第1話 ワタライ家
プロローグ
地がうねる。
立つのもままならない程、それは怒涛の勢いで少年の体を打ち付けた。耳を塞ごうにも両手が動かない。その場から逃げ出そうにも、足が言う事を聞かない。完全に少年は圧倒された。
「死刑! 死刑! 死刑!」
人の、いや群衆の叫び声だと気が付いた時、少年はようやく事態を飲み込んだ。
「ワタライに死を! 死の制裁を!」
瞬間、胃の底から込み上げる不快感を堪える。目の前が真っ暗になり、足元がぐらついた。自分の周りが全員敵である絶望感。生まれて初めての事態に、全身から汗が噴き出した。
国民が、自分の父の死を望んでいる――。
少年はふらつく足取りで、何とかその場を逃れようと踵を返す。背中に受ける銃弾のような怒号は、まるで少年を焼き尽くさんばかりだった。
どうして、父さん。どうして。
脳内で必死に問いかける。一体何があった。勢いよく思考を巡らせる。
確か、父さんは、父さんは。
上手く考えられない。手足の動きがバラバラで、まるで自分の体ではないようなおぼつかない足取りだった。目に入った人通りが少ない路地裏に、逃げ込むように倒れた。
父さんは、助けようとして。
顔を覆って頭を振った。そうだ、どうしてこんな事に。
「お前は勉強が好きなんだね」
はっと顔を上げる。「父さん」呟くと、父の姿が脳裏に浮かんだ。
そうだよ父さん。俺は父さんみたいになりたくて、必死に勉強して、そしていつかは――。
少年は弾けるように駆け出した。ここにいてはいけない。帰らなければならないと思った。家に帰って聞かなければならない。
きっと皆は言ってくれるだろう。これは何かの間違いであると。あなたのお父様は神様なんだからと。そうに決まっている。いや、そうでなくてはいけないのだ。
もつれる足を何とか動かし、家路へと急いだ。商店街はいつもの活気がない。皆、町の中央に位置する広場に集まっているのだろう。少年は店から視線をずらし、再び家へと進む。
遠い道のりに思えた。足はもつれ、頭はひび割れんばかりに悲鳴を上げている。群衆の声が何度も少年を突き刺した。違う違う違う……。呻きながら一体どれくらいたっただろう。
ようやく、見なれた外観が眼前に広がった。
「涼坊ちゃま!」
聞きなれた声に思わず少年――ワタライ涼は安堵の息をついた。
「雅恵さん、外が、大変で」「わかっています。とにかく坊ちゃま、中へ!」
急かされ強引に腕を引っ張られた。雅恵は目を鋭く光らせ、何度か顔を左右に振って辺りを見渡すと、手早く扉の鍵を閉める。
「ここが民衆に囲まれるのも、時間の問題ですわ」
ソファーに腰かけ目頭を押さえて言った雅恵に、涼は向かい合う形で座り、唾を飛ばしながら矢継ぎ早に発した。
「父さんが手術に失敗したなんて本当なの? 間違いなく成功するって言ってたじゃないか! 国王が亡くなったなんて……。父さんのせいで亡くなったなんて信じられない!」
テーブルを強く叩く。しばしの沈黙が二人を包んだ。涼がちらりと目線を動かすと、ある異変を指摘した。
「……皆は?」
何故雅恵一人しかいないのだ、とようやく疑問が浮かんだ。いつもなら忙しなく夕食の支度をする音が響く時間帯。こんなに静かなワタライ家は、生まれてから一度も経験がなかったのだ。
「……皆、荷物をまとめて出て行きましたよ」
喉の奥から絞り出す低い声がした。雅恵が苦悶の表情で涼を見つめる。
「出て、行った」
雅恵の言葉を繰り返す。どこにだとか、何故だとか、幾つも続けようがあったが、涼の思考がついていかない。唇をぱくぱくと上下させるしかできなかった。
とにかくまずい事態になった。それだけは嫌でも理解する。そして雅恵だけが自分の帰りを待っていてくれた事も。
沈黙を打ち破るように、激しく扉を叩く音が響いた。涼は目を見開いて振り返る。
ワタライ家の、長い長い戦いが始まる音だった――。
第一章・ワタライ家
1
靴紐を結び立ち上がると、ワタライ奇流はリビングに向けて声をかけた。
「行ってくるから」
己に向けられた物だとわかっていながら、父である涼は無言を貫いた。いつも通り返事はなかったが、奇流は気にせず外に出る。開けた視界の先は、果てしなく続く青空だ。快晴と呼ぶに相応しいそれが彼を迎えた。清々しさに思わず笑みがこぼれる。
朝の空気が奇流の体を包み、ひんやりと鼻を通る。それがもうすぐ訪れる冬の予感を奇流に伝えた。ふっと吹いた風が彼の銀髪を撫でる。奇流は背伸びをして両腕を回すと、「よし」と一つ気合を入れて歩き出した。
石畳を進む。商店街には人通りも増え始め、多数の子供の声が奇流に届いた。
「おはよー」「おっす」「宿題やったか?」「やってねえよ」
どこにでもある会話。奇流とさして変わらない年代の少年達は、元気よく駆けて行く。奇流はそれを聞きながら、商店街の軒先に目を向けた。この通りは朝早くから店を開け、早朝の時間帯にもかかわらず活気づいていた。町一番の大きい通りだ。数十の店が軒を連ね、通る人々に威勢のいい声をかける。大きな荷物を背負い外から来た行商人も数多く目に入った。
奇流の視線に気が付いた魚屋の主人が、他の客と意味深な目配せをした。またか、と思ったが面倒なので、奇流は気が付かない振りをする。
「ワタライさんとこのかい」
客の男がにやついた表情で口を開いた。奇流は小さく頷くと、男は大袈裟に右手を頭に乗せて、声を張り上げる。
「ワタライさんに売るもんはねえよお。なあ旦那、あんたも困っちゃうよなあ」
男に呼びかけられた主人は苦笑いを浮かべ、何と言っていいかわからない困惑の表情になった。奇流は黙ってその場を去ろうとしたが、男はそれを許さない。
「大体よく外に出られるよなあ。俺なら申し訳なくて人前で歩けねえよ。なあ坊主、おめえのじいちゃんは」「ちょっと、やめなよ」主人が男の声に被せた。
数秒の沈黙が流れた。伏し目がちの主人を尻目に、男は手入れが行き届いていないべたついた髭を触りながら、唇を舌で濡らす。こんな沈黙も奇流にとってはなれた物で、ふっと一つ息を吐くと、何も言わずその場を後にした。
「奇流、おはよう」
明るい声が耳に届く。目の前に佇む少女の姿に、奇流は笑顔を向けた。
「よう、柚。おはよ」
イズミヤ柚は満面の笑みで奇流を出迎える。黒く肩までの髪の毛が、朝の光に照らされて眩しい。
柚は左に向き直り、店の奥に向かって声を出した。
「行って来ます」
するとすぐに奥から二つの影が動いた。「おう。お、奇流。おはようさん」
野太い声が奇流に届く。林檎が入った箱を「よっと」と店頭に置き、男が表に出てきた。続いて体格のいい女の姿が続く。
「奇流、これ食べな」
女は林檎を一つ手に取りエプロンで何度か拭くと、奇流に向かって放り投げた。奇流は右手でキャッチすると、「うまそう。ありがとおばさん、おじさん」と頭を下げる。
奇流は受け取った林檎にかぶりつく。じわりと舌へ甘味が伝い、思わず顔がほころんだ。
「奇流はおいしそうに食べてくれるからいいねえ。柚なんてたくさん作ってもいつも残しちゃうんだよ。だからこんなに細っこい体しちゃって」
やれやれと言った様子で溜息をつく母に、柚は頬を膨らませて反論した。
「だってお母さんが作る量が多いのよ。毎回毎回とても食べきれないよ。ねえ? お父さん」
柚の母――和代は柚の頭をわしゃわしゃと撫でまわし、「なら、毎日奇流に来てもらおうか」と豪快に笑った。途端に柚の顔は赤くなる。父の友明も驚きの表情で奇流と柚を見比べた。
「ま、毎日なんて奇流に迷惑だわ。ね、せめて一日おき……」
そこまで言って「違う違う」と柚はかぶりを振った。
「もお! とにかく行って来ます!」
両親は笑いながら手を上げて柚を見送る。そして奇流も残りの林檎に口をつけ、片手を上げた。
「奇流、夕方……。無理しないでね」
そう言って進んだ柚だったが、何度も奇流を振り返りながら、名残惜しそうに学校へ続くいつもの道を歩いて行く。奇流はその姿が見えなくなるまで、柚の両親と共にその方向を見つめていた。半年前までは学校まで柚と歩いた。しかし次第に一人で行けるようになり、それからは帰りだけ校門前でおちあうようになった。
「さてと、奇流はこれからじいちゃんの家に行くのかい?」
和代の問いかけに奇流は「そうだよ」と短く返し、「林檎おいしかった。本当にご馳走様」と付け加えて歩き出した。
残された二人は、奇流に手を振りその姿を見送る。
「……奇流、あんたもいつか、いつかきっと……。普通の暮らしができるからね」
和代は奇流の背中に呟いた。