4-13: はちみつレモンの甘酸っぱさとは
思えば、二階堂――菜那とふたりきりになるのは久々な気がする。
もちろんそれは体感的な意味合いだ。先週末には、彼女の家で、彼女の家のお風呂場で、そして彼女の部屋で密な時間を過させてもらっているので、その反動のようなモノはあるだろう。
そして、この1週間はしっかりと俺もクラスの一員である生活をしていたわけで、その分だけ離れていたような気持ちになっているのだろう。
不思議な感覚だった。だが、それは烏滸がましい発想でしかないような気持ちにもなる。
やはりまだ俺には、何が正解なのかがよくわからないままだった。
下駄の音がゆっくりと住宅街に響いていく。心地よい響きだ。カランコロンと表現してしまうと、あの妖怪大集合なアニメを思い出してしまいがちだが、実際の音を聞いているとあまりその香りはしてこない。それよりも花火の音とか、祭りの音とか、そういう音が重なってきそうな雰囲気の方を感じてしまう。
歩く速さには極力気を付けていたつもりだ。それに時折足元は見させてもらっているが、彼女の足に鼻緒ズレのようなモノは見えていない。痛そうな素振りも無いように思える。途中で別れた咲妃も、自宅に入っていくときは軽やかな足取りだったので恐らくは大丈夫だろう。
これで彼女たちが巧妙にそれを隠していたり、あるいは俺の視線を完全にトレースしていたりしたら、情けないことこの上ないのだが――視線はほぼバレていそうな予感はしていた。男子の視線なんて女子からしたらどんな問題よりも分かりやすいだろう。
そして俺はまたわかりやすいことに、次にどんな話題を展開しようか決めあぐねていた。
完全にしゃべる内容を見失った俺は、周りばかりを気にしようとして結局菜那に視線を向けてしまう。そして慌てたようにまた他所を見る――これの繰り返しだった。全く持って情けない。こればかりは本当に情けないことだとは思っているけれど、性根だけは未だに童貞野郎から卒業できていないのだ。
チラチラと見える住宅街。その家々にも徐々に見慣れた感じが出てきたのは、いよいよ二階堂邸――すなわち俺の役目の終わりが近付いてきていることの他ならぬ証拠だった。「……着いたけど」
「着いたな」
そして、そんなことを思っている間に、とうとう彼女の家の豪奢な門扉の前に辿り着いてしまった。
本当に、着いてしまったというのがピッタリくる。もう少しこの道のりが長くても良かったと思ってしまう。ほとんどずっと無言で歩いてきたはずなのだが、全然居心地が悪いとは感じていなかった。ふつうなら閉塞感の漂いかねない無言の時間なのに。
もっとも、勝手な想像を勝手に彼女に当てはめるのは良くない。菜那が同じ事を考えているとは思わなかった――のだが。
菜那はその門扉を背にしてこちらを見る。何かを言おうとしているというわけではないのだが、何とは無しに何かを伝えようとしているようには見えてしまっている。
それこそ俺の都合の良い解釈が出した愚かしい答えでしか無いのかもしれない。
自制しようとしておきながら、結局そういう都合の良い考えを押しつけようとしている。
ダメだ、ダメだ。そういうことは、ダメだというのに。
これ以上彼女を見つめていると余計なことを言いそうな気がする。そんな気しかしない。
「じゃあ、その……」
「入る?」
いい加減立ち去ろうという気持ちになって口を開いたところで、全く同じタイミングで菜那が訊いてきた。
「……え? でも」
彼女はそういうけれど。一度その表情を伺い、その流れで彼女の家の様子を覗う。
閑静な住宅街にそびえ立つと言ってもそれなりに過言では無いはずの二階堂邸には、玄関や門扉付近のオートライトを除けば、後はあのデカいリビングルームのライトが点けられていた。
それはつまり――いや、ちょっと待て。
さすがにその考えは短絡的すぎるだろう。
「……でも、誰か居るん――」
「居ないわよ。……お手伝いさんが電気を点けて行ってくれただけ」
返答を遮られ、その内容に思わず目を見開いてしまう。
俺の短絡的な考えが、まさかの正解だった。
大きな部屋でも何でも良いから、ひと部屋程度電気を点けておくというのは防犯上よく採られる方法ではある。二階堂邸でそれを採用していないわけはないと感じていたものの、いつもいつも家族が不在というのも考えづらかった。しかも今は夜だ。さすがにそれはあり得ないだろうと思っていたのだが。
どうやら、それはあり得たらしい。
「……上がってって」
そして、菜那の言い方が変わった。
選択を促す質問ではなく、完全なる提案。
「浴衣、脱がないといけないから。手伝って」
しかも、その中身すらも提案されてしまった。
「良いのか? 俺で」
「あなたしかいないもの」
「――っ」
首を縦に振ったか解らなくなるくらいに、俺の脳細胞は一瞬ショートした。
○
先週末以来の二階堂邸。ある程度この家の間取りは頭に入ってきているものの、やっぱりまだまだ慣れることはない。俺にとってはあまりにも非現実的な空間だからだろう。
まずは一旦リビング、そしてダイニングへと通される。
菜那の言うとおり部屋には誰も居なかった。飽くまでも防犯上の都合で電気が点けられていただけだったようだ。――そもそも菜那がこんなところで嘘を吐く理由なんて全く無いのだから、すんなりと信用すれば良かっただけの話ではある。
「お水、要るでしょ?」
「え? あ、うん。……ありがとう」
そう訊かれて学校の敷地を出てから水分補給をしていなかったことを思い出す。完全に忘れていた。
聡明な菜那のことだ。俺の様子からコレくらいのことは把握できたのだろう。
いろいろと考えることがあった――というほどでもないのだが、あれだけの重労働を経て喉の渇きを忘れていたくらいなのだから、もしかしたらいっぱいいっぱいだったのかもしれない。
結局もらった水は一気に飲み干してしまった。
「スゴい飲みっぷり」
「……ごめん」
「どうして? あんな大きくて重たいもの担いでいたんだから、喉が渇くのは当然でしょ」
思わず謝罪が出てしまったが、それを軽く窘められる。
行き届いた配慮をしてくれたことへの感謝の方が大事だった。言われて気付く。
「……スポーツドリンクみたいなモノの方が良いかしら」
「あぁ、いやそんな、お構いなく……」
他人様の家に上げてもらった挙げ句、そこまでされるのはさすがに恐縮してしまうのだが。
「スポーツドリンクはなかったけれどレモン果汁があったわ。クエン酸って疲れが取れるのよね?」
「……そうだね。はちみつレモンとかそういうのはよく……聞くね」
「なるほど」
小さく頷いた菜那は調味料などが入れられている棚を調べ始めた。
これは――、もしかしなくてもはちみつを探してくれているのだろう。
そこまでしてくれるなんて思っていなかったので、せめて少しだけでも助けになればと俺も棚の中をチェックする。
「あ、あった。はちみつ」
「え」
菜那のアングルからでは少し見づらいところにあった。
「ありがとう」
「いやいやそんな……」
「じゃあ、いくらでも使って。好きな味になるように調整してくれれば」
「あ、うん」
突如丸投げされた。
だけど、これは正しい判断かもしれない。好みの甘味と好みの酸味というのは必ず誰しもにあるものだ。酸っぱすぎるのが嫌いな人も居れば、逆に甘味が強いと嫌がる人もいる。――ちょっとだけ懐かしい気持ちになった。
「どうしたの?」
「ああ、いや……。ホントに自由に使って良いのかな、と」
明らかに、高そうだし。
「大丈夫よ。いくらでも使って」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
念のための再確認完了。少しレモンを強めに作らせてもらう。高そうなはちみつにビビったというのもあるが、疲労感を明日以降に残さないためにもはクエン酸多め。
「……ん」
軽く味見。イイ感じ。
チラッとだけ菜那の表情を覗った上で、もうひとり分作ってみる。同じくらいのレモンみがあって良さそうな気もするが、まだ控えめに。
「ちょっと味見してみて」
「私も?」
「うん。そっちは明日も大変そうだし」
少しだけ驚いたような顔をしたものの、すんなりとグラスを受け取ってくれた。こくこくと小さく飲んでいく姿があどけない。
「……おいしぃ」
「甘味とか酸味とか、足さなくて大丈夫? 本当はもうちょっとレモン足してもイイかな、って思ったけど」
「だったら任せるわ。あなたの見立てを信じてるから」
「ぉ、おう。任せとけ」
ギリギリのところで動揺と悦びを隠しながら味を再調整。改めて味見をしてもらったが大丈夫そうだ。
「じゃあ、学祭1日目お疲れさま、明日以降もがんばりましょうってことで」
「そうね」
菜那のとても穏やかな笑顔といっしょに。
「「乾杯」」
軽やかな音が響いた。




