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今回から沙恵視点になります。
2023.07.25 誤字修正
小学生になる前に引っ越しをした。お母さんの実家だ。
仲良くしていた友達と別れるのは寂しかったけれど、毎晩のように怒鳴り散らしていたお父さんと離れて暮らす事になったから、とお母さんに説明されてとてもホッとした。
お父さんの怒鳴り声が響いて、怯えて泣きじゃくる妹の声を抑えるように抱きしめていた時、何かが私の背中を掠めて行った。
派手な音を立てて落ちたそれは、フライパンだった。
飛んできた場所が、もし、もうちょっとズレていたら私や妹は怪我をしていただろう。
妹の由恵は大きな音に驚いて涙が止まったというのに、今度は私の目から涙がボロボロとこぼれ落ちた。
それまでお父さんにただ縋るようだったお母さんが、激しくお父さんを非難した。思えばお母さんが怒鳴った姿を見たのはこれが初めてだったかもしれない。
そして、お母さんはこの時、これまでの生活をすっぱり切り捨て、私と由恵を連れて遠く離れたお祖父ちゃんの家に引っ越したのだ。
お祖父ちゃんの家の一階は果物屋さんで、お祖母ちゃんと二人でお店をしていた。
これまで賃貸アパートだったから、一軒家が珍しくて何回も家中を由恵と二人で探検した。
バタバタと足音を響かせ、キャッキャッと笑い声を上げても怒鳴り散らす人は居なかった。
私は幼稚園を転園し、まだ三歳になったばかりの由恵は今年度が終わるまでは家で過ごして四月から入園する事になった。
由恵はお母さんにべったりだったけど、私は果物屋さんの店先でお祖父ちゃんとお祖母ちゃんを真似て店番をするのが好きだった。
お客さんが「可愛い看板娘だね」「お手伝い偉いね」と褒めてくれて、誇らしかったものだ。
お釣りを渡すと「もう計算が出来るの?!」といっぱい褒められた。
私だって四月には小学生になるのだ。計算は得意よ、と胸を張って随分と生意気だったと思う。
それでも、みんな「賢い」「しっかりしてる」と褒めそやしてくれたから「可愛い」と言われると逆に、お手伝いが至らなかったのかと心配になってしまう程だった。
もちろん小学生になってからもよく店先に立っていた。
だから、お祖父ちゃんとしばらくしてお祖母ちゃんも亡くなった時、とても悲しかった。
でも、私が泣くよりも先にお母さんの涙を見た時に『私がしっかりしなきゃ』と思ったのだ。
とはいえお母さんはいつまでも泣いていたりはせず、細々と続けていた果物屋を喫茶店に改装して、すぐに新しい生活を整えた。
お祖父ちゃんとお祖母ちゃんの痕跡を消してしまうようで悲しかったけれど、お祖父ちゃんには亡くなる前にちゃんと了承を得ていたらしい。
お母さんがお店に立つから私と由恵が家事をするようになった。
小さかった由恵は覚えていないと思っていたけれど、特にお父さんくらいの年齢の人に酷く怯えていたから、営業時間中にお店に行く事はほとんどなかったけれど、私は「良いお姉ちゃん」と褒められるのが嬉しくて時間があれば、店先に姿を見せていた。
由恵は、初めはお父さんと同年代の人が苦手なのだと思っていたけど、どうやら学校で両親が離婚した事を同級生の男の子に揶揄されたようで、気が付けば年齢問わず男嫌いになっていた。
その為、中学からは中高一貫の女子校へと進学したのだ。
そんな由恵がずっと心配だったけれど、友達の影響で少女漫画好きになった由恵が、少しずつ男性にも興味を持つようになって、大学は共学を選んだ時には、もう大丈夫だと思った。
だから私は安心して実家を離れることが出来た。
職場は自宅から通える範囲だったけど、動物園の飼育員というのは生き物を相手している事もあり、定時という枠に嵌めるには難しいのだ。
少しの通勤距離が惜しかったから就職と同時に一人暮らしを決めた。借りているアパートは最寄りの駅から徒歩七分、動物園からなら徒歩五分の距離だ。
実家を出たといっても、私は時間が許す限り戻ってお手伝いをするようにもしていた。
由恵もお母さんも私より十センチ程身長が低いので、特に電球の交換や植木の剪定など脚立に乗って手を伸ばさなければならない作業はとても喜ばれた。
その為に実家に帰るというのはしんどいと思う事もあったが、頼られる事はとても嬉しかった。
由恵が大学四年の夏頃、彼氏を紹介された。
ひと目見て『由恵が選びそうな子だ』と思った。
男臭さを排除したような中性的な体格で身長は私とほとんど変わらず、いつもニコニコとしていて人懐っこい美人だった。
こんな少女漫画のヒーローのような子をよく現実で見付けて来たものだ、とただただ感心したのを覚えている。
由恵の彼氏は、原田克己という名前だ。
由恵が克己と名前を呼び捨てにしているし、本人もそれでいいというので、自然と私もお母さんも「克己」と呼び捨てにするようになっていた。
克己は一見自分とあまり変わらない細身に見えていたが、力仕事でも苦を感じさせず、やっぱり男の子なんだと感心した。
それも、お姉ちゃんだからという義務心と、褒められたいという下心のある私とは違って、その笑顔は純粋にお手伝いを楽しんでいる事が伝わってくるから、敵わないと思った。
由恵やお母さんから、克己がやってくれたから、と連絡が来ることも増えて、頼りにされない事を寂しく思う反面、しんどいと思っていた事をやらなくて済んだことにホッとしている自分も居た。
複雑な心境になりながらも、何故だか懐いてくる克己に悪印象はない。
克己は動物園の裏話に好奇心を刺激されるようで、実家に帰った私に、話をおねだりしに来るのだ。
決して無理強いはせず「待て」を言われた犬のような様子が、私が担当しているリスザルのシン君に姿がダブって、可愛いらしい。
私のしていたお手伝いを嬉々としてやってくれる姿も微笑ましい。
シン君は、私が初めて担当した子だ。おそらくペットとして飼われていたのに捨てられたのだ。
逃げ出したのではなく捨てられたと判断したのは、飼主が名乗り出なかった事にあるが、それだけではなく人から餌を貰うのを酷く警戒する様子が見られたので、虐待されていた可能性が高いからだ。
そんなシン君だったが、献身的に世話をする事によって今は信頼を勝ち得て、私の側に居たがるようになった。
でも、こちらの仕事を邪魔するような事はしない。
ただ、私の姿を見付けると、目をキラキラさせて寄ってくる姿はとても可愛い。
どこかシン君を彷彿させる克己の人懐っこさに絆されて、ついおねだりされるままに色んな話をしてしまう。
大抵由恵も一緒に聞いて笑っていたので、ますます気兼ねなく接するようになっていた。可愛い義弟が出来た気分だった。
だから、由恵が随分と鬱屈した思いを抱えていることに気付かなかったのだ。
あの日、実家に行こうと駅に向かっている時に、不意に克己に声を掛けられた。
振り向くと、黄緑色のバイクに跨ったまま、倒れないよう足を道路につけて克己が立っていた。
「また妹さん送ってきたの?」
「うん、そう」
克己の妹さんは、動物園の駅と次の駅の間にあるケーキ屋さんでアルバイトをしている。
動物園に勤める同僚たちの間でも、フワフワのスポンジが美味しいと評判のケーキ屋だ。
住んでいるアパートとは反対方向でほとんど職場と家の往復しかしたことが無い私は行った事は無かったけれど、同僚が差し入れで買ってきてくれたシュークリームは食べたことがある。
ラム酒の香りがするカスタードクリームだった。バニラビーンズの香りと相まって口の中から鼻に通り抜ける甘い香りが美味しさを引き立てていた。
「実家にお土産で買っていこうかな?」
「えー、智恵さんのケーキの方が美味しいよ」
克己は妹さんのアルバイト先のケーキよりも、うちのお母さんが作った『智恵さんのケーキ』の方が好みのようだ。
喫茶店を営むお母さんのケーキはパウンドケーキの様なずっしりとした生地のケーキが多い。
クリスマスやバレンタインなどのイベントの時にお客さんに振る舞うので、四角く焼いて小さくカットしたものでも、満足感が得られるように考えられている。
今日はもう駅だしわざわざ引き返してお土産を用意する気もない。
そういえば電車の時間が差し迫っていた、と左手の腕時計で時間を確認すると、丁度、電車が入ってくる案内が聞こえた。
「あっ」
乗る予定だった電車のアナウンスに思わず声を上げる。
とはいえ、特に帰省の時間を決めているわけでも無いから次の電車でも問題なかった。二十分くらい待つけど……。
「今の乗るつもりだった?サテライトなら今から行くから乗ってく?」
母の喫茶店の名前を上げられて、以前にも克己のバイクに乗せてもらった事があったので、お言葉に甘えることにした。
―――思えばそれが間違いだったんだ。
サテライトに着いて、初夏の陽気の中でライダースジャケットを着ていた克己は「暑い」と少しのぼせた様子だった。
私から予備のヘルメットを受け取りながらも、ジャケットの前を全開にして下に着ているTシャツの首元を引っ張ってパタパタと仰いでいる。
「克己!」
「由恵。おはよう」
そこに由恵が二階の玄関から走り出してきて、克己の腕にしがみついた。
由恵の勢いにふらつきながらも、克己はニコニコと挨拶をする。
「ただいま」
「ねぇ。克己のバイクに乗せて?わたし、海が見たい」
私も由恵に声を掛けたけれど、それには気付かなかったようだ。克己に甘えておねだりをしていた。
「由恵は止めといた方が…」
「なんで?お姉ちゃんは良くてわたしは駄目なの?」
「体幹無さそうだから」
ああ、私が居ることには気付いていたのか。だとすると、意図して無視された事になる。
由恵のおねだりを断る克己に「最悪だ」と思った。
由恵はバイクに乗せてもらった私に嫉妬しているのだ。それなのに克己に断られてしまえば、余計に拗れる。
「乗せてあげれば?」
「沙恵さんがそう言うなら」
思わず口出ししてしまったが、克己の返事は更に事態を悪化させた。
その言い方だと、由恵の望みではなく私の望みだから叶えると言っているように聞こえる。
案の定、克己が由恵にさっきまで私が被っていたヘルメットを渡そうとすると、由恵はそれを拒んだ。
結局、由恵の車で出掛けた二人を見送りながら「仲直り出来ますように」と心の中で祈るしか出来なかった。
だけど、昼前に帰ってきた車には克己一人だった。
「おかえり。由恵は?」
「しばらく一人になりたいみたい。連絡来たら迎えに行く」
残念ながら祈りは届かず、由恵の機嫌は治っていないようだ。
克己の返事に落胆したけれど、由恵の誤解なのだから落ち着くのを待つしかない。
二人が笑っているのを見ているのが好きなのに、二人の喧嘩の原因になってしまうのは不本意だった。
「ねぇ裏庭の草、刈ってもいい?」
「え?」
「ただ待っているのも暇だし、楽しそうじゃない?」
ぼんやり窓の外を見ている克己は、由恵の事でも考えているのだろうか、と思ったのに、思わぬ事を言い出した。
二人が別行動を取ったときの様子は分からないし、克己を見ている限りそんなに深刻ではないかもしれない。
きっと大丈夫と思えたらお腹が空いていることに気が付いた。
「それならお昼ご飯食べてからにしようか」
「やったー」
昼からは日が高くなってきて増々暑くなるからあまり良い時間帯ではないけれど、草刈りにOKを出したら克己が無邪気に喜んでいる。
少し気が抜けた私は二人分の昼ご飯を作り始めた。冷凍庫の余ったご飯を使ってリゾットっぽいものとサラダを用意する。
「物置に草刈り機もあるけど、エンジン音が凄く響いて煩いの」
「へぇ〜、使ってみたい」
そんな雑談をしながら食事をしていると、外階段を登ってくる足音が聞こえた。
由恵が帰ってきたのか、と思ったけれど足音は二人分だから首を傾げた。
インターホンを鳴らすことなく玄関が開いたので、やっぱり由恵だったようだ。
私と克己は「おかえり」と声を掛けた。
だけど、由恵は返事をすることなくズカズカとダイニングテーブルの横に来た。
グッと眉間にシワを寄せて厳しい顔をしている。
そして、由恵の右手に引かれて長身の眼鏡を掛けた男性も一緒に現れた。
「克己、好き」
「うん?」
「克己はわたしの事好き?」
「うん」
「じゃあ何で怒らないの?」
「うん?」
「友久と手を繋いでいるけど何とも思わない?」
「うん」
克己がリゾットを頬張った状態で、由恵が矢継ぎ早に質問をして、克己はモゴモゴと咀嚼しながら満足に答えられない。
だけど、最後の「うん」は駄目だろう。
由恵と手を繋いでいる彼と私は、ただ茫然とこの会話を聞いていた。思いも寄らない展開についていけなかった。
由恵の質問に顔色を変えないのは、克己だけだった。
その様子に由恵は明らかに落胆していた。
「……克己、別れよう」
「いいよ。……あっ」
ようやく口の中のものを飲み込んで別れ話に軽く返事して、何か言いたげにこちらを見てきたがこの展開について行けない私は、克己の迂闊な言動に焦るばかりだ。
それは眼鏡の彼も同じようで顔が青褪めている。
「気にしなくていいよ。お母さんやお姉ちゃんと約束するのは克己の自由だから」
この場で一番克己を理解していたのは由恵だった。
的確に克己が欲しかった回答をして、克己は「良かった~」と微笑んだ。
由恵はその顔を見ることもなく、眼鏡の彼の手を引いて自室に行ってしまった。
「良かった、じゃないでしょ?もう由恵の彼氏じゃ無いんだよ」
「うん」
「由恵とは上手くいってなかったの?」
「んー、分からない。僕は楽しかったけど?」
首を傾げて考えている克己に、私だけが焦っている。
先程の由恵の質問を思い出すと理由は明白だ。
由恵は自分が恋人として愛されている実感が持てないんだ。
「自分以外の男性と一緒に居て嫌じゃなかったの?」
「友久だったから」
これは後から知った事だけど、眼鏡の彼は友久というらしい。その友久君は由恵と克己と同じ大学を出ていて、昨年作った卒業制作のグループメンバーのうちの一人だったらしい。
克己が由恵を落ち込ませてしまう度に、由恵を慰めていたのは友久君だったようだ。
今日の由恵は落ち込んでいるから、友久君と一緒にいるのは当然だと思っている。
その歪な思考回路に私は理解することを放棄した。
「今日はもう帰って」
「草刈りは?」
「無し!日を改めて私がするから」
由恵と別れた以上、家の用事をやってもらう理由も無い。
「とにかく帰って」
克己を理解出来なくても、由恵から話を聞かせてもらえればいいのだ。
今は感情が昂ぶって別れ話をしてしまったけれど、二人はお似合いだったから、由恵が落ち着けばきっとよりを戻すことも出来るはず。
抵抗する克己をなんとか帰らせた後、昼ご飯の後片付けをしながらもチラチラと由恵の部屋のドアが開かないかと落ち着きなく視線を送ってしまう。
まぶたが腫れて浮腫んだ顔で出てきた由恵を見て、随分と泣いたのだと思った。
「克己は帰らせたから」
とりあえず克己はもう居ない事を伝える。
克己が未練を見せていたら残らせても良かったのだけど、あの様子だと帰ってもらう方が良かっただろう。
「さっき克己にも言ったけど、お姉ちゃんと克己が連絡取ったりするのは自由だよ」
言われた言葉に私は、返事が出来なかった。
まだ克己とよりを戻す可能性があると思っていたけれど、穏やかにそういう由恵はもう吹っ切れているようだった。