ようこそ、猫BAR「NIKUKYU」へ
それは、夜空に星が瞬く、蒸し暑い夏の夜のことだった。
昼間のにぎわいから一転、シャッターが並ぶ人がまばらな駅前商店街を、
大きな革鞄を抱えたスーツ姿の女性が、険しい顔で歩いていた。
「部長のやつ、いつまでもネチネチと、マジうざい」
女性の名前は、高梨美咲。
二つ先の駅にある中堅出版社で働く、長野県出身の二十五歳だ。
この日は金曜日。
早目に仕事を切り上げて家に帰り、大好きなアーティストの会員限定の生中継ライブ映像を見ながら、のんびりとお酒でも飲んで過ごすはずだったのだが……。
「高梨さん、ちょっといいかしら」
帰り際に、彼女の上司である、銀縁眼鏡にひっつめ髪の田野倉部長に呼び止められた。
そして、提出した資料のちょっとしたミスをネチネチと指摘され、
「今日中に修正するように」
と言われて渋々直していたら、こんな時間になってしまった、という次第だ。
「帰る間際に言うとか、悪意あり過ぎでしょ。しかもミスだって大した話じゃなかったしさあ」
お陰で、ライブ映像が見られなかったのはもちろん、夕食を食べて帰ろうにも、店が一軒も開いていない。
「はあ……、お腹が空いたなあ」
そして、キュルキュル鳴るお腹をさすりながら「今日はコンビニ弁当か」と考えていた、そのとき。
「あれ? あんな看板あったっけ?」
商店街の外れの古い建物の前に、
見覚えがない白い看板が立てかけてあることに気が付いた。
古い木箱の上に置いてあるそれには、
ややクセのある黒い字で、こんなことが書いてある。
―――――
貴女も猫に癒されてみませんか?
食べ放題、歌い放題で、三千円!
ご新規様大歓迎!
BAR NIKUKYU
―――――
「へえ」と美咲は足を止めた。
どうやら地下にある店らしく、
看板の横には、下に続く細い階段がぽっかりと口を開けている。
店名と「猫に癒されませんか」と書かれているところを見ると、猫カフェみたいなものだろうか。
食事とお酒が出るようだから、猫カフェじゃなくて猫バーなのかもしれない。
「いいわね、癒しのある猫バー。ささくれだった私の心にぴったりよ」
加えて、彼女はお酒の強さに自信があった。
飲み放題だったら絶対に元を取る自信がある。
食べ物の店はほとんど閉まっている状況だ。
たまにはこういう場所に入ってみるのも良いかもしれない。
という訳で、彼女は鞄を抱えると、薄暗い灯の下、そろりそろりと看板の横にある急な階段を下りて行った。
下に到着すると、そこには磨き込まれた金色のドアノブがついたマホガニーの重そうな扉があった。
「思いの外、立派な扉だわ」
そっと扉を開けると、チリンチリン、と澄んだ音色が響き渡り、
ドアの隙間からオレンジ色の光がこぼれ、空調で冷やされたひんやりとした空気が噴き出してくる。
「お邪魔します」
小さな声でつぶやきながら、店内に入ると、そこには意外と広い空間が広がっていた。
映画に出てくるような古風なショットバーのような雰囲気で、カウンター席の他にテーブル席が三つある。
店内には誰もおらず、静かにジャズ音楽が流れるのみ。
「へえ、人がいないのは気になるけど、感じの良い店ね」
キョロキョロしながら、お店の人はどこにいるのかしらと考えていると、カウンターの奥の扉が開いて、人影が出てきた。
「いらっしゃいませ、お一人様ですか?」
それは、背の高さが小学校高学年の子どもくらいの黒猫だった。
シャツにベスト、アイロンが効いたズボンという、バーのマスター風の服装をしており、小さな魚がいっぱい散った、変わった柄のネクタイをしている。
もしかして、看板にあった猫とは、この猫のことだろうかと思いながら、美咲はうなずいた。
「はい、一人です」
「では、カウンター席にどうぞ」
使い込まれていそうなカウンターテーブルの真ん中の席に座ると、黒猫がおしぼりとメニュー表を出してきてくれた。
「本日は食べ放題ですので、お好きなものをお選びください」
「意外とメニューが多いんですね」
「はい、うちには一流ホテルで働いていた者がいるんで」
猫が得意そうに髭を動かす。
美咲は、うーんと悩んだ末、青椒肉絲と酢豚を頼んだ。
「おや、中華とは意外ですね。てっきりパスタあたりを頼まれるかと」
「お腹が空いているんで、ガッツリ食べたいんです、あ、ライスは大盛りで」
黒猫が笑顔で「わかりました」と言うと、カウンター奥のドアを開いた。
「青椒肉絲と酢豚入りました! ご飯大盛りで!」
ドアの向こうは清潔感が漂う広い厨房で、
そこにいた白い服にシェフ風の高い帽子をかぶった三毛猫が「了解」とでも言うように、黙って肉球のついた手をあげる。
黒猫がドアを閉めながら申し訳なさそうに言った。
「すみませんね、不愛想で。あいつ、職人肌なもので」
「いえいえ、ああいう方のほうが、腕が良さそうです」
そんな会話をしている間に、中華料理の良い香りが漂ってくる。
これは期待できそうだと思っていると、厨房のドアが開いて、銀色のお盆を持った三毛猫が出てきた。
黙礼をすると、丸っこい手で器用にお皿をカウンターの上に置く。
「おいしそう!」
と、美咲は目をキラキラさせた。
白いシンプルなお皿の上には、美味しそうな料理がのっていた
ピーマンの緑とパプリカの赤の色合いが食欲をそそる青椒肉絲に、黒酢あんがたっぷり絡んだ、照りてりの酢豚。
湯気の立つ大盛りの白ご飯も、サービスで付けてくれたのであろう子どんぶりに入った透明のスープも、もう何もかもが素晴らしい。
美咲の輝く笑顔を見て、三毛猫が満足そうにお辞儀をして厨房に戻っていく。
彼女は「いただきます!」と手を合わせると、夢中で食べ始めた。
「この青椒肉絲、ピリッとしていて夏にぴったり! 酢豚も最高!」
「お客さん、酢豚にパイナップルはOKなタイプですか」
「はい、大好きです」
「それは良かった、苦手な方もいますからね」
黒猫がニコニコしながら、注文したビールを注いでくれる。
そして、全て美味しく食べ終わった美咲が、満たされたお腹をさすっていると、グラスを磨いていた黒猫が、思い出したように尋ねてきた。
「入って来られたときに、少し険しい表情をされていたようですが、何かあったのですか?」
美咲は軽く眉間にしわを寄せた。
お腹がいっぱいになって怒りは和らいだものの、やはりまだ腹が立っている。
「ねえ、マスター、聞いてよ。今日部長がね……」
彼女は今日の帰り際にあった出来事を黒猫に話し始めた。
黒猫が、ふむふむ、とカクテルを作りながら熱心に話を聞いてくれるせいか、つい饒舌になる。
そして話が終わると、黒猫がカクテルを差し出しながら口を開いた。
「そりゃあ嫌な目にあいましたね」
「そうなのよ。あのオバサン、いつも本当に細かくて」
黒猫が、なるほど、と言いながら考え込む。
そして、思いついたように、「ちょっとお待ちください」と、カウンターの下から大きなリモコンを取り出すと、何やら操作して、その画面を美咲に見せてきた。
「そんなときは、こんな曲はどうですか?」
それはカラオケの選曲画面で、美咲が今日見そびれたアーティストの名前とアップテンポな曲名が表示されていた。
「まあ! 私、この曲大好きよ!」
よく分かったわね、と驚く美咲に、黒猫が胸を張った。
「いえいえ、我々の持つ猫ネットワークにかかれば、これくらい朝飯前です」
そういえば、部屋で音楽を聞いている時に、ベランダに猫が来て、ご飯をあげたことがあったわね、と思い出しながら、「私、歌うわ!」と美咲が宣言する。
スタートボタンを押すと、アップテンポな曲が店に鳴り響き始めた。
「じゃあ、歌います!」
彼女は、渡されたマイクを握り締めると、カウンターの横上部に取り付けられた画面を見ながら歌い始めた。
今日の出来事と日ごろの恨みをぶつけるように、拳を固め、声を張り上げながら熱唱する。
黒猫が尻尾をゆらゆらと揺らしながら、どこからかタンバリンを取り出して、リズムに合わせて鳴らし始める。
そして曲が終わり、心地良い汗をかいたわとスッキリしている彼女に、黒猫が、ぺちぺちぺち、と可愛らしい音で拍手した。
「素晴らしい勢いでした、お上手ですね」
「はい、とてもスッキリしました」
水とおしぼりを差しだしながら、それは良かったです、と黒猫がうなずく。
「気分はどうですか」
水をありがたく飲みながら、美咲は考え込んだ。
「……そうですね、ちょっと前向きになった気がします。とりあえず部長に対する怒りは消えました」
「それは良かったです。では、今度はこちらなどどうでしょう」
差し出されたリモコンの画面に表示されていたのは、同じアーティストの美咲が大好きなバラード曲だった。
「この曲を選ぶなんて通ですね。これは十年くらい前に発売された、知る人ぞ知る彼らのデビュー曲です」
「そうですか、ではどうぞ」
店に静かなピアノの前奏が流れ始める。
美咲は、マイクを軽く握ると、歌い始めた。
歌っているうちに、長野の実家でこの曲を聞きながら受験勉強したときのことや、東京に来たばかりの時に上手くいかず、暗い部屋でこの曲を聞いたことなどを思い出す。
黒猫も、しんみりとした表情で尻尾を揺らす。
そして、歌い終わると、彼女は深いため息をついた。
「お疲れさまです」
と、黒猫がグラスに水を注いでくれる。
透明な水の入ったグラスをながめながら、美咲が口を開いた。
「なんていうか、すごくスッキリしました」
「そうですか」
「はい。なんか、立派な編集者になるぞって思いながら上京してきた時のことを思い出しました」
「それは良かったです」
黒猫は嬉しそうに「にゃあ」と鳴くと、グラスを磨き始める。
その横で、美咲は考え込んだ。
部長は確かに嫌味だ。タイミングも悪いし、すぐに残業させようとする。
でも、言っていることは間違っていないし、注意してくれるのはありがたいことなのかもしれない。
「あの」と、美咲はワイングラスを磨いている黒猫に話かけた。
「さっきの部長の話なんですけど、部長ってタイミングが悪くて話がくどいだけで、結構いい人かもしれません」
「そうなんですか」
「はい。あそこまで細かく見てくれる人は他にいませんし、あの人の下に着いてから、自分で言うのもナンなんですけど、結構伸びた気がするんです」
「そうでしたか」
なるほど、という風にうなずく黒猫。
静かな店内に、ゆっったりとしたジャズ音楽と、キュッキュッとグラスを磨く音が響く。
そして、しばらくして。
美咲はご馳走様でしたとお金を払って立ち上がると、黒猫に向かってお辞儀をした。
「ありがとうございました。話を聞いてくださって。ご飯も美味しかったですし、お酒も美味しかったです」
本当に三千円なんかでいいのかしらと心配する美咲に、黒猫はにっこり笑った。
「いえいえ、こちらこそありがとうございます」
「この店、この時間帯にやっているんですか?」
「夜は不定期営業でして、主に昼のランチ営業をしております。昼のランチセットもお勧めですよ」
「そうでしたか、では、また寄らせてもらいます」
黒猫は目を糸のように細めて微笑んだ。
「ありがとうございます。良い週末をお過ごしください」
黒猫に手を振ると、美咲は扉を開けた。
暗く狭い階段を上がると、そこはいつもの商店街だった。
「何だか、夢を見ていた気分だわ」
美咲はそうつぶやくと、涼しい夜風に吹かれながら、すがすがしい気持ちで自宅へと帰っていった。
*
部長がただの意地悪オバサンではないと分かったからか。
猫バーに行った夜を境に、美咲はメキメキと力をつけていった。
部長のお眼鏡にかなう資料が作れるようになり、遂には大きな仕事を任されることになった。
大喜びで、報告とお礼を兼ねて例の店に向かったのだが、
「あれ、閉まってる」
下に降りる階段にシャッターが下りており、看板も出ていない。
あるのは、入り口に置かれた木の箱と、その上で昼寝をしている三毛猫が一匹いるだけ。
そういえば不定期営業だと言っていたと思い出し、帰り際に何度も寄るが、ずっと閉まったままだ。
それならばランチを食べに行こうと、休日に店に行くと、知らない人間の店主が店を切り盛りしていた。
「おかしいなあ」
首を傾げながら店を出て、階段を上がって、ふと横を見ると、入り口に置いてある木の箱の上に一匹の黒猫が寝ていた。
何だかあの黒猫マスターに似ているわと思いながら、
「ねえ、ここに夜出てる店、知ってる?」
と尋ねてみるものの、猫は眠そうに片目を開けて、にゃーんと鳴くだけだった。