IV-B※: 私も、嫌じゃ無いから
咲妃と分かれてからは深沢くんとふたりきりだった。こうしてふたりだけで学校からの帰り道を歩くのも久々な気がする。もちろん今日の場合は学校からというわけではないけれど、学校行事終わりの帰り道という意味では間違っていないと思う。
そんなことをぼんやりと考えている間に、ゆっくりとゆっくりと今日の終わりが近付いてくる。とくに会話はない。だけれど、これはいつも思う。
――この静寂が心地よいのだ、と。
きっと深沢くんは今の私の歩く速度に合わせてくれている。いつもより明らかに遅い。普段の学校で見かけるときよりも、ふだん靴を履いて隣を歩いているときよりも。
「……着いたけど」
「着いたな」
だけれど、帰り道の長さは有限。
「じゃあ、その……」
「入る?」
――『なぜか』なのか、それとも『だからこそ』なのか。
「浴衣、脱がないといけないから。手伝って」
そう言ったときの彼の顔は正直で、目の奥が少し跳ねる。
ほんとうはひとりでできる。腰ひもの位置も、帯の張りも、指が覚えている。でも、指先の温度は自分では足せない。
「良いのか? 俺で」
「あなたしかいないもの」
私はこんなことを口走って、彼を引き留めていた。
○
もしかしたら喉が渇いているかもしれないと思い、まずはキッチンへと向かった。彼をこの家に招いたときは何だかまずはここから始まっている気がする。少しばかりいろいろなことを考えてしまうが、今日はそんなことはどうでも良かった。
私の想像通り、彼は水分を欲していた。あまりにも勢いよく飲むから少し驚く。思ったよりもたくましく見える喉に視線が勝手に向いてしまった。
「……スポーツドリンクみたいなモノの方が良いかしら」
彼は固辞しようとしたが、そんな飲みっぷりを見てしまったら無視できない。残念ながらスポーツドリンクはこの家には無かったが、冷蔵庫のレモン果汁と棚の中のはちみつで彼ははちみつレモンを作った。食材ならいくらでも使ってくれて構わないから自分の分だけ作ってそれを飲んでくれれば充分だったけれど、彼は私の分まで作ってくれた。
「甘味とか酸味とか、足さなくて大丈夫? 本当はもうちょっとレモン足してもイイかな、って思ったけど」
そんなことも言ってくれるから――
「だったら任せるわ。あなたの見立てを信じてるから」
彼に委ねるのが良いと思えた。
お手製はちみつレモンを口にふくむと酸味が舌に柔らかく残る。ほのかに甘い。
やはり、自分の判断は正しかった。
○
学校祭初日を無事に終えられたことを祝うような乾杯の後、私の部屋へ向かう。またしても彼は恐縮しながら部屋へと入る。いつまでも初心な様子は少し面白い。
「じゃあ、お願いできるかしら」
「おっけー……。いやまぁ、あんまりおっけーじゃないんだけどさ」
そんなことを言いながら彼はスマホで浴衣の着付け方法を検索し始める。帯の結び方ひとつにも感心している彼に言わなくて良いことを言ってしまい、そのせいでひとりで和装できることがバレてしまった。気付かれないかもしれないという甘い期待はしっかりと霧散した。本当に失敗だったと思った。
「……一応は教わったことがあるという程度よ。綺麗にできるかは別問題」
そう言って誤魔化そうとしてみたが実際どうだったのだろう。とくにそれ以上の追求をしてこなかったけれど、ただ空気を読んでくれただけかもしれない。
「浴衣好きっていうから、脱がすのも好きなのかと思って」
それが少しだけ悔しくて悪い冗談を言ってしまった。いくらなんでも彼が怒ってしまうかもしれないとは思っていた。何か反論をしようとはしていたらしいけれど、最終的には笑ってくれた。
「でもまぁ、にか……、じゃなかった。菜那らしいというか」
私らしい――。よくわからないけれど、彼の中ではそういう感じらしい。
それで言えば、いつまで経ってもどことなく新鮮さのある反応をしてくれることが、私の中にある彼らしさかもしれなかった。
名前呼びについてもそう。何となく言いづらそうな雰囲気はあった。理由は何だろうと思っていたが、それは『私が嫌だと思っているかもしれないから』だったらしい。
「私も、嫌じゃ無いから」
まずは誤解の解消を。
「……だったら、私も慣れた方がいいのかしら? ……蓮くん、って。それとも、蓮、って言った方が好みかしら」
そして、次の提案を。
「だったら、『蓮』で」
「解ったわ、蓮」
呼んだ瞬間、彼の呼吸がほんの少しだけ深くなった。夜の帳は少しだけ柔らかくなったような気がした。彼の指先はそれでもまだカタさがあったけれど、それも徐々に、私を締め付ける浴衣が緩められると同じ速度で柔らかくなっていったと思う。
「ここから、いくよ」
「ええ」
帯の結び目を彼が探る。この段階ではまだまだ指に迷いがあった。
彼が迷うたびに、布が小さく鳴く。
「帯、ほどくよ」
頷く。結びの下に通した飾り紐が、するりと抜ける。ひとつ、息が軽くなる。
次は腰ひも。結び目の硬さが夜に溶けて、浴衣全体の張りがふっと緩む。生地が肌から一歩退くと、空気が入り込んでひやりとした温度が背中に触れた。
衿は彼の手で左前、右前と、順に外されていく。ただ穏やかな時間が流れる。彼に見られているという感覚は嫌いじゃない。彼の視線は触れてくるよりやさしい。不思議だった。
肩口をそっと支えられ、布が静かにすべり落ちる。衣擦れの音は、祭りの最後の拍手みたいに短くてやわらかい。指が鎖骨の上をかすめた気配はほんの一瞬。彼はすぐに距離を戻す。その慎重さも決して嫌いではなかった。
さて、これで完全に私は生まれたときの姿に戻った。
彼は今どうしているのだろう。後ろを振り向きたい気持ちもあるけれど、ベッドに置いてある部屋着に手を伸ばす。自分の汗のニオイに少しだけ悩むが、一旦は服を着ることにした。以前、彼としたビデオ通話のときに見せた部屋着だ。咲妃に言わされた感はあったけれど、嫌いでは無いという彼の言葉を信じたチョイス。
「どっちが好き? 浴衣とコレ」
「……状況が違いすぎて比べられないっての」
満更でもなさそうなので、少しだけ安心した。
――安心? 何故だろう。よくわからない。
一度落ち着くためにも彼に着替えの有無を尋ねてみたが、彼は換えを持って来ているという。行燈作業もあって彼はもっと汗をかいているはずだ。
だったら提案することはひとつだけ。
「そもそもシャワーとか浴びた方が良いわね」
「え? あぁ、うん……ん?」
「なら、私もそうしようかしら。……誰も帰って来ないから、安心して」
本当に、丁度良かった。
○
夜というものは、静かで暗くて、そして冷たさを纏っているもの――。そういう意識は小さい頃から何となく抱いていたけれど、中学生、高校生と進学していくたびにその認識は深く強くなってきていた。
ならば恐らくそれはきっと、年を追うごとに強くなっていくモノなのだろう。
私はそう考えながら夜を過していた。
――それが、どうだろうか。
「どうかな」
「ん、おいしいわ」
冷たい水に氷を浮かべてレモンとはちみつを注いだドリンクを誰かと飲む。
それだけで、なぜか夜は少しだけ暖かな色を纏ったように思えた。
「ちょっと疲れたなぁって思ってたけど、これのおかげでだいぶ回復した気がする」
「私もよ。ありがとう」
「いやいや、こちらこそ」
さらにもう一度『こちらこそ』と言いたいのだけれど、それではきっと堂々巡りになってしまうのだろう。きっと夜が明けてもなお、互いに『こちらこそ』と言い続けるのだろう。
それくらい、もう解るのだ。
深沢蓮という男の子はきっとそういう人だと、私はもう知ってしまっているから。




