第16話 闇の力を持つ者
ご自由にお通り下さい。まるでそう言っているかのように、マリベル村へ続く町の出口は奇流の目の前にある。奇流は思わずその場に立ち止まった。そして約束の時間に現れた女性に手を振る。
「おはようございます、キリハラさん」
キリハラは「おはよう」と返すと、奇流の隣にいるスイに目を奪われる。
「君は」
足元が地面に接していない。そして目をスイの顔に向けると、それに気が付いた奇流が慌てて説明に入る。
「あ、こいつはスイ。平たく言えば魔法です、はい」
雑な説明ではあるが、それ以上何と言っていいかわからない。しかし慌てて「あ! 光の方ね!」と付け加えると、キリハラの表情を窺う。スイが魔法であるのは間違いないが、それですんなり納得する人間は今の時代には少ないだろう。
頭をかく奇流にキリハラは特段詮索せず、こちらに視線を戻してこう伝えた。
「俊成様の計らいで開けて下さった。この機会をきちんと利用しなさい」
奇流は大きく頷いた。
「俊成様が馬を用意してくれたから、これで行きましょう」
奇流は再び頷き、馬に向かって一歩を恐る恐る踏み出した。誰も咎める者はいない。それなのにあの光景が脳裏をよぎる。あの恐ろしい程鼻につく、血の臭い……。しかしすぐに目を見開き背筋を伸ばして進み出した。スイも奇流に続く。キリハラは腰に差した剣の感触を確かめるように触ると、奇流の後に続いた。キリハラの手を借り馬に跨ると、奇流は彼女の腰に手を回した。
「それにしてもよく許可が出たな」
感慨深げに奇流は呟いた。生まれて初めて町を出る。眼前に広がるのは草原。商人の往来に使われる舗装された道を進む。草木のざわめきが耳に届き、冬の訪れを告げる冷風が肌を撫でる。見る物、聞く音、全て新鮮だった。それを噛みしめる。
「腐っても彼は王族よ。ましてや国王の長男。他の王族もそう無下にはできないでしょう」
腐っても王族。俊成自身も言っていた言葉に、奇流は思わず苦笑する。
「あそこがメーベの森よ」
キリハラが見据えた先――うっそうとした雰囲気が漂っていた。奇流ははやる気持ちを抑えそれを見つめる。次第にそこは大きく奇流達の前に現れた。メーベの森。その存在を名前でしか知らない奇流であったが、今まさに目の前にそれが広がっているかと思うと、何とも言えない気持ちになる。自分は紛れもなく外に出たのだと、改めて深く実感する。
馬から降り、奇流は足を踏み入れた。じめじめした空気が肌にまとわりつく。地面も湿り気を帯び、所々ぬかるんで足を取られた。樹木の香りがむわっと鼻についた。枝が行く手を阻むように伸び、小鳥のさえずりはやまない。
成程、これは荷物を背負って抜けるのは至難だ。奇流は自身の足元を見て思った。一方のキリハラは顔色一つ変えず淡々と先陣を切る。随分なれた物だと思った時、口を開いたのはスイだった。
「あなたの職務を教えて欲しいのですが」
キリハラは振り返らずに声を上げる。
「私は城内の統制官よ。簡単に言えば城内外に目を光らせ、皆が円滑に仕事を進めるようにする役目なの。他にも国民への伝達事項の整理、学校と連携して、優秀な人材の発掘と育成。要は何でも屋よ」
その他にも幾つか仕事内容を上げたが、一度に把握するには多すぎる量だ。しかしそれを感じさせない程淡々と語る彼女に、奇流は心の中で感嘆した。風丸が慕っている様子を思い出し、それもそうかと納得する。奇流が考える頭の固い城の人間、ではなさそうだ。
その時――。スイとキリハラが同時に反応する。それに遅れた奇流であったが、素早くスイが奇流の前に立ちはだかった。同時に轟音が響く。奇流の全身がぴりぴりと波打ち、思わず身をすくめた。
「ギルアントだ! 下がりなさい!」
キリハラは剣を引き抜いた。それは余りにも細く一見頼りなく見える。ギルアントと呼ばれる全身毛むくじゃらの獣は仁王立ちし、優に三メートルはある自身の巨体をこれでもかと大きく見せた。
奇流は一瞬にして背筋が凍った。人を襲う獣――。友明の言葉が脳裏をかすめた。
毛から僅かに覗く上向きの鼻が荒く鳴る。足を何度か地面に擦り付けると、それが始まりの合図になった。ギルアントはそのまま大きく踏み出すと、空を切り裂いて突進する。雄叫びを上げながら迫って来た。地響き。地面を揺らすそれは、奇流の体を恐怖で縛り付けるのに充分過ぎた。
キリハラは逃げ出さず、それどころか素早い動きで間合いを一気に詰めた。ギルアントは右手を大きく振り上げる。鋭い爪でキリハラを引き裂こうとしているのだ。しかしそれは虚しく空を切る。キリハラは寸前に跳躍し、かわすと同時にギルアントの眉間を貫いた。
轟音が大波となって辺り一帯に響き渡った。ギルアントが両手で顔を覆いながら、咆哮していた。しかしすぐに戦闘態勢に戻ると、キリハラだけを標的にし、全身を投げうつ格好で両手を上げて仰け反る。反動で威力を増幅させ、両手をキリハラめがけて叩きつけた。奇流は両目を見開き叫んだ。
「キリハラさん!」
土煙が立ち込める。恐怖で身動きがとれない奇流は、何もできなかった。震える唇から僅かに息が漏れる。
「キリハラさん……」
泣きそうな声色で名を呼んだ。ギルアントが鋭い目つきで、奇流を捕捉する。その瞬間心臓を握り潰されたような衝撃が全身を一気に巡る。
「あ……」
ギルアントが一歩、また一歩と奇流に歩み寄る。自身の命の危機が間近に迫っていると言うのに、奇流の体は一向に動かなかった。圧倒的な恐怖心が全身を駆け巡り、逃げる選択肢を思い浮かぶのさえ阻止していた。
「奇流さん!」
スイが叫んだ。いくらスイと言えども、この巨大な猛獣に打撃で向かうのは不可能だ。
「あなたの獲物はこっちよ」
ギルアントの後方。唖然とする程の跳躍力で。細身の彼女が姿を見せた時、奇流の目は完全にそちらに奪われた。
美しいと思った。自然に湧き起こったその感情のまま、見惚れて目を離せなかった。
「ギイイイイイイイイアアアアアアアアアアッ!」
ギルアントの脳天めがけて突き刺さった剣は、煌めきを失わないまま獲物の命を絶った。キリハラはギルアントの頭上に立ったまま、静かに目線を下に向けている。
少ししてキリハラは剣を引き抜くと、溢れた血が飛沫となって噴き出した。驚く様子も見せず、彼女は華麗に地上に降り立った。
「大丈夫?」
息を一つ吐き、奇流に向き直る。奇流は言葉に詰まり、何度か頷いて自身の無事を知らせた。
再び歩き出したキリハラの後ろで、スイは小さな声で奇流に言う。
「おかしいと思いませんか」
スイの質問に、奇流は縮み上がった心臓を服の上からぎゅっと握り「ん?」と返す。
「兵士じゃない彼女が、何故あんな動きできるんですかね。迷いのない一連の流れは、まるで王牙レベルだ」
スイは訝し気に前方に視線を送る。「……話が上手くできすぎている気がする」スイの懸念に奇流も押し黙ったが、ややあって返した。
「それでも今は行くしかないだろ」
奇流は前を見据えた。スイは溜息をつくと「そうですね」と同調する。千載一遇のチャンス。これを逃せば、マリベル村へ行ける術はなかった。
どのくらい歩いただろうか。キリハラが休憩を提案した。奇流にとっては一刻も早く村へ向かいたかったが、なれない道を長時間歩き続ける体力もなく、その提案に首を縦に振る。
「スイは歩かなくていいなあ。羨ましい」
水筒を口に近づけて言う奇流に、スイははっと鼻で笑った。
「何だよ」馬鹿にした態度に奇流は唇を尖らせる。
「確かに足がもつれる事はありませんが、僕はあくまで主と言う器がないと無力ですよ。羨望される存在ではありませんね」
スイは奇流の横でくるくると回る。キリハラはそんな二人のやり取りを見て口を挟んだ。
「ガーベルジュの大戦以降、魔法は禁止されたはずよ」
スイはキリハラを一瞥した。「それが?」ただならぬ気配を察知し、奇流は二人をなだめるように慌てて割って入る。
「そうだけど、急に現れたからさ。罰則とかあるなら全部終わってからにしてよ。今俺が捕まったら、ドクターの処刑を止められない」
奇流は思った。そうだ、それは突然だった。兵士によって殺されかけた時――自分の死を意識した時にスイは現れた。魔法についてドクターから習ってはいたが、まさか自分が光魔法の使い手になるとは。奇流はそもそも何故自分なのか疑問を持ち、スイに尋ねた。
「なあスイ。そもそも何で俺がスイの主人なんだ?」
するとスイは、端的に答える。
「偶然です」
奇流は「はあ?」と間の抜けた声を漏らした。スイは苦笑して続けた。
「心の綺麗な人間に光の魔法が宿る、と言いたい所ですが、主人の誕生と共に僕達魔法も誕生する。善人だろうと悪人だろうと判断しかねますから。第一生まれながらにしての悪は案外少ない物ですしね」
奇流は大きく息を吐いた。「そうかあ」するとキリハラが口を出す。
「闇の魔法も目覚めた可能性はないの?」
スイの表情がさっと曇る。
「奇流さんには話しましたが、大いにあります。もしそうなら、今度こそ僕はやつを食い止めなくてはいけない」
奇流は小さく頷きながら真剣に聞いた。キリハラはふっと息をつくと、「その闇の力の持ち主は一体誰なのかしらね」と言う。スイはしばらく黙り、ゆっくりと口を開いた。
「これは偶然ではないと思うんですよ。ドクターワタライの失踪、ツヅキ俊成の突然の国王即位表明、一連の流れの中で僕は目覚めた。つまりこの流れに乗る者の中に、力を宿している者がいると思うんです」
スイの言葉に、奇流はばっと二人に向き直って叫んだ。
「サイガ国雅!」
その言葉にキリハラは口にしていいか悩むように黙ったが、奇流から催促されて話し出した。
「サイガ団長なんだけど」
思い出して語るキリハラを、奇流とスイはじっと見つめる。キリハラは手にした水筒を地面に置き、続けた。
「三ヶ月前。ヘブンズヒルとガーベルジュとの対戦から五十年の今年……その悲劇を二度と繰り返さぬよう、城内で式典が行われたの。そこで王妃が挨拶をしていたんだけど……」
キリハラは黙った。奇流は先を急かす。「それで?」キリハラは一拍の間の後、再度口を開く。
「偶然サイガ団長に目が行ったの。すると忌々し気な表情を一瞬浮かべる姿があった。ほんの一瞬。恐らく他の者は気が付かない程――。あの時の団長の表情が、今もずっと私の中で引っかかっているわ」
ガーベルジュの大戦。ヘブンズヒルの王族が刻んだ忌まわしき歴史。スイは言葉を重ねた。
「今年で丁度五十年。それも一連の流れに組み込まれているではないですか」
奇流は喉を揺らす。キリハラがずっと引っかかると言うサイガの表情。
「……行きましょう、マリベル村へ。もしかしたら思った以上に、私達に時間はないのかもしれない」
すっくと立ち上がるキリハラに、奇流とスイは頷いた。