え切れず声を漏らす。それを見て奇流は抗議した。
「そんな笑うなよ! ああ、練習って恥ずかしいな。やっぱりやーめた」
項垂れる奇流に、ドクターは口元に手を当てたまま首を横に振る。
「この世界の子供達は、誰もが一度は試しているさ。かく言う私もね」
そう言って慰めると、奇流は肩を落として「だよね」と返した。