4-14※: 「私も、嫌じゃ無いから」
柑橘系の香りはやはり疲れを癒やしてくれるものだ。
今目の前にある美少女の浴衣姿もものすごいヒーリング効果があるものだ。
そんなふたつの確信を得られた学校祭1日目もそろそろ終わりが近付いている。
つまりは、そういうことだ。
「じゃあ、そろそろ行きましょうか」
「ッス」
「何それ」
「ちょっとだけ気合いを入れようと思って」
気合いというよりは心頭滅却に類する何かなのだが、いちいち口頭で説明するのも恥ずかしさしかないので止めておく。仕方ない、こればかりは仕方ない。
今から俺は、その美少女の身体を包み込んでいる浴衣を脱がさねばならない。
そんなあまりにも重大すぎるミッション。いろいろな意味で難易度が高いのにも関わらず不可避のイベントになってしまった。もう少し自分のレベリングを済ませておきたかったのだが。もはやそんなことをしている時間もなければ、裏技なんてモノも当然無い。
うん。やっぱり気合いも入れないとダメっぽいな。
そんなことをこっそりと考えながらも、浴衣姿の彼女に導かれて上階へ向かう。わりと慣れた道のりではあるがなかなか見慣れてくれない景色でもある。照明器具とか手すりの感触とか、やっぱりちょっと違う。下品ではない高級感。
「……どうしたの?」
「ぁあ、ごめん」
ぼーっとして部屋の前に佇んでしまっていたらしい。
「お邪魔します」
「変なの。初めてじゃないのに」
くすりと笑う。
――何だろう。今日はいつもよりやたらと雰囲気が丸い気がする。きっとこれは贔屓目とかそういう下駄を履かせた感想ではないと思う。
入ってみると、ちょっとした安心感のある空間。理由はきっとひとつではないし、複雑に絡み合っているはずだ。少しだけ顔を出したモノは意地でも抑え付けておく。
しかし部屋の電気は少し暗めにされている。深夜に近付くタイミングだと、あまり部屋は明るくしないスタンスなのだろうか。彼女の肌理細かさや白さがよくわかってしまう。
菜那は一度クローゼットへと向かった。恐らくは着替えを探しているのだろう。実際、大した時間もかけずに戻ってきてくれた。俺があちこち余計なところを見る間もなく。
「じゃあ、お願いできるかしら」
「おっけー……。いやまぁ、あんまりおっけーじゃないんだけどさ」
ごちゃごちゃと言う俺を、釈然としないとでも言いたそうな顔で見つめてくる。そんな彼女のことを凝視できず、小っ恥ずかしさから顔を背ける。
「とりあえず、ちょっと検索させてくれよ」
「何を?」
「その……浴衣っていうか、この帯あたりの構造とか、……コレとか」
「……ああ、飾り紐」
そういう言い方なのか。わかりやすい言い方ではあるけれど、存在として解りづらい。
とはいえ検索ひとつである程度は把握できるから助かる。今だけは都合良く彼女から視線を逸らすという目的も達成できたから助かる。液晶のバックライトが少し眩しい。
「帯の結び方ってこんなにあるんだな」
着付けの流れがまとめられているサイトを見ると、最後の方に帯の結び方が写真付きで載っている。ざっとまとめられているのでも10種類はある。男のは1種類なのに。
「そうね」
「……ん? あぁあ、そっか。やってもらえるんだっけな」
「ええ」
諸々をさらに把握した。
学校祭1日目はお昼過ぎくらいから校舎1階にある会議室が着付け会場になり、浴衣を持っていけば着付けをしてもらえるという話。メイク道具もあればレッスン付きでやってくれるということだった。
当然その近辺は男人禁制。厳重なガードが施されていて男子生徒からしたら禁断の空間だ。
「一応ひとりでもできるけれど、綺麗にしてもらえるならって。あとは、咲妃も居たしね」
「なるほど……ぉ?」
さらに把握できたことは増えたが、同時に理解できなくなったこともひとつ。
今、『ひとりでもできる』って言ったな。
「着付け、できるんだ」
「……一応は教わったことがあるという程度よ。綺麗にできるかは別問題」
一瞬だけ間ができたのは気になるが、その言い分は理解できる。
たしかにそうだろう。一応着られる状態にすることと、綺麗に着ることは違う。ただ身体を通せば良い洋服とは違う。
「じゃあまぁそういうことで良いんだけど。その……脱ぐ時っていうのは着付けとは違うとは思うけど、俺は余計なことはしなくていいんだよな?」
「そうね」
「……え。じゃあ俺要る?」
「要るわよ」
前後関係が繋がっていない気がする。どう考えても俺の手なんて要らないような気もする。
だけれど彼女は真っ直ぐに俺を見つめてくる。
――都合の良い捉え方をしていいのだろうか。
どこからともなく、そんな甘い誘惑が聞こえてきた気がした。
だが、それよりも凄まじい発言が耳に飛び込んでくる。
「浴衣好きっていうから、脱がすのも好きなのかと思って」
「ちょっと待て」
言い方よ。どういうイメージ持たれてるんだ。
そもそも時々おかしな先入観というか、変なイメージをダイレクトにぶつけてくることがあるが、一体その出所はどこなのだろうか。まさか全部が稲村咲妃ということは無かろう。
「っていうか、まだその浴衣好き設定生きてるの?」
「だって、言ってたし」
「まさか、否定しなかったから、ってことか?」
「ええ」
あっさりと首を縦に振られてしまっては反論する気も失せる。そりゃあ否定は出来ませんよ。嫌いじゃないモノを嫌いだと言い切れる根性は、生憎持ち合わせていない。
「……ふふ。冗談よ」
「わかりづらいなぁ……」
困惑に困惑を重ねようとしていたところで、彼女の方からそう告げられる。安心したような、そうでもないような不思議な感触。どこまでが冗談なのか。それを判断できる時は来るのだろうか。
「でもまぁ、にか……、じゃなかった。菜那らしいというか」
不意にまたいつもの癖が出てくる。取り繕ったモノの、果たして今この状況でそんなことをする必要があるのだろうか。
「咲妃に言われたからって無理する必要ないと思うけど」
「ん?」
名前呼びのことだろう。彼女も思うところはあるらしい。
たしかに、言われたからやっている――と思われていても不思議ではない。
でも。
「イヤではないから。あと、ムリもしてない。慣れてないだけ」
これが事実だ。
名前呼びに関しては無理強いをされたとは思っていない。ただただ俺が女子を名前で呼び慣れていないことが原因で、不自然になっているだけだ。
「勝手に慣れられても困るかもしれないけどさ」
「私も、嫌じゃ無いから」
「……ぇ」
思ってもいなかったことを言われて彼女を見る。
視線がしっかりとぶつかる。
やや暗いモノクロームな空間、その視線の温度感は掴めない。
だが、彼女は――菜那はずっとこちらを見つめていたのかもしれない。
「そう、なんだ」
「ええ」
言い淀むこともない。ただただ真っ直ぐに。
「……そっか」
「あ、でも……」
俺が納得しかけたところで、彼女は何かを考える。
何だろう。
――『でも』?
その後に続く言葉に、あまり良いイメージはないが。
「……だったら、私も慣れた方がいいのかしら?」
「へ?」
「……蓮くん、って」
「…………っ」
言葉が、出ない。
言語野がショートしたみたいに、何も言えない。
「それとも、蓮、って言った方が好みかしら」
さらなる攻撃が飛んで来た。
やばい。
破壊力が。
「どうなのかしら」
「えーっと……」
絵に描いたようなしどろもどろ。しっかりと見つめられ、視線を絡め取られている。少しだけこちらに近寄った彼女だが、こちらは足も動かない。
いっそのこと一任してしまった方が楽なのでは。
そんなことを思うのだが。
「あなたが選んで」
優柔不断な選択肢は削除されたらしい。
「……良いのか?」
「いつもはすんなりメニューを選んでくれるのに」
そう言って小さく笑う。ふと喫茶店での光景を思い出す。たしかにそうだけれど、それとこれとは話が違う。ああ、なるほど。これも彼女流の冗談なのかもしれない。
同い年のはずなのに、ただならぬ人生経験の差を見せつけられた気分だった。
よく考えれば、そもそもの出逢い段階からそうか。各種の手解きをしてもらっている時点で、明らかに人生経験は菜那の方が上だった。
だったら、もう。なるようになってしまえ。
「……文句言わないでくれよ?」
「ええ」
「だったら、『蓮』で」
「解ったわ、蓮」
ハッキリと言う。しっかりとした微笑みを携えて、それを俺にしっかりと見せつけるようにして、菜那はハッキリと俺の名前を呼んだ。




